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知の現場で働いて40年*(再掲)

2021-05-30 | 自分史
知の現場で働いて40年

認知の心理学、認知の科学の研究者のはしくれとして40年働いてきた。
最初は、文字認識の研究から入り、漢字情報処理の研究を経て、実験室の外に出て、取扱説明書をわかりやすくする研究、インタフェースの研究、さらにヒューマンエラー研究を行ってきた。
基礎研究からはじめて実践研究へという研究者としての一つの典型的な歩みであった。
大げさな言い方になるが、これは、知の生成の現場である。
また、24歳で徳島大学の助手として働かせてもらって以来、大学での教育にも携わってきた。それは、まさに知の消費と流通の現場であった。




知の現場で働いて40年」自分史

2020-09-11 | 自分史
知の現場で働いて40年

認知の心理学、認知の科学の研究者のはしくれとして40年働いてきた。
最初は、文字認識の研究から入り、漢字情報処理の研究を経て、実験室の外に出て、取扱説明書をわかりやすくする研究、インタフェースの研究、さらにヒューマンエラー研究を行ってきた。
基礎研究からはじめて実践研究へという研究者としての一つの典型的な歩みであった。
大げさな言い方になるが、これは、知の生成の現場である。
また、24歳で徳島大学の助手として働かせてもらって以来、大学での教育にも携わってきた。それは、まさに知の消費と流通の現場であった。 



 最初の記憶」自分史

2020-08-27 | 自分史
 最初の記憶
 都小学校に入学したとき、母親につれられて写真館にいく途中の記憶が、自分の最初の記憶である。
 最初の記憶は3,4歳くらいとされているから、これはやや遅い。これ以前にも3歳の終戦(1945年)の頃の厳しい現実の記憶などがあってもよいのだが、まったくない。まさに幼児期健忘である。
 さて、その最初の記憶。実は、こんなエピソードとともに、しばしば思い出される。
それは、徒歩で、母親と写真館に向う途中、障害をもった方が多分、普通ではない歩きか行動をしていたのだと思う。その相手の光景はまったく記憶にないのだが、それを指でさして、母親に何かをいったのだと思う。母親が「人を指差すのはだめ」と叱責したのである。それはしっかりと覚えている。そのときの感情がかなり強かったのが、この最初の記憶を形成する決め手になったのではないかと思う。
 最初の記憶は、これだけである。写真館での情景などはまったく思い出せない。ただ、母親と2人でとった写真はその後、何度かみたことがある。
 なお、10年前の引越しのときに、膨大な写真をすべて廃棄してしまった。今にして思うと、しまったである。そんなものを見ながらのわたしの履歴書もありだった。思い出を捨てるのは、急ぐ必要はない。

海外での出会い」自分史

2020-08-20 | 自分史
海外での出会い

 26歳頃、徳島大学にいた頃、動機は思い出せないが、10日くらいのハワイへの語学研修旅行にいったのが、海外はじめてであった。その後、娘が中学に入った頃だから38歳頃になるが、文部省の在外研究が許可されて、カリフォルニアのUCLAに10か月滞在した。その頃の思い出である。
 実は、この10か月が、その後の自分の人生を変えたといってよい。公私ともにである。
 「私」のほうは、さておくとして、
 「公」のほうについては、全部思い出せば一冊の本になるくらいの思い出があるが、ここでは、その後の研究生活の激変のきっかけについて話をしてみたい。
 38歳頃というのは、研究者として油の乗り切った頃である。海外での10か月は、油に火を注いでくれるはずとの強い期待で出かけた。
 ところがである。英語がぜんぜんだめ。話を聞き取ることができないのだ。実は、こんなときのため、ということで英会話は大学生の頃からおりにふれ勉強はしてきた。英文の研究論文も1日に何編も読んでいた。英検1級の資格もとっていた。
それがネイティブとの会話ができないのである。このショックは、衝撃的だった。すっかり外出恐怖症になってしまった。
 余談だが、そんな話を日本から来た英語のしまおか先生にしたら、へんに自信をもって海外にくる人にそういう人が多いこと、しかも、高校の英語の教員の海外研修でかえって自信喪失に陥ってしまう人が多いとのこと。大いに納得したものだった。
 そうなると、つきあうのは、日本人仲間ばかり。その中に、K氏がいた。彼との出会いが、帰国後の自分の研究生活を激変させてくれたのである。


 

手術」自分史

2020-08-08 | 自分史
手術

 これまで手術は3回。
 最初が、ヘルニア。小学校6年生くらいのとき。手術のことはまったく記憶にないが、父の部下2人がお見舞いをもってきたのだけ覚えている。不思議なもの。

2回目は、足の膝にできた肉腫。高校2年の頃。当時マラソンをしていた。運動障害ではないかといわれた。けずった。手術そのものはどうということはなかったのだと思うが、麻酔によって尿が出なくなり導尿が気持ち悪かったのを覚えている。また、ラーメンを食べて胃痙攣をおこしてしまった。1週間くらい入院したが、そのとき、隣にいた県庁の職員の人がおもしろい人だった。いいなずけがつきっきりで看病していた。

3回目は、鼻たけとりの手術。脳に近いところだったので、手術そのものもまた手術後のガーゼの交換などもとてもつらかったのを覚えている。

そして、3年前からの大腸癌の手術、転移肝臓癌の手術となる。



入学試験」自分史

2020-08-04 | 自分史
入学試験


 高校入試、大学入試、そして大学院修士課程の入試、博士課程の入試と4回の入試を経験してきた。いずれも、合格した。
高校入試は記憶がないが、大学入試、大学院入試に、不思議に、これは駄目だと思うほど絶望的な出来だったという記憶がある。それだけに、合格の掲示をみたときの記憶はまさにフラッシュバルブ記憶である。
とりわけ、東京教育大学教育学部心理学科の発表掲示を見に行ったとき。自分の番号をみつけて、書類をもらおうと事務室にいった。応対した事務の人の風袋まで今思い出せる。その彼が、封筒をひっくり返しながら、「うーん、ないですね」。「え!!」。「あ、あったあった。こっちにあった」。
それはともかくとして、なぜ、絶望的な出来と判断してしまったのか。
たぶん、自分の書いた(誤った)解答をしっかりと覚えていたからではないかと思う。こんなことがあった。博士課程の入試の終わったあとで、受験仲間と池袋でうさはらしをしようというわけで、茗荷谷の駅に向かっていた。あれこれ試験の話をしながらだっとと思う。信号を渡る直前で、重相関係数の解答に、偏相関係数の話を書いてしまったことに気が付いた。大声をあげのだと思う。隣にいたふくしまさんまでびっくりした表情をしていた。
なぜ解答をしっかり覚えていたか。これも推測だが、それほど冷静に試験を受けていたからではないだろうか。試験に巻き込まれないで、自分をしっかりと保った状態で普段の実力が出せたというではないかと思う。


最初の本」自分史

2020-08-02 | 自分史
最初の本

 たかの先生からお声をかけていただき書いた「心理・教育のためのデータ解析」(日本文化科学社)がはじめての著書である。
奥付をみると、1980年となっている。38歳のときである。
当時、心理学でもようやくコンピュータを活用したデータ解析が普及してきた頃で、
コンピュータ活用を意識した初心者向けのテキストであった。
こうしたテクニカルな本は、正確であまり細工のないのが普通であるが、
この本では、図解を多用し、本文中の埋め込む形で小問を入れたり、
全体を通じて活用する心理データの典型例を巻末につけたり、
さらに、コラムで一息といったさまざまな趣向を取り入れたにぎやか本にしてみた。
途中で、統計にめっぽう強い院生だったはっとり氏に、全面改訂をしてもらって今でも出版社を変えて増刷をしている。
この本がいわばはずみになって、以後、続々と本を出版してきた。



受験」自分史

2020-07-31 | 自分史
猛勉強

 猛勉強は、大学受験のとき。
 いけるのは、学費がほぼただ(実際は、年2万円弱だった思う)の国立だけ。したがって、勉強しなければ、大学にはいけない。猛勉強をした。
塾などははなから念頭にない。当時、5教科で受験できる大学や学科を探した。もとより、何を勉強したい、というようなものがあったわけではない。進学校なので、まわりの友達のように大学にいきたいの一心だった。
 模擬試験は受けた。大丈夫そうだったので東京教育大学の心理学科を受験した。科目数がほかとくらべると少なかったのが影響してか、倍率は20倍くらい。こりゃーだめかと、試験終了時に観念した。しかし、合格した。
 猛勉強は、一人で家の一室でした。当時、TVが家にはいったばかりで、母と兄は、それに夢中。受験することすら知らなかったのではないかとおもうくらい、ほっておかれた。でも、これがよかった。自分ですべてを決められた。家計からすると、大学進学など思いをよらなかったが、2人とも何も言わなかった。表面上はまったくの無関心。しかし、今から思えば、勝手ばかりして、との思いはあったかも。すみません。
 受験勉強はしかし大学合格のためではあるが、あの頑張りは貴重だったと思う。勉強の習慣がつき、勉強のスキルも身についた。さらに、人間の器を一回りも2回りも大きくしてくれた。


 

自分にできるかなー

2020-07-18 | 自分史
災害救助に携わる方々、
それが使命だとはいえ、衷心より、ごくろうさまと申しあげたい。
それをみるにつけ、
さて、自分が、助けを必要とされる現場にいたら、
ただちに援助行動ができるだろうか?と思ってしまう。
でも、さまざまなニュース映像を見ると、
だいたい、すぐにまわりの方々が躊躇なく危険を顧みずに、
助けにはいる。
自分にできるかなーとふと思ってしまう。
なお、恥ずかしながら、77年の人生で、
ボランティア活動歴はなし(人助け心不足?)である。
せめて義援金寄付くらいはせねば。


もう1年の半分が終わる

2019-06-30 | 自分史
1月に転移肝臓癌の切除手術をして、大腸癌から続いた一連の癌との闘病生活おさらばをして半年、
普通の生活、つまりQOLレベル5をめざしての日々だった。
おかげさまで、
  <<本当の気持ちだなー。人間一人では生きられないを実感した2年余だった。

体力は、レベル4.5くらい。
具体的には、半歩毎日7千歩、毎日ラジオ体操
快食快便

心理的にも、4.5くらい。
時折、バスツアーなどで退屈となじみながら、
読書、ブログ更新の毎日

ボランティアをやらなくてはという義務感のようなものはあるが、
どうしても、愛他心不足なのか、対人能力、社会性がないのか、
自分にはしっくりこないので
躊躇気味。
癌発覚前には、3つくらいやりはじめたのだが、もう一度復活という気持ちにならない。


自伝その4(とりあえず、終わり)

2018-05-04 | 自分史
自伝(4)

●東京教育大学、大学院時代7年間(昭和36年(1961)年 ~昭和42年)
60年安保と65年全共闘とのはざま世代



大学進学率 20%弱
数からしてもエリート
日本の政治、体制への異議申し立て役としての大学生
ノンポリも含めて、学生すべて政治的だった。
心のどこかに自分たちが日本の未来をつくるという心意気が潜在していた。
まだ
大学自治が金科玉条の時代だった。
それに守られて、こんなとんでも授業が
・毎年同じテキストで、1年に7pしかすすまないドイツ語購読の先生
・毎回15分遅れてきて、15分早く終わる先生
・自分のテキストを買えば、単位をあげるという体育の先生


一方では、近寄りがたい気品と学識のある先生もいた
・オーストラリアにいったら、「君、この本の先生、知ってる」
  たった1コマの授業しかしない心理学の大御所でした

仲間・先輩がよかった
・研究の現場に誘ってくれた
・バイト先、就職口を探してくれた
・さまざまな社会的スキルを教えてくれた


大学進学率50%を超えた現在
そして、はしの上げ下げにも口出しする文部科学省になった現在

かつての大学像は一変しました
一言で言うなら、それは、大学の学校化だと思います
・きっちりと教える内容決めて評価もして学生を一人前に育てなさい
・そのためには、学生およびその保護者の満足度を高めなさい
・研究よりも教育を
といったところでしょうか。

それを担う教員も、まだ旧の大学で育った人々が多い。この大学の変貌ぶりにまだついていけない教員が多いのが実情です。

@@@「参考」
60年安保世代
「参考」1960年(昭和35年)1月に岸以下全権団が訪米、大統領ドワイト・D・アイゼンハワーと会談し1月19日に新条約が調印された。
○プレ全共闘世代(1965-1971年)大学生だった世代
「参考」
全共闘運動は、1965年早稲田大学にて入学金、授業料値上げをめぐって理事者側と学生が対立し「全共闘」(全学共闘会議)と呼ばれる学生運動が萌芽
68年初めから69年にかけて、東大・日大闘争に併行して自然発生的に、「燎原の火のように」全国の大学へ広がった。
@@@@@@@@@@@

自伝その2

2018-05-02 | 自分史
自伝(2)
●「小学校段階(昭和24年~昭和30年)」
 徒歩で40分の小学校に通いました。今の近隣の子どもは、バス通学だそうです。
悪がきと山川を駆け回った。その頃は、学校でも寒稽古などもあったから体力作りは万全だった。しかし、荒っぽかった。すねに傷、絆創膏は当たり前だった。この中で自然に身に着けたリスク感覚は貴重だったと思います。
昨今の学校。リスク管理をおろそかにしたら学校長、一発でおしまい。しかし、ここに大いなるパラドックス。リスクなし、リスク防止の徹底が、子どものリスク感覚を奪い、リスクマネジメント力を奪ってしまう。

この「自然教育」つまり「生活と教育とが混然一体」
○誰もが生きるためにそれなりの分担をせざるをえない中で生きるすべを学ぶ
○生きるために自分を表現して周りと調整していく
くらいの意味です。
そこには標準がありません。無手勝流の教育です。育つ子供も無手勝流。今はやりの言葉をつくなら、個性尊重ですね。いやアクティブラーニングですね。
 学校教育は、「みんな一緒」が根底にあります。個性尊重とは根本では矛盾。

4年生の担任として山形から赴任してきた中年の先生。
もう退職されて90歳に近いのですが、卒業してからもずっと、毎年一回、集まってはわいわいがやがやを続けてきています。(途中、徳島など地方勤務があり、自分だけ抜けたこともありますが。)
初めて受け持ったクラスなのでという理由以外、とくにそうする理由はないらしいのですが、とても特異で我々にとっては得難い先生なので、ご紹介させていただきます。

●中学校段階(昭和30年~33年)
高校進学率が40%くらいのときです。
ちなみに、今、大学進学率53%ですから、昔の高校でかかえた諸問題が大学で起こっていることに酷似しているのではないかと思います。
ここでも、一人の教師、いや無免許英語教師の話。
代講でみえた英語の教頭先生が教壇にたった。
「起立>[「courtesy」(礼儀)>着席]
教頭先生、微妙な顔。その表情、今でも思いさせます
やがて、無免許が発覚したらしく、いつのまにかいなくなりました。


自伝その1

2018-05-01 | 自分史
自伝(1)
●まずは生まれからです
昭和17(1942)年生まれ、兼業農家の二男として
真珠湾攻撃1941年12月8日ですから、
いわゆる、戦中生まれ世代です。
もちろん、なんの記憶もないですが、2歳のときに肺炎で死にかけたことがあったらしい。
終戦が1945年9月ですから、戦争のさなか、よくぞ助かったものと思います。以後これまで、鼻たけとり、ヘルニア、足膝のコブとり、の3回の手術を経験しましたが、マーマー健康のまま今に至っています。
学校はいつも皆勤でした。

●幼少期(昭和22年頃)
もちろん、保育園、幼稚園の経験はありません。
戦争が終わったのが、昭和20年ですから、私は保育園、幼稚園にはまったく無縁でした。
 ところで、皆さんの中で 幼稚園に通った(通わされた)経験のある先生方はどれほどいらっしゃいますか
ちなみに、就園率は、昭和25年で8.9%です
就園率は、昭和45年あたりで50%を超え
平成21年度になると80%になります

千葉の田舎、加曽利貝塚の近くです。
いまでこそ、若葉区なんてしゃれた名前が前につきますが、れっきとした農村地帯で育ちました。
祖母同居5人家族の生活の中での幼児期。
学校教育とは無縁のいわば「自然教育」が朝から晩まで。
いろんなことを学んだと思いますが
とりわけ今の幼児期の子どもと比較すると、生き残るすべとしての人間関係のスキルは貴重だったのではないかと思います。
家の中でも外でもさまざまな人との交流の中で暗黙のうちに学んだ豊富な、というより雑多な人間関係スキル。
人間関係もスキルがあります。その大部分は、周りを観察し体験しながら学びとるものですから、これこそ早期教育の大事な課題ではないかと思います。
そこで身に着けるスキル、いろいろありますが、次の2つは極めて大事。
① 家庭文化の継承スキル 礼節 マナー 行事
例 2世代世帯には伝統が継承されている 
例 嫁姑の確執の原因の一つになる 
② わがままの発揮と制御 
例 早く食べないとなくなってしまう、しかし、それをすると叱られる

それが今、とても貧弱な状況になっているのは、ご存知の通りです。
「社会的スキルの教育」で補ったりしていますが、限界があります。

あるいは、今、保育園や幼稚園と老人施設とのコラボや、
小中高一貫教育などあえてお金や制度を作ってやろうというわけです。
昔は一銭もかけずにやれたのですから、教育も金も手間暇もかかるようになるわけです。