元和6年(1620)4月18日、彦根藩士青木五郎兵衛の妻が亡くなりました。
つまり平成最後の年が四百回忌になります。
戒名は九品院殿智海妙恵大姉。没年はわかりませんがまだ十代後半だったと考えられます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/48/e46a0b29cba8263db0b990b1dce9a44f.jpg)
青木五郎兵衛家は江戸時代の間に断絶していますし、もし残っていたとしても彦根藩士青木家も妻の九品院も有名な人物でもなければ、地元の偉人というわけでもありません。
ただ、九品院は想像を膨らませるのに楽しい女性ではあります。
父親が真田信繁(幸村)なのです。
信繁には九人の娘がいたとされていて、その四女が九品院です。
先ほど、没年が十代後半書きましたが、兄大助幸昌が慶長6年(1601)に誕生し、妹で五女阿梅(片倉重綱室)が慶長9年に生まれていて、この兄妹の間に三女あぐりと四女九品院(本名不明)が居るからです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/9e/cfe4d102e4495217d72ba44d931efdc8.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/1e/3c3336a3df7ef17829f623a2512e8de4.jpg)
ですから、数えでも17歳から20歳の間に亡くなったことになります。
九品院がどの様な経緯で彦根藩士に嫁いだのかはわかりませんが、若い女性が敵地に嫁ぐ苦労は偲ばれます。
若く亡くなった九品院は、青木家の墓地である少林禅寺に2人の人物と共に埋葬されましたが、その墓石は歴代住職と向かい合う形になっていていつまでも仏の庇護を受けているようにもみえるのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/8f/5b575beb88761f9c7328eba4c32f7528.jpg)
関連地:彦根市 少林禅寺
つまり平成最後の年が四百回忌になります。
戒名は九品院殿智海妙恵大姉。没年はわかりませんがまだ十代後半だったと考えられます。
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青木五郎兵衛家は江戸時代の間に断絶していますし、もし残っていたとしても彦根藩士青木家も妻の九品院も有名な人物でもなければ、地元の偉人というわけでもありません。
ただ、九品院は想像を膨らませるのに楽しい女性ではあります。
父親が真田信繁(幸村)なのです。
信繁には九人の娘がいたとされていて、その四女が九品院です。
先ほど、没年が十代後半書きましたが、兄大助幸昌が慶長6年(1601)に誕生し、妹で五女阿梅(片倉重綱室)が慶長9年に生まれていて、この兄妹の間に三女あぐりと四女九品院(本名不明)が居るからです。
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ですから、数えでも17歳から20歳の間に亡くなったことになります。
九品院がどの様な経緯で彦根藩士に嫁いだのかはわかりませんが、若い女性が敵地に嫁ぐ苦労は偲ばれます。
若く亡くなった九品院は、青木家の墓地である少林禅寺に2人の人物と共に埋葬されましたが、その墓石は歴代住職と向かい合う形になっていていつまでも仏の庇護を受けているようにもみえるのです。
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関連地:彦根市 少林禅寺