心の風景 認知的体験

癌闘病記
認知的体験
わかりやすい表現
ヒューマンエラー、安全
ポジティブマインド
大学教育
老人心理

一日昼ね5回

2007-03-31 | Weblog
朝2時半起床
6時まで原稿書きに熱中
これで今日一日の仕事は終わり
朝からこたつで昼寝ばかり
さすがに家内の顔を見てしまう
朝のがんばりを知らないからねー。

でも今6時半、そろそろ寝て、また明日朝がんばろう。

写真 利根川近くのお寺

指差呼称

2007-03-31 | 安全、安心、
コラム*「指差呼称も工夫がいる」********
指差呼称に関する論文は多数あります。下に紹介するのは、インターネットで検索したものです。(一部、省略)

JR西日本では,過去の車両故障および手直し原因を分析した結果,7割程度が作業者のヒューマンエラーであり,確認の不徹底であることが判明した。 
 そこで,このようなヒューマンエラーによる車両故障や手直しの撲滅のため,新たな確認方法として指差呼称確認による検修を検討することにした。
指差呼称確認の導入を考えた大きな理由は,チェックシートによる二重チェックをしていたにもかかわらず,検修作業に対する意識不足や,チェックシートがあったものの形式だけのチェックになっていたことである。
具体例としては,作業者が結線,ボルトの締付け等,作業を行った箇所について,検査ハンマーで打検をし,指を差して大きな声で呼称する。その後,主回路はマジックで印をする。この指差呼称確認による検修を導入してヒューマンエラーの撲滅に取り組んできた結果,導入後現在まで,手直し354日,車両故障402日間0件を継続中であり,効果が顕著に現れている。

著者 山下 正幸ら 1989 「指差呼称による検修」車両と電気
2月号より(内容要約は、電力中央研究所による)

認知的体験 再掲

2007-03-31 | Weblog

●認知的体験「匿名アンケートのはずだか?」06/9/7海保
市役所からアンケート。書いて出したら、ありがとうの葉書が。
確か、匿名とあったはずだが。
もうひとつ。学生が学園祭アンケートをお願いしますと研究室へ。
書き込む間、その学生、肩越しに書いている内容をじっと見つめていた。

麻雀の心理

2007-03-31 | Weblog
05/7/1海保博之「認知と学習の心理学」培風館 07年2月発行


30文字 39行 1200文字/1枚

1章 コンピュータ・ゲームで楽しむ

1.1 ひそかな楽しみ
書斎に入ると、まずは、コンピュータを立ち上げる。そしてまずやることは、麻雀の一人ゲーム。
1回およそ10分。これで頭をならしてから、おもむろに仕事にかかる。しかし、書斎を出るまでに、1回のゲームで済むことは、実はまれで、原稿が書けなくなってしまったような時、一段落ついて次の仕事にかかる時などにも、つい、ゲームのファイルをクリックしてしまう。時折、家内に見つかり、ばつの悪い思いをすることもある。
麻雀は大学生時代に覚えた遊びである。今考えると、よくあれほど暇な時間があったものと、びっくりする。しかし、友人4人とのゲームは実に楽しかった。さすがに、就職してからこれまでは、まったくしなくなった。時間もないし、仲間もいない。
それが、ある日、大学院生からコンピュータで麻雀ができることを教えてもらってからは、ほとんど日課の遊びになったのである。
いつでもどこでもできる一人麻雀ではあるが、それでも、自分なりにルールを決めて自己規制はしている。そうしないと、際限がなくやってしまう不安があるからである。そのルールは、「半チャン一回だけにする」「特定のパソコンだけでする」である。
それでも、このルールを破りたい誘惑にかられてしまう。ルール破りをして自己嫌悪に陥ってしまうことも何度となくある。

***コラム「遊びの4つの機能」
哲学者・カイヨウ***確認**は遊びには4つの機能があるという。麻雀には、この4つの要素がしっかりと作り込まれているのがわかる。
1)競争に勝ている力のあることを見せられる
2)偶然を楽しむ
3)熟達する
4)緊張から解放される
*********

 そまでしてやってみたいと思わせるコンピュータ・ゲームの魅力はなんであろうか。3つ取り上げて、分析してみることにする。


飲み会が終わる

2007-03-30 | Weblog
年度末
3回の飲み会
楽しかった
外での飲み会は、ビールしか飲まないようにしている
自然に飲む量がとまるからである。
したがって、あまり酩酊することもない。
2日酔いにもならない。
あまり食べられない
いいことずくめ。

認知と学習の心理学 あとがき

2007-03-30 | 認知心理学
06・10.17海保著 培風館 07年2月刊
認知と学習の心理学
ーー知の現場からの学びのガイド

あとがき


●専門書への橋渡し
あとに続く専門書としての「認知心理学」「学習心理学」への橋渡しになるような、教養的な「認知と学習の心理学」の本を書いてほしい、という依頼を快諾して、すぐに頭に浮かんだ構想が、この本のような内容であった。
あまりに個人的な体験からの発想ばかりで、編集者はびっくり仰天してしまったのではないかと思う。それでも、専門書への橋渡し的な内容を追加してくれれば、オーケーという温かいお言葉をいただき、こうして上梓するまでにこぎつけた。衷心より感謝したい。

●認知心理学と学習心理学
さて、その認知心理学と学習心理学である。
20世紀前半は、少なくとも現在のような認知心理学は存在しなかった。また、学習心理学は、もっぱら動物を使った学習実験が中心であった。
20世紀後半になって、認知科学が登場し、2つの心理学の領域は、急速に接近し、「知とその形成の特性を探る」という新たな目標の中に統合され、認知心理学として新しい心理学の領域が形成されたのである。
それでも、現在、学習心理学は、依然として、たとえば、大学のカリキュラムの中に存在し、こうした心理学のシリーズの1冊として刊行されるのは、一つには、学習心理学では、知の発達的な形成に力点を置く、2つには、教育による知の陶冶のほうにより強い関心を向けているからである。もちろん、ほぼ1世紀にわたる、行動主義的な学習心理学が蓄積してきた膨大な知見の継承ということもある。

● 知の研究の現場で半世紀
「はじめに」でも述べたが、こうした認知心理学の研究の現場で、研究者としての40余年のキャリアを積んできた。認知科学も認知心理学も、自分が研究者として足を踏み出すほんの10年前に誕生したばかりであったのだから、
こんな幸運なことはなかった。(ちなみに、認知科学の誕生は、H.ガードナーによると、1956年9月11日になる。)
 次から次へと新しい概念が案出され、実験による新知見が報告され、それまでに自分が受けてきた心理学は一体なんだったのか、という思いにかられたこともしばしばだった。クーンの言うパラダイムシフトを肌で感ずることができた。
 そんな中での一人の研究者としての体験は、まさに、知を使って知の研究をするという入れ子構造になっていたわけである。そろそろ研究の現場から離れる時がきている今、その入れ子を引き剥がして、自分の心、あるいは心についてわかってきたことを紹介する形で、本書を構想してみたという次第である。

●不安はある
 果たして、こんな構想のもとで書かれた内容がおおかたの読者をひきつけるのであろうか。不安である。
 可能な限り、認知心理学、学習心理学の関連知識には触れてきたつもりである。それが、個人的な体験の中に埋もれてしまわないように、専門用語には色をつけ、コラムを多用し、章末には、「認知と学習の心理学への橋渡し」のガイドも付けてみた。
 テキストに従った体系的な学びも大事であるが、本書の内容のような具体的なエピソードとからめた学びもあってよい。そこから体系的な知識のネットワークにアクセスすることもあるからである。ぜひ、本書で触発された知的好奇心を専門書へと発展的に展開してほしいものである。

● 謝辞
 本書の編集である森正・創価大学教授には、査読も含めて貴重な示唆をいただいた。
また、培風館の小林氏には、編集作業で多大のお世話になった。
ここに感謝の意を表します。

写真 我が家の椿、満開

認知的体験 再掲

2007-03-30 | Weblog

●認知的体験「サプリメント」06/9/7
サプリメントの広告が多い。買ってみたいものばかりであるが、すべてを買うと、飲むのが大変。以前、一袋だけ買ってきたが、いつまでたっても減らないので止めてしまった。
身体によいある特定の栄養素だけを抽出した飲めば、効率よく栄養がとれるとは思うが、栄養素も実は他の何かと結びついて有効性を発揮しているはず。
それにしても、マルチビタミンなどと銘を打たれるとつい買ってみたくなる。高齢になると、食べる量が減るので、それだけ栄養摂取も減る。サプリメントについ頼りたくなる。今我が家でやっているのは、ご飯にそうしたものを入れてたくことだけ。
●認知的体験「今日の中ドジ;約束日時の混乱」06/9/7
「7日(水)」新宿東交番の前で、と約束した。自分は、水曜日のほうで、相手は、7日のほうでと解釈。携帯電話でなんとか会えた。
夏休みで曜日と日時の感覚がややはっきりしなくなったための混乱。それにしても、こんな時は、どっちですか?の確認を入れてくれればよいのになー。


sahsin  十条商店街の中にある演舞場
      いい光景だなー

氾濫する心用語

2007-03-30 | 認知心理学

1) 氾濫する心用語
  今の日本の心をめぐる特徴的な状況の一つとして、斉藤環(2001)は、心理学化を挙げる。その一つに、誰もが心理学者のごとく、心について興味関心を持ち、心を説明する用語を日常語のごとく使うありさまがある。
たとえば、中学生のいじめによる自殺が続いた。心理学者も含めて、あれこれかまびすしい議論がマスコミを通してなされたのは記憶に新しい。その中で、不安、攻撃性、性格、対人関係などなど、心にまつわる用語がごく普通に飛び交ったいた。
こうした状況になってきたのは、心理学が一般に普及してきた事情もあるとは思うが、それよりも、もっと本質的なところで、心については誰しもがそれなりに語る用語を持っているという事情がある。なにしろ、4歳頃になると、早くも心の存在をわかってくるのであるから、誰しもが、心について語る用語を豊富に持つようになってもまったく不思議ではない。かくして、誰もがそれなりに素人心理学者になれるのである。


「出口のない海;書評」

2007-03-30 | 教育

●認知的体験「出口のない海;書評」06/9/13
横山秀夫著、講談社文庫。回天特攻隊で死なざるをえなかったかつての甲子園のエースの物語。物語としては定型であるが、やはり感動させられる。それにしても、あの横山氏の著作とはやや驚き。山田洋次のあとがきより、本人のあとがき(執筆動機)をみたかった。

心理学研究法 

2007-03-29 | Weblog

1-3 まとめ
1)1世紀余にわたる現代心理学は、心への内観的分析からはじまり、その反動として、20世紀前半、自然科学的な因果実証研究のパラダイムを踏襲した行動主義の流れが隆盛を極めたが、20世紀後半になると、心のメカニズムについてのモデル構築を志向した認知主義の大きな流れができた。
2)心理学研究法は多彩である。その理由としては、心そのものが多彩であること、研究者によって心についての基本的な考えがさまざまこと、心についての考えに時代的な思潮(流行)があること、の3つがあることを指摘した。

認知と学習の心理学

2007-03-29 | 認知心理学
05/7/3海保 ばいふうかん  
培風館 海保著「認知と学習の心理学」

2章 テニスをするーーー運動技能の形成

2.1 テニス歴40年
25歳で徳島大学に助手として就職した。学生時代の千葉から茗荷谷までの片道2時間の遠距離通学から一転して職住近接となった。たっぷりと時間が出来た。その余裕時間の中の一部に入ってきたのが、テニスであった。運動場の隅にある二面のテニスコートで先生仲間と週に3,4回は、テニスをするようになったのである。
ほとんど正式の訓練は受けていなかったので、ルールもしっかりとは知らなかったほどである。いきなりぶっつけで試合を楽しむのである。最初は、したがって、迷惑参加であったが、ずうずうしく頻繁にコートに出かけた。次第に、上達してきて、それなりのゲームが楽しめるようになってきた。
ほとんどが研究室で一人で机にかじりついていることの多い生活の中で、身体を動かす楽しさと健康向上と共に、こうした場で普段はあまり話しをしたことのない先生仲間と一緒になれるのは実に楽しかったし新しい人間関係を作る上でも貴重であった。

2.2 練習嫌い
そのテニス。大学もかわり還暦を過ぎた今でも回数こそ週に2回程度にまで減ってしまったが、いまだに続いている。
それほど好きなテニスでありながら、あるレベル以上に上達しない。理由ははっきりしている。練習しないからである。
そもそも、テニスをはじめた30年前から、練習抜きですぐに試合である。以後、まったく練習なるものをしたことがないのである。上達はもっぱら試合をしながらである。したがって、上達レベルも推して知るべしである。
現在もっぱら使っている4面のコートのうち、隣のコートは、我々とはレベルの違う4人が使っている。その4人は、ゲームをするまでに、ストロークからはじまって、ボレー、スマッシュまで実に丁寧な練習をしてからやおらゲームをする。その頃には、我々はゲームも佳境に入っているのが常である。
下手なのだから練習をして上達すればよいのだが、その地道な努力が嫌いなのである。

2.3 なぜ練習が嫌いなのか
運動技能に限らず認知技能も、上達には練習は不可欠である。練習の増加関数として、技能は向上するからである。一時的な進歩の停滞(プラトー)こそあれ、「間違った」練習さえしなければ技能が低下することはない。

図 典型的な練習曲線

それがやりたくないのである。
試合の勝ち負けを競うほうが楽しいということもある。競争は、何事によらず動機づけの有力な手段である。
また試合の中には、人間関係といった試合とはあまり関係のなさそうなものも含めてさまざまな要素が入り込んでいるので、それらと対処するのが楽しくーー時には面倒になることもあるがーー、また飽きがこないということもある。

コラム「競争と協調」******
テニスのダブルスには、相手との競争と共に、自分のパートナーとの協調も必要である。これが、ダブルスのおもしろさの一つである。
まれにすることもあるシングルだと、競争だけがあからさまになり、その重さが楽しみの枠を越えてしまう。かくして、シングルはほとんどしない。
しかし、これがプロテニスだと、逆に、シングルのほうが、見ていて楽しい。それぞれのプレーヤーが強烈な個性を発揮してプレーをするからである。それに、自分ではいやだが、人が競争の極地で苦しんだり喜んだりするところを見るのは、ドラマを見るようで実に楽しい
*****
これらは、なぜ練習が嫌いなのかへの周辺的な答えである。次は、練習そのものが嫌いな理由である。
一つは、単調さ。
ゲームの持っている多彩さにくらべると、練習は単調である。ストローク、それもバックストロークだけを何度も何度も繰り返しやらなければならない。同じことの繰り返しは練習には必須である。
2つは、強制感。
練習であるから、一定の目標へ到達することを目ざしての努力が必要である。一挙手一投足がその到達目標にふさわしいかがチェックされる。コーチでもいれば、なおさら、そのチェックは厳しいものになる。そこに、たかが遊びなのにというような不真面目な気持ちが少しでもあると、練習は強制されたものとの思いが強くなってしまう。

牛乳有害説への反論

2007-03-29 | 心の体験的日記
牛乳、ヨーグルト、コーヒー有害論は、新谷氏の説である。
ミラクル・エンザイムをマジカルキーワードにした
実にわかりやすい本なので、説得力はある。しかし、
ほとんど実証データなし、もっぱら自らの実践と権威だけを
ベースに主張するだけ。
それを読んで我が家は、牛乳を半分にしてしまった
もっとも栄養過多をおそれてということもあったので。
それにしても、あの程度の論拠で牛乳やヨーグルト、ダメという主張に
業界が反論しいないのはなぜだろうと不思議だった。
やはり、新谷説ーーというより新谷語録は正しいのか、と思ってしまう。
それがやっと、酪農乳業協会が質問状を出したとのニュースを見た。
牛乳消費が落ち込んでいるところに、新谷説である。影響は大きいはずである。
論争や根拠の呈示を求めること、これが健全な社会ではないか。
「食べてはいけない」という本もある。これには、実名入りで危ない
食品が掲載されている。これも、ほとんど、業界は無視を決め込んでいる

今日の小ドジ

2007-03-28 | 心の体験的日記
10枚ほどの原稿が見つからない
ファイルからフリントアウトしたことは覚えている。
しかたなく、もう一度、プリントした。
ところがたくさんある紙の空ファイルの一つに入っているのを偶然見つけた。
見つからない時間は、24時間。