●研究者も人であり研究者でもある
研究者も研究の場を離れれば一人の生活者である。生活者としてのモラルを守ることは当然である。ところが、これが意外と難しい。とりわけ、大学をずっと仕事と生活の場にしてきた者は---日本では、ひとたび大学教官になると定年まで外の世界に出ることは極めてまれ---、外の世界を知らないだけに、世間一般の生活者としてのモラルを守れないことが多いように思う。そこにこそ個性があり、アイデンティティがあるとも言えるし、とりわけ横ならび意識が強い日本社会ではむしろ希少価値もあるとも言えるが、研究者が世間---研究者の生活の中にも「世間」(1)が実はあるのだが---と接触するようなところでは、軋轢が発生してしまうことも多い。 また、心理研究者のモラルにいく前にさらに研究者としてのモラルに関しても一言。
研究者モラルコードとは、研究に携わる者なら誰しもが守らなければならないものである。たとえば、
「社会、人を貶めるおそれのある研究はしない---判断が難しいが---」
「成果は公開する」
「無断で他人の研究を使わない」
などなど。
もちろん、ここでも、ときどき研究者のモラル違反が発生することもあるが、逆に、「世間の人」が研究的な仕事をするときに、この研究者モラルに違反することが多い。
さて、人として、研究者としてのモラルコードを守っただけでは、「心理」の研究者は十分ではない。研究対象が人であるだけに、さらに厳しいモラルコードがある。
●心理研究者のモラル
古澤ら(2)は、心理学の研究者倫理として、「協力者の尊重」「守秘義務」「協力者への恩恵(得られた成果を協力者に還元する)」の3つを挙げている。
アメリカ心理学会は、もっと細かく次のような10の原則を定めている。要点のみ摘記。 (1)研究が倫理的に容認できるかどうか
(2)参加者を危険にさらす度合いをあらかじめ検討する
(3)協同研究者も同様の責任を負う
(4)研究内容の説明責任
(5)研究の必要上、隠ぺいやごまかしを使うときは十分に慎重であること
(6)参加者はいつでも参加を断ることができる
(7)被験者を危険な状態にさらさない
(8)研究成果を参加者に知らせる
(9)参加者に好ましくない影響を与えたときは、それを除去、矯正する
(10)参加者についての情報の守秘義務
かつて、行動主義者・ワトソンが、生後11ケ月のアルバート君を使って、情動条件づけの実験を行なったことがある。白ネズミを見せては大音響を出して、白ネズミに対する恐怖を条件づけるというものである(注3)。10のモラルコードを適用するとどうなるであろうか。
●心理研究者のモラル・ハザード
このように文章として明文化されると、モラルコードの遵守はごくあたり前で、何を今さらという感じがするかもしれない。しかし、実際には、厳密にこれらのコードを守ろうとすると、いくつかの困難に直面する。
心理研究者の側からすると、一定の人数を一定の期間内に集めて研究しなければならないので、どうしても無理をすることになる。これが、当たり前のようになると、モラル・ハザード(モラル崩壊)をきたす恐れがある。
その1
心理実験や調査には、不本意な時間的な拘束、さらには、不本意な作業がどうしても入ってくる。実験、調査への参加は任意、いやなら止められるとは言っても、それでは所定の被験者が確保できない。
英文の論文では、「被験者は授業の単位取得要件の一部として参加した」との一文が入っていることが多い。しかし、被験者からすると、これは、一種の強制に近い。前述のコード(8)成果公開によって償うことで我慢してもらうことになるが、心理関係以外の授業では、あまり償いにはならない。
その2
認知研究が盛んになるにつれて、被験者に過大な要求をする研究が多くなってきたように思う。「今、あなたが考えていることを口に出して言ってください」と指示されて(注4)、びっくりしない人はいないのではないか。過大な心的作業は、被験者に不全感を残す。しかし、研究者からすると、データはほしい。そこで無理を言うことになる。被験者へのアフターエフェクトが多いに気になるところである。
注
(1)研究者の生活の中の「世間」とは、就職、昇進、名声、評価などにまつわること。研究者仲間では「俗事」などと言って軽蔑的にみるのが「格好よい」とされている。内実は、研究者の「世間」は、口外できないほど「世間離れ」しているようなところがある。
(2)古澤頼雄ら(2000)「研究の倫理」 「発達研究の技法」福村出版に所収。 なお、ここで言う協力者は、実験に協力してくれる人の意味である。日本では、被験者(subject)が一般的だが、英語論文では、participantが最近では一般的。
(3)WATSON,J.B. (1930) 安田一郎訳「行動主義の心理学」河出書房新社
(4)プロトコル分析という。認知研究の切り札のごとく多用されたこともあった。 海保・原田編著「プロトコロ分析入門」(新曜社)参照