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【ほぼネタバレなし】映画「すずめの戸締まり」を見て

2022-12-04 19:27:11 | 芸能・スポーツ
すずめの戸締まり」を見てきた。新海誠監督の話題の最新作であり、災害がテーマとなるのは「君の名は」「天気の子」の前2作と同じ。ちなみに私は、「君の名は」は話題性もあり劇場で見たが、「天気の子」は前作ほどの評判でなかったためか劇場では見ず、かなり遅れてテレビ放送版で見ている。

この「すずめの戸締まり」、東日本大震災を経験している人にはお勧めできないとするレビュー・感想もあるが、私が個人的に関わっている原発訴訟の担当弁護士が、仕事の息抜きに見て「良かった」と話しているとの噂を耳にし、「その人」が評価する作品なら見ておくべきだろうと思ったことも、わざわざ劇場に足を運ぶ動機のひとつだった。

全体を通していえば、この作品から受ける印象は前2作とはかなり異なる。福島県であの3.11を経験した1人として見ても違和感・拒絶反応などはなく、むしろヒロイン・岩戸鈴芽(すずめ)に素直に感情移入できた。2時間の上映中、スクリーンから目を逸らすことが一瞬もなく、文字通り「釘付け」だった。こういう作品に出会えることは、近年ではとても珍しい。

新海作品の特徴は、人々の生活空間である<リアル>と、非日常が織りなす<ファンタジー>の世界を、主人公やヒロインが自由に行き来しながら、人類に災厄をもたらそうとするものと戦いつつ、それが主人公やヒロインの過去の記憶や経験とつながっていて、<リアル>と<ファンタジー>が最後に結合したところで張られていた伏線が回収される、というストーリー構成と表現技法にある。新海作品は、主人公やヒロインがこの<リアル>と<ファンタジー>の世界を行き来する場面では、必ずその作品の象徴となっている「ツール」が登場し、そのツールを介して、ここからここまでは<リアル>でここから先は<ファンタジー>という切り替えが、まるでスイッチをON-OFFするかのようにはっきりした形で行われるところに特徴がある。「君の名は」を例に取れば、それは主人公とヒロインとの「入れ替わり」によって描き出される。

下手な作品では、この切り替えが曖昧で、結局どこまでが<リアル>でどこからが<ファンタジー>なのかが判然としないまま終わってしまう、というものもあるが、新海作品はこの「切り替え」がどこで行われているかがはっきり描かれているため、本来なら断絶しているはずの<リアル>と<ファンタジー>との行き来にまったく違和感がなく、物語を理解しやすい。この表現技法はもちろん今作品でも踏襲されており、<リアル>と<ファンタジー>の行き来にはある「ツール」が登場するが、それはぜひ作品をご覧いただきたい。

新海監督の作品は、2000年代頃に量産された「ネタ・記号消費」「キャラ萌え」だけの作品群とは明らかに(比較対象にすること自体が失礼というレベルで)一線を画していたし、主人公やヒロインが根拠なく万能感を漂わせていた「痛い」セカイ系とも一線を画しているように思う。カテゴリーとしてはセカイ系に属するものであっても、<リアル>の部分で描かれる主人公やヒロインは等身大で、「うちのクラスにもいそうな少年少女」として描かれ、現実から遊離しているようには見えない。新海監督がここ数年でオタクのみならず、多くの一般市民からの支持を獲得できた背景に、この<リアル>部分の、地に足の着いた描き方があることは間違いない。

ストーリー構成も表現技法も、そしてそのようなキャラ設定も前2作とほぼ同じなのに、見終わった後に受ける印象が前2作と異なる理由は、私は大きく2つあると思う。1つ目は、「すずめの戸締まり」から感じる強いメッセージ性である。前2作では、新海作品独特のスケール感のある<物語>は感じても、それを通じて新海監督自身が視聴者に何かを訴える目的を持ったメッセージ性はあまり感じなかった。それが、「すずめの戸締まり」では大きく違っている。特に、すずめの最後の場面でのセリフは、メッセージ以外に解釈することがまったく不可能なほどはっきりとしたものだ。

2つ目は、「作品自体の立ち位置」にある。新海監督の思惑は別として、前2作はあくまでエンタメとして、<物語>を十分に楽しんでもらえればいい、という立ち位置だったように思う。リーマンショックが起きた2008年以降、東日本大震災(2011年)、コロナ禍(2020年)、ウクライナ戦争(2022年)と世界史的事件が続き、しかもその発生間隔はだんだん短くなっている。新海監督が災害をモチーフに多くの作品を送り出してきたのは、こうした内外情勢と決して無縁ではない。

しかし、前2作は視聴者に向けた強い形でのメッセージは発しなかった。世界史的大事件続きで自信を失い、疲弊し、危機管理がろくにできないまま<災後>を漂流し続けている日本社会に苛立ちながら、ともかくもペースを落として「伴走」するーー前2作はそういう立ち位置にあったと思う。

「すずめの戸締まり」では、その立ち位置がはっきり変わっている。日本社会との「伴走」から「1歩前に出る」に意識的に変えている。これはあくまで私個人の解釈に過ぎないが、だからといってまったく無根拠にそう解釈しているのでもない。この1点だけはネタバレをお許しいただきたいが、最後のシーンで、被災した幼き日のすずめに対し、現在のすずめが未来への希望を語っているところに私は「立ち位置」の変化を見たのである。

多くの世界史的事件がうち続く中で、日本社会、そして日本人はいつの頃からか<未来>に怯え、恐れるようになった。不確実な未来に賭けるくらいなら、甘美で、栄光の象徴だった過去にいつまでも耽溺していたいーーそんなメンタリティに日本社会全体が飲み込まれつつある。前述した世界史的事件ーーリーマンショック、東日本大震災、コロナ禍、ウクライナ戦争ーーはいずれも歴史的不可逆点(それ以前の世界に戻りたくても、二度と戻ることができない決定的分岐点、フェーズの転換点)である。そんな歴史的不可逆点を、世界はたった15年足らずの間に3度、それに東日本大震災が加わった日本社会に限っていえば、実に4度も経験しているのだ。

こんな極限状態が長期にわたって続き、メンタルの弱らない人のほうがどうかしている。だからこそ新海監督は前2作では無理に日本社会と日本人を<リード>しようなどという野心は持たず、物語作りに専念したのだと私は解釈している。しかし、ウクライナ戦争という新たな危機を迎えても、未来への想像力を持てず、むしろ、やれ五輪だ、万博だ、原発再稼働だと叫び、日本社会にとって「栄光だった昭和」に歴史を巻き戻そうとする動きがこのところ急激になっている。五輪も万博も原発も「栄光の時代」には必要だったのかもしれない。しかし原発は3.11で、五輪はコロナ禍での強行開催と汚職によって失敗がすでに露わになっている。<未来>がどんなに不確実でも、日本社会、いやそれ以前に人間自体、未来に向かってしか進むことができない。栄光の過去を参考にするのは、それが<未来>を切り拓く上で役立つ限りにおいてであって、<未来>に役立たないならば、どんなに栄光の過去であっても別れを告げ、不確実な<未来>をできる限りよいものにするために、ひたむきに進むしかないのだ。

同じくこの作品を見た「シロクマ」さんが、ブログ「シロクマの屑籠」11月24日付記事「生きるって本当はこういうことだ──『すずめの戸締り』雑感」で感想を述べている(ネタバレがあるので、それが嫌な方はリンク先へは飛ばないでほしい)。シロクマさんはこう書いている--

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 「生きるって本当はこういうことだ」を肯定的に描いてみせ、希望を示すこと、それが今作『すずめの戸締り』〔原文ママ〕の通奏低音で、前作『天気の子』ではあまり聞こえてこず、前々作『君の名は』でもそんなに強く聞こえてこなかったものだった。私は、ここが本作のいちばん濃いエッセンス、主題に限りなく近いものだと想像する。
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この解釈に、私はほぼ全面的に同意する。すずめは、次々と立ちはだかる困難に対し、恐れず果敢に立ち向かうひたむきなヒロインとして徹頭徹尾、描かれている。時には巨大な困難に、全身全霊を込めて体当たりしてでも、目標に向かって突き進む。そして、ラストシーンですずめに未来への希望を語らせる。新海監督は、ついに日本社会の「伴走者」であることをやめ、1歩前に出る決意をしたのだーー不確実な未来にいつまでも怯え、変化と挑戦を頑なに拒み、過去への回帰を目指そうとする日本社会に対し、前に出るよう促すために。何かにひたむきに挑戦し、または困難にひたむきに立ち向かう人々を無根拠にあざ笑う「日本人の心の中のひろゆき」と決別し、希望へと向かわせるために。

何かにひたむきになること。今の日本社会に必要とされながら、最も欠けているものだ。それを新海監督は今回、「すずめ」というヒロインの生き様を通じ、見事に描ききった。私がすずめに、割と素直に感情移入できたのは、3.11以降の12年近い年月を、少なくともひたむきに、すずめのように生きてきたからだと思う。原子力のない未来に想像力を働かせ、少しでも原子力の復活、延命を狙うすべてのものと、文字通り体当たりで闘ってきた。どんなに時代が変わっても、許せないものは許せないという、ただその1点を胸に秘めて。

甘美で栄光に満ちていた過去には、どんなに望んでも決して戻れない。未来がどんなに不確実でも、人間はそこに向かうしかない。どんなに巨大な困難でも、体当たりでしか未来は開けない。こんな当たり前のことを、「すずめ」の生き様を通じて改めて示さなければならないほど、日本の衰退は深刻さを増している。政治、経済、社会、文化ーー衰退はあらゆる領域に及んでいるが、特に最も深刻なのは日本の「人心荒廃」である。このどん底の絶望から、日本が再びはい上がれるかどうかは、どれだけ多くの日本人が「すずめ」になれるかにかかっている。

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