やりたいことは、やらなければならないことの
向こう側にある
(蔭山英男)
向こう側にある
(蔭山英男)
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教育は、やらねばならないことを無理にでもやらせねばならない。
それをのりこえてくれないと、子どもがやりたいことができないからである。
そのことを、しかし、子どもにわからせることは、むすかしいし、むなしい努力である。
子どもは、教育を受けている期間中、なんで、こんな勉強をしなければならないの?
という疑問を抱えながら、勉強のつらさに耐えている。
耐えられない子どもは脱落していくか、
力がある子どもは、自力でやりたいことにはやばやと挑戦する。
教育は何を教えるかより、つらさ耐性の選抜機能のほうが大きいのかもしれない。
子どもは、親の言うとおりにはならず
親のするとおりになる
(中山和義「小さな幸せに気づく24の物語」
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「親の背中を見て育つ」も同じ。
子どもに言葉で諭すことの無力さは、子どもを育てたことのある人なら、誰しもが感じている。
しかし、だからといって、子どもの悪さに背を向けて、「さー、背中をみよ。そこから俺の言いたいことを学べ」というわけにはいかない。
言うとおりにはならなくと、言わねばならない、言い続けなければならないのが、子育てである。
そして時には、言うことに反発させることも子育て、いや子どもが育つには絶対に必要なのだ。
その上で、さらに、親の真似をしてくれるなら言うことなしである。
しかし、こちらのほうは、良いことも悪いことも子どもが学んでしまうこともあるので要注意だ。
さらに、親が言うこととしていることの齟齬を子どもは直感的に知ってしまうようなところもに、注意が必要だ。
大学
2021-05-19 | 教育
大学には3つのタイプがある。
ひとつめのタイプは、世界レベルの研究を支える大学
2つ目のタイプは、リベラルアーツを中心とした、教育の中で豊かな教養と
人間力を磨いたオールラウンダーを輩出する大学
3つ目のタイプは、国民としてきちんとした常識と勤労者としての
健全な労働倫理を身につけた善良な社会人を育成する大学
(諸星裕)
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日本では、780余もの大学がひしめいている。
大学進学率50%越えへの対応の結果である。
こうなると、大学も、その教育目的によって、おなずと種別化される。
名言は、それを大胆に3つに種別化することを提案している。
おおむね妥当だと思う。
問題は、この3つに偏差値序列がぴったりと対応してしまっていることである。
したがって、どの大学も、第3グループーー悪いほうの呼び名はいくらでも
思いつくが、名称が難しい。専門学校型あたりかーーーを標榜しないことである。
しかも、数の上で圧倒的に、このグループの大学が多い。
しかし、どの大学も、東大型を志向する、いや志向せざるをえない。。
なぜか。
それは、そのタイプの大学しか、大学教員も職員も知らないからである。
博士号取得教員は、そういう大学で育ってきたからである。
結果として、教員と学生との相性が極めて悪くなってしまう。それが、こうした大学教育の現場を難しものに
している。
大学生ではなく高校4年生という観点から、それにふさわしい教育のできる教員を集めることからはじめる必要があるのかもしれない。
新聞を読まない若者が増えた
学生にきくと、家でそもそも購読していない
という
しかしねー
ニュースは、ネットですむが
情報の深堀はやはり新聞でないとねー
それに、毎朝、情報の玉手箱を覗くのは、
頭の元気作りには、必須
ネット新聞でもよいから
もっと新聞を読もう
学生にきくと、家でそもそも購読していない
という
しかしねー
ニュースは、ネットですむが
情報の深堀はやはり新聞でないとねー
それに、毎朝、情報の玉手箱を覗くのは、
頭の元気作りには、必須
ネット新聞でもよいから
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若者「若者は頭の元気の触発剤」
- 若者の見方、付き合い方が年とともに変わる
若者、ここでは、20歳前後の男女を想定します。彼らと自分との年齢差によって、次のように、若者の見方、付き合い方が変わってきました。
自分が子どもの頃は、お兄さん、お姉さん。ひたすら尊敬し、そのすべてを真似させてもらった存在。
自分が同じ若者になると、よき友人であり、厳しいライバルでもあり、喧嘩相手でもあった存在。家族に代わって自分を支えてくれたかけがいのない存在。生涯の友がごろごろ。
自分が30代くらいなると、自分の未熟な偉さを誇示してやりこめる存在。
自分が40代になると、若さゆえの傍若無人ぶりに腹を立て、なにかと口うるさく指導したくなる存在。
自分が50代になると、なんとか若者にもがんばってほしいと暖かくも不安なまなざしを向ける存在。そしてときどきみせる若さゆえのタレント発揮にうれしい戸惑いを感じさせられる存在。
自分が60代になると、そろそろ自分の現在までの資産をわけあたえてあげたくなる存在。しかし、老後、さらには日本の今後を托せるかどうか不安を感じる存在。
今現在でも、大学教員ということで、若者との付き合いが続いています。おかげで、心の元気を保てていると思っています。感謝すべき存在でもあります。というわけで、元気の触発剤としての若者を取り上げてみました。
- 若者のメンタリティ
発達心理学の1分野に青年心理学があります。そこでは、青年の心理がかなり詳細に研究され知識として蓄積されてきています。不思議なことに、そのほとんどが、青年のネガティブな側面に焦点を当てたものばかりです。たとえば、
引きこもり、不登校、青年期精神病、不登校、非行犯罪。
青年ってこんなに暗いのかと首をかしげてしまいます。
もっと、青年の明るい面を取り上げたものはないものでしょうか。あるのです。それが、今、次第に盛んになりつつあるポジティブ心理学です。
この一連のシリーズも、そこでの成果を横目でにらみながら、書いています。そこでは、青年の持っている元気志向、未来志向に焦点が当たられています。
●心元気になる若者との付き合い方
①ともかく、真摯に付き合う
異議申し立て者としての若者、ハイリスク・テイカーとしての若者。
親的な立場からみれば、あれこれ不安ばかりの存在である若者ですが、それだからそこ、そこには大人が気がつかない、そして当の若者も意識はできていない(かもしれない)、しかし、天空からみればよく見える社会の矛盾や将来を、彼らが体現してくれているところがあります。
彼らの訴え、振る舞いに好奇の目を向け、そして、真摯に考えてみることは頭を刺激してくれます。たいていは、そんな馬鹿な、そんなわけのわからないことを、となりがちですが、それでも、次々と繰り出される若者のパンチは、真摯に付き合えば、頭の元気剤になります。ノックアウトされるほど痛烈なパンチも、時にはありますが。
②若者文化に浸ってみる
「外国人が驚く若者文化」という記事をみつけました(CRACKED.COMより)。
- デコトラ(デコレーションを施したドラック)
- ガングロギャル
- ロリータファッション
- ホスト
- ヤンキー(不良っぽいファッションや振舞い)
- ヴィジュアル系
いかがでしょうか。カッコで説明したのは、自分もよく知らないものです。
外国人ならずとも驚き桃の木,山椒の木ですが、やはり、こうした若者文化にまさに肌で触れる努力をすることが頭の元気には必須です。まさに、「努力すること」が大事なのです。
マンガ、ゲーム、映画、音楽などなど。日本の若者文化は、実に豊かです。爛熟しているといっていいかもしれません。一見すると、軽薄短小、文化の名前に値しないように思えますが、どっこい、そこには、確実に時代をとられ、将来へとつながるものが潜在しています。
高校生ガールがマーケティングの主役に躍り出ている業界さえあります。
若者文化に迎合する必要はありませんが、一体なんなんだろう、の疑問、そしてちょっと触ってみる、味わってみるのです。
いつかやってみたいと思っていて果たせないままですが、時には、渋谷あたりをそんな気持ちで散策してみたいものです。
学べば学ぶほど、
自分がどれだけ無知であるかを思い知らされる。
自分の無知に気付けば気付くほど、
よりいっそう学びたくなる。(アインシュタイン)
「思想というフィクションは、人間の飢えを必要とします。物質的にも飢え、精神的にも飢えている状態に必要なのですね。飢えているからこそ、壮大なフィクションの中に入ることができる。(司馬遼太郎)
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知れば知るほど知らないことがわかってくる。これが学びの真髄である。
大学院の入試面接での受験生の進学動機の定番が、「卒論を書いてみて、わからないこと、しらないことたくさんあることがわかったので」である。
研究者を強く研究に動機づけるのが、この知的好奇心である。そして、いったん研究の道に入りこむと、知的好奇心は膨らむばかり。かくして、研究の世界から抜け出られなくなる。
普通の学びでも、知的好奇心をくすぐられれば、真正の学びへと歩みだせる。しかし、そのためには、まずは、わからないこと、嫌いなことを苦労して学ぶことから始めなければならない。
そこでは、学ぶ人の学びへの謙虚で素直な態度が必要。なんでもすぐにわかった、そんなこと自分は知っていたと学びをあなどる人もいる。
教えてもらったら、「勉強になりました」のひと言を忘れない。
和田秀樹 人をほめると「いいことが起こる」より
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教える稼業に40年余り。
そういえば、このひと言をもらった記憶はない。
学生にしてみれば、教師は教えるのが当然、との思いがある。
さらに、わかりやすく、おもしろく、ためになるような話をして当然、との思いもあろう。
しかし、目の前の自分の講義はというと、その思いとはほど遠い。
感謝どころか不満たらたら。
これが自分の大学の講義室での現実。
反省はしているが、もはや遅い。
でもひと言、愚痴になるが言いたい。
せめて、15回の授業の内1回くらいは、あるいは、90分の授業の中で10分くらいは、君たちを感心させて授業はしていたのではないか。そんなときには、せめて、目を輝かし、うなずき、さらに、終わったら、立ち上がって拍手<<ありえない!!
くらいのことをしてくれたら、もっともっとすばらしい講義にする意欲が湧いてきたはず。
教え教えられる関係は、複雑かつ微妙なものがあるが、大事なことは、ポジティブーポジティブ・スパイラル。
そして、終わったら、教えられる側からの感謝の表明は、教え冥利につきる。
失敗はなお無為にまさる。
─大杉栄(明治~大正期 社会運動家)
─大杉栄(明治~大正期 社会運動家)
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日本の若者の冒険心は、世界最低という調査結果がある。
リスクを恐れて何もしないという選択をしてしまうらしい。
これでは、日本の将来が心配である。
若者は社会の鏡である。若者がリスクと取らないのは、社会全体がそうだからである。失敗するのをかたずをのんで見張っているような奇妙な雰囲気が日本社会にはある。そして、失敗すると、それみたことかとはしゃぎたてるようなところがある。
「いちばん厄介なのは『ゼロリスク』を求める人々だ」(中川恵一)。
これでは、若者ならずともビビってしまう。
失敗はどんどんしましょう、というわけにはいかないところがある。失敗すると周りに迷惑がかかるからである。そして、迷惑がかかるほうの人々の反応が厳しすぎると、激しい自責の念にかられ、失敗は恐怖になってしまう。
はやり、社会全体で、失敗への寛容度を高めることであろうが、これはなかなか難しい。とりわけ、日本の社会の安全志向への極めて強い文化があるので、一朝一夕にはいかない。
となると、できることは、周りを巻き込まない形でのリスク行為である。
・外国に一人飛び出してみる
・難関試験に挑戦してみる
・100kマラソンに挑んでみる
全力で力の限界で生きてみることである。失敗してもともとの気慨でともかくやってみる、動いているみることである。
こんなときこそ
2011-04-04 | 教育
青年は野心を!
野心には、出し抜く、勝つためには手段を選ばぬといったネガティブなイメージがあるが、
一方では、目標めがけてまっしぐら
障碍なにするものぞ
やりぬく
といったポジティブなイメージもある
豊かな社会では、
野心よりやさしさを
野心より使命感を
野心より共生を
野心よりーーー
となりがちだが、
それでは、社会が停滞する
青年の野心が今こそ日本社会では求められている
がんばれ!若者よ!
教鞭
気になったのは教鞭という言葉。鞭をもって教えるなんて芸術の世界にあってはならない。脅かしたら萎縮して頑なになるばかりで良い効果はありません。
(浜畑賢吉)
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鞭の使い方は難しい。
使い過ぎれば暴力になる。
それを恐れて、教育界からは鞭が追放されて久しい。
しかし、それは、物理的な鞭である。
鞭は、ほかにもいろいろある。
その中でも最も影響の大きい鞭は、言葉である。
「言葉の暴力」である。
しかも、物理的な鞭よりもはるかに使い勝手がよい。
それだけに実によく使われる。
結果として、言葉の暴力に負けてしまう人々が出てくる。
言葉を排除するわけにはいかないが、言語習慣を変える努力で、言葉の暴力を自己抑制できるようになる。
優し言葉。穏やかな言葉。冷静な言葉。ポジティブな言葉。
語彙を増やし、TPOの応じて使い分けるるようにすれば、言葉の暴力からは遠ざかることができる。
コロナのリバンド気配。
大学は、対面授業7割とか。
新歓コンパの季節。
昔は、これで一気に大学生になった気分がしたものだ。
大学生、この厳しい環境下で、どうやって大学での学びをしたらいいのだろう。
授業だけは、オンライン活用で何とかなっても、それ以外の学びーーたぶんこちらのほうが大事で、学びの膨大な領域をしめているーーーは、どうすればいいのだろう。
20代のコロナ感染者数の多さが何かを訴えているように見えてならない。
ものを知るには、それを愛さねばならぬ。
ものを愛するには、それを知らねばならない
ものを愛するには、それを知らねばならない
・西田幾多郎
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知ることと愛することとの共生のダイナミックスの大切さを諭した名言である。
好きなもの、愛するものをみつけるための学び。
そのためには、わからないことを学ぶつらさに耐えること。
このつらさの克服こそ、学びの場の神髄。
わかってくると、好きになり、愛したくなる。さらに、もっと知りたくもなる。
知ることと愛することとの共生のダイナミックスの大切さを諭した名言である。
好きなもの、愛するものをみつけるための学び。
そのためには、わからないことを学ぶつらさに耐えること。
このつらさの克服こそ、学びの場の神髄。
わかってくると、好きになり、愛したくなる。さらに、もっと知りたくもなる。
この共生のダイナミックスを、学びの最初にわからせるのはとても難しい。
だから、学びないままで一生を終えてしまう人もすくなからずいる。不幸なことである。
教えの場が、競争と
しかし、その責任は、教える側にあるのかもしれない。
逆説的だが、その基本は、教えようとしないこと、学ばせようとしないことかもしれない。
逆説的だが、その基本は、教えようとしないこと、学ばせようとしないことかもしれない。
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