(当エントリは、当ブログ管理人が月刊誌に発表した原稿をそのまま掲載しています。)
3.11の悲劇からまだ半年しか経っていないのに、この醜態はなんなのか。首都圏が台風15号の直撃を受けた9月21日、大量の帰宅難民が街にあふれ、東京はまた3.11を思い起こさせる混乱の渦に巻き込まれた。鉄道が軒並みストップして帰宅が困難となった労働者たちがバスやタクシーを求めて暴風雨の中、長時間並んだり、無謀にも徒歩で帰宅しようとしたりするなど、相変わらず芸のないドタバタ劇が繰り返されたのだ。
「非常に強い」勢力の台風が東日本に上陸したのは、統計の残る1951年以降では意外にも初めてというから、油断していた面はあるのかもしれない(ちなみに、「非常に強い」は気象庁が台風の勢力を示す表現としては「猛烈な」に次いで2番目に強い)。しかし、いつ襲来するか予想ができない地震と異なり、台風は進路予測がリアルタイムで伝えられ、到達日時もほぼ予想できるにもかかわらずのこの醜態。東京にオフィスを構える企業の意識の低さに改めて愕然とさせられた。彼らの辞書に学習という文字はどうやら本当にないようだ。
●非常時の災害対策に「頑張ります」と答えた企業
3.11直後、あるインターネットのニュースサイトに興味深い記事が掲載されていた(閲覧直後、たいした記事ではないと思って保存しておかなかったのが悔やまれる)。ある調査会社が、首都圏にオフィスを構える主要企業に対し、近い将来予想される首都圏直下型地震に備えてどのような対策を講じているかのアンケート調査を実施したのだが、その結果が実に様々で興味深いというものだった。すでに来るべき大地震に備えて首都圏以外に本社機能を分散したり、西日本に素早く本社を移転したりするなど機敏に動いた企業がある反面、ほとんど対策らしい対策を講じていない企業も目に付いた。
記事によると、最もひどい回答だったのはある都内の大企業で、首都圏直下型地震に備えた対策のはずなのに、本社機能の分散先は同じ東京23区内。地震発生時の措置も「ただちに出社できる社員を本社に招集する」となっていた。調査票を見て呆れた調査会社の担当者が「首都圏直下型地震が起きたとき、23区内なんてどこも同じです。こんな対策では分散の意味がありませんよ。交通機関も止まり、道路も渋滞で動かなくなるのにどうやって社員を集めるんですか?」と電話で尋ねると、受話器の向こうから返ってきた答えは「頑張って集めます」だったという。この企業の危機管理に対する調査会社の評価が、5段階中の最低だったことはいうまでもない。
●パニックを起こすのはいつもエリート
“A PARADISE BUILT IN HELL”(直訳すれば「楽園は地獄の中で作られる」、邦題「災害ユートピア」)という本を著した米国人ノンフィクション作家、レベッカ・ソルニットさんによれば、未曾有の大災害に見舞われたとき、民衆は見ず知らずの人に水や食料そして寝場所を与え、時として命すら投げ出し助け合う。ソルニットさんは、そのような理想社会をなぜ平時に作ることができないのかという問題提起をしながら、大災害の直後、一時的に発生するそのような「疑似ユートピア」について、次のように考察している。『…もちろん、災害自体は悲劇だ。だが、それはまるで「革命」にも似ていて、人々は突然未来が大きく開けたことを感じ、何かが可能であることを、驚きやパッション、強烈な思いを持って語るのだ。それは、自分の生活、アイデンティティ、コミュニティがこれまでとはまったく異なるものになり得る、という感覚だ。怖いことでもあるが、同時に解放的なことでもある』。
確かに災害は人々から暮らしの基盤を根こそぎ奪い去ってしまう。大半の人はそれをただ単なる悲劇としか捉えられないだろう。だが、ものの見方を180度変えてみよう。会社の建物が津波で流されたり、そこまで行かなくとも倒産したりという事態になったら、社長も社員も失業してしまう。だが、それまでは「社長-社員」として上下関係だった2人は「失業者」として平等になる。復興がうまく行き、社員だった人が下克上を実現させて社長になれるかどうかはわからない。しかし、すべてを破壊する災害は万人を平等にするまたとない機会でもあるのだ。
平等になってみると、それまでの社長の地位や役職は通用しないから、誰もが人間性だけで勝負しなければならなくなる。大災害の時に人間の本性が現れるのはこのためだ。人間性を磨く努力をせず、肩書きにモノを言わせて自分の主張や方針を押し通してきた人に限って、このような非常時に馬脚を現してしまう。永田町や霞ヶ関、丸の内界隈にはこの手のタイプが多い。
ソルニットさんは、『日本では東日本大震災や原発事故への政府の対応が遅く、国民はひどく落胆した。そもそも政府に何かを期待し、まともになるよう求める議論自体が間違っているのだろうか』とのインタビュアーの質問にこう答えている――『いや、そうした議論自体は素晴らしい。災害が起こってはじめて、人々は政府とは何か、いったい政府に何が期待できるのかを知ることができるし、深く考えることになるからだ。アメリカでは、…(巨大ハリケーンの)カトリーナの後に市民のコミュニティがより機能するようになり、政府に要求を突きつけるようになった。民主主義における政府の質の向上は、何といっても国民の圧力の大きさいかんにかかっている』。
ソルニットさんは、未曾有の災害に直面したときパニックを起こすのはいつも民衆ではなくパワー・エリート(支配層)なのだという。福島第1原発事故に関して、必要な情報が隠されたり、数ヶ月も経ってからこっそり後出しされたりすることに対して、政府や東京電力の幹部は決まって「パニックが起きるのを防ぐためにやむを得なかった」と愚にもつかない言い訳をするが、彼女は、災害時に一般市民のパニックが起こると想定し実際にパニックするのはエリートたちであり、むしろその“エリート・パニック”こそが社会を危険に陥れると説明する。
支配層が民衆のパニックを恐れる理由に関して、彼女は「ハリウッドに代表される娯楽映画の影響が大きい。災害時にみなが落ち着いて整然としていては、チャールトン・ヘストンやトム・クルーズら英雄の出番がなくなってしまうからだ」と主張しているが、これは米国人特有のジョークだと思う。本当の理由は恐怖だろう。災害そのものへの恐怖ではなく「災害が万人を平等にする」ことに対しての恐怖だ。初めから失うものがない民衆には恐れるものもないから、生き生きと行動ができるようになる。
このように考えれば、大災害に際して「大したことがないので落ち着いて行動するよう」訴えて臆病になるエリートと大胆に人助けをする民衆、その2つの対照的な行動を合理的に説明することができる。
●日本の「出世レース」の欺瞞
今、欧米諸国でも政府や企業のトップが重要な決断を先送りする傾向が強まっており、そうした現象を「日本化」と呼んでいるそうだ。いち日本国民としては、そんな呼び方をする欧米人を失礼な奴らだと思うが、重要な決断ができないことに関しては、日本政府・企業トップは他の追随を許さない独走状態にある。
なぜこんなことになってしまったのか。その理由は実は簡単である。日本の組織の出世レースにおいて極端な減点主義が採られているからだ。
減点主義とは、平たく言えば先に失敗をした人から順に脱落させていくというシステムのことである。中小企業やベンチャー企業、外資系企業はこの限りではないが、日本の官公庁や大企業(特に独占的地位にある保守的な企業)は上位の役職への昇進者をほとんどこの方法によって決めている。1人、また1人と失敗をした人から順に脱落していき、最後に1人だけ残った人にトップの栄冠が輝くのだ。
そのような組織でトップになりたければどのように行動すべきか。答えは簡単。何もしなければいいのである。何もしなければ失敗することもない。そして、なまじやる気を出したライバルが失敗をして脱落するのを横目で見ながら、ほくそ笑んでいればいいのである。
政治家や官僚、電力会社やJRといった特権的な組織のトップたちはどうしてこう揃いもそろって無能で、嫉妬深くて、そのくせ自己保身能力だけには長けていて、しかもケチで厚かましいのか。賢明な本誌読者の大半はそのような憤りを抱いていると思う。筆者もまた、安全問題研究会を主宰しながら、過去、JR西日本の尼崎事故対応、JR東日本の信濃川不正取水問題への対応、そして福島在住の原発被曝者としての立場から東京電力の原発事故対応をつぶさに追いかける中で同じ疑問を抱いてきた。こうした資質のほとんどは「何もしない人間ほど昇進する」という不毛なシステムによって生み出されている。「放射能漏れを半年経っても止められない東京電力経営陣は無能の集団だ」などと今頃批判しても始まらない。日本のシステムは「クズ選抜装置」であり、それで選抜される経営陣は「粒ぞろいの無能たち」なのだから、彼らに何かができるほうがおかしいのだ。これから起業する若者たちに声を大にして訴えたいが、日本企業の幹部選抜システムを導入するくらいなら、アイドルグループ・AKB48のようにジャンケン大会で幹部を選抜するほうが何万倍も良い結果が得られると思う。
日本の組織に宿命のように寄生するこの病を切開しなければ、日本はいずれ地震でも津波でも原発事故でもなく、「何もできない病」によって滅亡するだろう。ウォッカの瓶を空ける本数で党幹部の昇進を決めていたソ連が、ある日突然解体したように。
●ウォルフレンの「予言」
日本を苦しめるこの「難病」に対して、もう20年近くも前に的確な診断を下していた外国人がいる。「人間を幸福にしない日本というシステム」の著者でオランダ人のカレル・ヴァン・ウォルフレン氏である。彼は同書の中で、日本を自動操縦装置で水平飛行することしかできない飛行機になぞらえた。離陸も着陸もできないこの不思議な飛行機には1億人の乗客が乗っているが、その誰もが根拠のない無邪気さによって、自分たちの飛行機はこの先何十年、いや何百年も水平飛行をし続けられると信じている。いくら日本製の自動操縦装置が世界一優秀といっても、燃料が切れれば飛行機は墜落せざるを得ないが、乗客・乗員の誰も燃料切れの可能性に気付かず、静かに破局の瞬間を待っているのだという。そういえば最近もどこかでそんな話があった。根拠もなく安全と言い続け、地震への備えなどまるでなく、いざ事が起きてから情報隠しに明け暮れているどこかの企業の話である。
彼は、日本が早くこの危機に気付いて被害を最小限に食い止めてほしいと願いながらも、その可能性は残念ながら低く、手痛い打撃をこうむると予想していた。彼の予言が現実のものとなったいま、私たちは何をすべきなのか。ウォルフレン氏はすでにその回答も用意している――官僚独裁の実態を見抜き、民主主義を骨抜きにした官僚と闘うこと、記者クラブを廃止させマスコミを正常化すること、政治家を官僚に対する監視装置として育成していくこと。そして、そのひとつひとつが国民の直接行動によってのみ達成されうることを、彼はもう20年近くも前に明らかにしている。
9月19日、東京・明治公園には6万人を超える市民が集まり、反原発を訴えた。私には、台風ごときで慌てふためいている東京都民と、明治公園で「経団連の実力者たちに抵抗する意思があることを思い知らせ」た(大江健三郎さん)東京都民が同じ人たちだとは思えない。今はまだその両方が東京都民の偽らざる姿だとしても、いずれ東京都民、そして日本国民は官僚と経団連と対決する「民主主義の鬼」とならなければならない。行動せず文句ばかり言っている民衆と、国民のための決断をせず、自分の周囲の小さな利益ばかりを追い求めている支配層の中にこそ、日本の真の危機があるのだから。