心の風景 認知的体験

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認知的体験
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ポジティブマインド
大学教育
老人心理

傾聴」心理学基本用語

2020-11-14 | 今日の論考


  • 傾聴(active listening)
相手の気持ちに配慮して相手の言い分をじっくりと聴くこと。カウンセリング場面における必須の要素技術の一つ。質問したり、批判したり、忠告は厳禁で、相手の言い分を存分に引き出すことがねらいである。
傾聴することによって、相手は自分が受け入れられているという気持ちになれるので、それだけでストレス解消の効果があるし、相手の本音を知ることもできる。ケアーの現場でのコミュニケーションの要素技術としても活かせる。



politically correct

2020-09-11 | 今日の論考
最近、知ったことばである。
「政治的に正しい」の意味なんだろうが、
なんだかしっくりしない。
人種差別がらみで使われていたと思うが、
いいのかなー
政治権力が変わったら、それは「政治的に正しくない」となってもいいのかなー

むしろ、「倫理的に正しい」のほうがいいのではないかなー
こういう問題は、しかし、心にまで立ち入ると、一筋縄ではいかない。
正しさにはいろいろあるから。

●論理的に正しい<<これはあまり問題ない
●科学的に正しい<<これもあまり問題ないのだが、科学的に正しい」と決まるまでには、大変な時間がかかる
●感情的に正しい<<これはあまり言わないが、人種差別などでは、この扱いがとても面倒
●宗教的に正しい<<他の宗教を信じている人に、これを持ち出すと、大変なことになるが、かなり強力で頻繁に使われる。



リスク(risk )」心理学基本用語

2020-08-21 | 今日の論考


  • リスク(risk )
リスクとは、「生命の安全や健康、資産や環境に、危険や傷害など望ましくない事象を発生させる確率、ないし期待損失」である(日本リスク研究学会)。数学的な表現をするなら、リスクは、危険の発生確率と損失の大きさの積の期待値として定義される。
リスクは、個人の生活はもとより、社会や国家の至るところで問題となる。
リスクゼロは理想としてはありうるが、科学技術の進歩は、ハイリスク・ハイリターン社会を作り出し、多彩なリスクを受容しながら万が一のリスクに対処することを余儀なくさせる。



TV.CM考

2020-02-15 | 今日の論考
一日中、TVがついているので、自然にCMが目と脳に飛び込んでくる。

○同じCMが1日5回くらい、いやもっと多いかも、放映される
○CM収入で成り立つビジネスだから仕方ないかもしれないが、
CMの合間にドラマが放映されるようなのはなー。
サッカー放映は、思い切ったことをやった成功。
○食品CMを何度も見ると、不思議に食べたくなる
  (接触頻度効果ーー接触頻度が多くなると好意度が高まる)
○おなじ俳優が別々の会社のCMに出るケースが、いくつかある
○@@980円が多い
○最新映像技術が駆使されている。
○気になるCM
 ・弁護士事務所がやっている過払金請求CM
 ・全くなんの商品、企業のC Mか不明のもの
 






振り込め詐欺」今日の論考

2019-04-01 | 今日の論考


振り込め詐欺

高齢者を狙ったオレオレ詐欺の中核になっているのは、高齢者を思い込みの世界へ誘導してしまうことである。
そのために使う3点セットがある。一つは電話。電話はコミュニケーションの道具としては
性能はよくないが、それが嘘を見抜けなくさせている。二つ目は、孫や子どもなど最も関心の強い家族のトラブルのでっちあげ。3つは時間切迫の演出である。
この3点セットによって、高齢者を一気に認知的なパニック状態に陥れ、まともな情報処理ができないようにして、嘘の世界を真実と思い込ませてしまう。
思い込ませてしまえば、後は思いのままに高齢者を動かすことができる。

利便・快適機能を高める際の考えどころ]今日の論考

2017-08-02 | 今日の論考
利便・快適機能を高める際の考えどころ

 車技術に限らず、多くの技術は、安全・安心性と利便・快適性の向上の方向に進化している。その際に、手動から半自動、そして自動へ技術進化は、少なくとも安全・安心に関して言えば、人間そのエラーしやすきものの関与をできるだけ防ぐための一つの有力な方策であることは間違いない。

 しかし、利便・快適性となると、事は単純ではない。利便性と快適性とを分けて考える必要がある。

 利便性を、所定の操作の目的を達成する際の意識的な努力(感)の少なさと定義した。したがって、利便性は、明らかに、手動より半自動のほう、半自動より自動のほうが高まる。

 しかし、快適性は、手動でも半自動でも自動でも、それぞれ質の違った形で問題とせざるを得ない。単純な線形関係にはない。
 
 手動なら、複雑操作でも習熟によって快適性は保証される。
 半自動なら、手動と自動の領域区分に仕方が問題となる。
 自動なら、絶対安全・安心が保証されるかどうかが最大のポイントとなる。

100点よりも100%を」気になる広告コピー

2017-03-15 | 今日の論考
電車で見つけた。
保険会社の広告コピー。

100%よりも100点だったかも。
それにしても、気になる。

かりに、予備校あたりの広告だとすると
100点 テストで求める達成規準に到達の意味?
100% もっと大きな目標、たとえば難関大学などへの合格を目指すの意味?

それとも
100点 絶対評価?
100% 相対評価?

保険会社だから、
現状に満足100点よりも
あらゆることの満足100%の意味かなー

いずれにしても、気になるコピーである。




心理研究者のモラルコード  人を使う研究者が守らなければならないこと」今日の論考

2017-02-05 | 今日の論考
●研究者も人であり研究者でもある  
研究者も研究の場を離れれば一人の生活者である。生活者としてのモラルを守ることは当然である。ところが、これが意外と難しい。とりわけ、大学をずっと仕事と生活の場にしてきた者は---日本では、ひとたび大学教官になると定年まで外の世界に出ることは極めてまれ---、外の世界を知らないだけに、世間一般の生活者としてのモラルを守れないことが多いように思う。そこにこそ個性があり、アイデンティティがあるとも言えるし、とりわけ横ならび意識が強い日本社会ではむしろ希少価値もあるとも言えるが、研究者が世間---研究者の生活の中にも「世間」(1)が実はあるのだが---と接触するようなところでは、軋轢が発生してしまうことも多い。  また、心理研究者のモラルにいく前にさらに研究者としてのモラルに関しても一言。
研究者モラルコードとは、研究に携わる者なら誰しもが守らなければならないものである。たとえば、
「社会、人を貶めるおそれのある研究はしない---判断が難しいが---」
「成果は公開する」
「無断で他人の研究を使わない」
などなど。
もちろん、ここでも、ときどき研究者のモラル違反が発生することもあるが、逆に、「世間の人」が研究的な仕事をするときに、この研究者モラルに違反することが多い。
 さて、人として、研究者としてのモラルコードを守っただけでは、「心理」の研究者は十分ではない。研究対象が人であるだけに、さらに厳しいモラルコードがある。

●心理研究者のモラル  
古澤ら(2)は、心理学の研究者倫理として、「協力者の尊重」「守秘義務」「協力者への恩恵(得られた成果を協力者に還元する)」の3つを挙げている。
アメリカ心理学会は、もっと細かく次のような10の原則を定めている。要点のみ摘記。 (1)研究が倫理的に容認できるかどうか
(2)参加者を危険にさらす度合いをあらかじめ検討する
(3)協同研究者も同様の責任を負う
(4)研究内容の説明責任
(5)研究の必要上、隠ぺいやごまかしを使うときは十分に慎重であること
(6)参加者はいつでも参加を断ることができる
(7)被験者を危険な状態にさらさない
(8)研究成果を参加者に知らせる
(9)参加者に好ましくない影響を与えたときは、それを除去、矯正する
(10)参加者についての情報の守秘義務  
かつて、行動主義者・ワトソンが、生後11ケ月のアルバート君を使って、情動条件づけの実験を行なったことがある。白ネズミを見せては大音響を出して、白ネズミに対する恐怖を条件づけるというものである(注3)。10のモラルコードを適用するとどうなるであろうか。

●心理研究者のモラル・ハザード  
このように文章として明文化されると、モラルコードの遵守はごくあたり前で、何を今さらという感じがするかもしれない。しかし、実際には、厳密にこれらのコードを守ろうとすると、いくつかの困難に直面する。
心理研究者の側からすると、一定の人数を一定の期間内に集めて研究しなければならないので、どうしても無理をすることになる。これが、当たり前のようになると、モラル・ハザード(モラル崩壊)をきたす恐れがある。  

その1
心理実験や調査には、不本意な時間的な拘束、さらには、不本意な作業がどうしても入ってくる。実験、調査への参加は任意、いやなら止められるとは言っても、それでは所定の被験者が確保できない。
英文の論文では、「被験者は授業の単位取得要件の一部として参加した」との一文が入っていることが多い。しかし、被験者からすると、これは、一種の強制に近い。前述のコード(8)成果公開によって償うことで我慢してもらうことになるが、心理関係以外の授業では、あまり償いにはならない。  

その2
認知研究が盛んになるにつれて、被験者に過大な要求をする研究が多くなってきたように思う。「今、あなたが考えていることを口に出して言ってください」と指示されて(注4)、びっくりしない人はいないのではないか。過大な心的作業は、被験者に不全感を残す。しかし、研究者からすると、データはほしい。そこで無理を言うことになる。被験者へのアフターエフェクトが多いに気になるところである。


(1)研究者の生活の中の「世間」とは、就職、昇進、名声、評価などにまつわること。研究者仲間では「俗事」などと言って軽蔑的にみるのが「格好よい」とされている。内実は、研究者の「世間」は、口外できないほど「世間離れ」しているようなところがある。
(2)古澤頼雄ら(2000)「研究の倫理」 「発達研究の技法」福村出版に所収。 なお、ここで言う協力者は、実験に協力してくれる人の意味である。日本では、被験者(subject)が一般的だが、英語論文では、participantが最近では一般的。
(3)WATSON,J.B. (1930) 安田一郎訳「行動主義の心理学」河出書房新社
(4)プロトコル分析という。認知研究の切り札のごとく多用されたこともあった。 海保・原田編著「プロトコロ分析入門」(新曜社)参照



人口知能」今日の論考

2017-01-22 | 今日の論考
人口知能」今日の論考

●人工知能ブーム
① 「2045年、人工知能(AI)が人知を超える「シンギュラリティー(特異点)」を迎える。荒唐無稽な話ではない。人の心にまで入り込み始めたAIが社会や国家、経済を揺さぶり、歴史を変える。人類の飛躍か試練か。世界はその日へ向けて走り出した。
(日本経済新聞、2016年11月5日)」
②富国生命保険が、人工知能(AI)を活用した業務効率化で、医療保険などの給付金を査定する部署の人員を3割近く削減する。
毎日新聞電子版(2016年12月30日)
●何度目かの人工知能ブーム
 これで何度目だろう。
 コンピュータが開発され認知科学の誕生した1950年代から、コンピュータの進化とともに、何度も、「こんな人工知能ができました!」という話題が世間を賑わしてきた。そのたびに、コンピュータは人間を超えるのかが話題にされてきた。
 今回は、一方では、まさに人工知能の「知能」の優秀さの証明がブームの一つのきっかけであった。将棋と囲碁の対決で、名人に人工知能(AlphaGo)」) が勝ったのである。
もう一つは、ユビキュタス人工知能とも言うべき新領域の開拓である。自動車の無人運転に象徴される実用的な人工知能技術への展開である。

●機械と人間の関係
 今や機械を人間(労働者)の敵とみなすような風潮はほとんどない。1760年代から始まる産業革命のころ、仕事を奪われた労働者によるラッダイト(機械打ちこわし運動)のようなことはまず起こらない。
 それでも、コンピュータあるいは人工知能の進化が今の人間の仕事を奪う、あるいは、仕事そのものが消滅するという話はしきりにニュースになる。ただ、社会の豊かさが、18世紀の社会とは格段に違う。少々の仕事が人工知能に奪われても、それはむしろ人間に富と快をもたらす。
 それよりも、人工知能が人間の知能を上回ることのほうに関心が向く。そして、人工知能が人間をしもべにおくような社会の到来に不安を感じる。これが人工知能ブームが巻き起こると必ず取り上げられる定番の関心であり不安である。
 
●機械と人間
 人類の進化とともに、機械も進化してきた。最初は、手足の機能を増強するために、次いで感覚器官の機能を高めるために、機械が発明された。産業革命は、その歩みの中で起こった一つの革命的な変化と言える。
 ところが、20世紀後半のコンピュータは、頭の働き(知能)全体に深くかかわる機械の出現を予兆させる機械の出現なのだ。その行きつく先が人工知能となれば、ラッダイトとは次元の違った衝撃を人類に与えたとしても不思議ではない。
 ちなみに、最近、AIかIA(intelligent amplifier)という概念が登場してきている。これを使えば、要するに、IAならこれまでの機械にすぎないのだが、AIとなると人間の本質的な機能を機械に代替させることになり、人間存在への本質的な脅威となる。
 おまけに、最近では、外見が人そっくりのロボット(ヒューマノイド)の開発がすすみ、ますますその脅威を世の中に実感させている。外見の類似は、実は、AIとはあまり関係ないのだが。

●AIの資格 
 人間の知能を超えるAIと呼べるにふさわしい要件を、レベルで表現すると、次のようになるのだが、これはまたAIの歴史でもある。
レベル1 論理的な思考が正確かつ高速でできる
  解法のわかっている問題を解くことができる。
レベル2 パターンマッチング、知識マッチング機能を有する
  膨大なデータの蓄積と個別特徴のマッチングによってパターンの認識ができる。
レベル3 学習機能を有する
  ルールベース(与えられた論理の枠内)と蓄積された知識とによって新しい状況でも
ある程度まで適応的にふるまえる。今回の人工知能ブールの基盤技術である深層学習
がこのレベルである。
レベル4 自己判断・創発機能を有する
 黙っていても、あたかも子どもが成長するかのごとく成長できる。

現在はレベル3の段階であるが、その機能のすごさからついレベル4を期待してしまう。
これがブームを生み出すのだが、レベル4は、原理的に機械であるコンピュータには無理
なレベルである。
「究極のAIは悩み自殺する (宮本佳則)」(毎日新聞投稿)のだが、それは無理とい
うもの。


●どこへいくAI
 どこに行くにしても、レベル3の段階にとどまるわけだが、制約範囲をどんどん
拡大しながら発展していくことは間違いない。とはいっても、その際、AIでできること
ならすべてをやってよいとはならないことは言うまでもない。
 技術の進歩は常に社会情勢と持ちつ持たれつの関係になる。バランスをどうとるかは、
すぐれて政治的な問題ともなる。







医療現場の対話環境の改善」今日の論考

2016-12-07 | 今日の論考

医療現場の対話環境の改善」今日の論考

●医療ミス
かつて、2人の手術患者を取り違えて間違った手術をしてしまった事故があった。あまりのミスにまだ我々の記憶に残っている。その過去の点滴ミスや手術ミスなどさまざまな人為ミスによる医療事故が各地から報道された。医療事故は、被害者が一人のことが多く、したがって、よほど特異なケースでないと、マスコミで報道されることがない。
しかし、医療現場でのその数は少なくないようである。訴訟件数は、年々増加して95年度は2244件(最高裁まとめ)とのことである。1件の重篤な顕在事故の背後には事故寸前で気がついてという「ひやりはっとケース」が300件くらいあるとされている(ハインリッヒの法則)。事故防止のためには、その「ひやりはっとケース」にまで踏み込んだ包括的な対策を講じなければならないが、ここでは、医療現場での対話環境の改善という観点から、人為ミスによる医療事故の防止策を考えてみたい。

●医療現場の対話環境
 対話環境をより良質のものにするためには、医師・看護師と患者との間に情報の共有が、まず必要となる。なぜ、その医療行為がその患者に必要なのかを、行為の大小を問わず、また行為のたびに、十分に説明するようにしてほしい。
 一つの具体的な提案は、患者との接触がもっとも頻繁な看護師が、責任を持って対話ができる範囲(権限)を拡大することではないかと思う。現状は、ほんのちょっとしたことをたずねても、「先生に聞いてください」と逃げられてしまう。これは、対話拒否の強烈なメッセージになってしまう。あげくは、「先生は3分間診療」で忙しくて、聞く耳持たずでは、何おか言わんやである。
 第2に、ともすると一方的になりがちな医師からの「説明と説得」から、患者の疑問や意見などを積極的に受け入れる姿勢をみせてほしい。 ただでさえ、病気は患者をしてすべて医師・看護師におまかせという気持ちにさせがちである。ましてや医療現場が対話不在の雰囲気に満ち満ちていれば、もはや患者は絶望的な気持ちにさえなってしまう。言われるがまま、なされるがままとなって、せっかくの生身の患者からのミス・チェック機構が機能しなくなってしまう。
 
●せめて普通の会話環境でもあれば
ここでの一つの具体的な提案は、せめて「会話」だけでも、もっと活発にすることではないかと思う。「名前のある」相手とのさりげない会話には、相互のやりとりの活性化や場の雰囲気をリラックスさせる効果がある。対話の入口として効果的である。あまりに静かすぎる医療現場が多すぎないか。効率や多忙さを言い訳にしてはならない。
 なお、対話環境の改善は、医療従事者側だけではできない。患者側も変わらなければならない。インフォームド・コンセントが一般化し自己責任の原則が医療でも求められる時代になってきている。このことをしっかりと認識した上で、医療現場で
みずからの思いを率直に表現し、医療従事者と対話ができるようにならなければならない。
 医療行為も、医療従事者と患者との生身のかかわりである。当然、そこには対話がなければならない。このことを踏まえた医療現場の構築が、人為ミスによる事故を減らすことだけでなく、患者中心の医療を行なうことにつながるはずである。










「薬物依存」今日の論考

2016-11-09 | 今日の論考
「薬物依存」今日の論考

●後を絶たない有名人の覚せい剤使用事件
 覚せい剤の使用は、有名人だけではないはずで、有名人でこれほどの広がりを見せているということは、事件にならない、そして、犯罪として摘発されない潜在ケースは、相当の数に上っているはずである。
 ちなみに、厚生労働省の統計によると、平成26年度で、薬物使用にかかわる法律違反の事案件数は、次のようになる。
覚せい剤取締法違反     11,148件
大麻取締法違反        1,813件
麻薬及び向精神薬取締法違反    452件
アヘン取締法違反          24件
 有名人の覚醒剤吸引事案や吸引による交通事故のニュース報道がしばしばあるので、つい増加傾向にあるのかと思われるがーーちなみに、こうした判断バイアスを利用可能性ヒューリスティックスと呼ぶーー統計的には、むしろ減少傾向にある。

●なぜ、覚せい剤にはまるのか
 薬物依存症とは、その薬物に依存することによって生活の「主観的な」質が向上し、それがないと自らの生活や社会生活にさまざまな障害となる禁断症状が出てくるようなものである。
 依存症は、上に挙げた禁止薬物依存症のほかに、アルコール依存症、ニコチン(たばこ)のような日常嗜好品への依存症もある。両者を分けるのは、突き詰めると、程度問題になり、本質的には同根である。
 さて、こうした薬物依存は、どのようにして発生するのであろうか。
 最近の脳科学では、依存の物質的な(生化学的な)メカニズムがかなりわかってきているので、近い将来は、確実な治癒が可能となるはずであが、薬物に依存しないようにする防止策のほうも大事である。
そもそも、どうして薬物に依存するようになるのであろうか。
大きくは2つ、一つは、逃避、もう一つはより強烈な快感への希求である。
日常的なストレスからの逃避、さまざまな原因による不安からの逃避は、ごく普通に発生する。それから逃れたいとの気持ちもごく当たり前である。それを普通(の人)は、それぞれの工夫によって気持ちを解消する(鎮める)のだが、気持ちが異常に高まってしまい自らの工夫ではコントロールできないようになってしまったときや、工夫の仕方がわからないときに、身近にある薬物に頼ることになる。アルコールがそんなときに一番手っ取り早いのだが、アルコールが飲めない人や、禁止薬物が手軽に入手できる人は、それに頼ることなる。
もう一つのより強烈な快感への希求は、ストレスや不安から逃れるための薬物使用が、思いもかけない快感を体験させてくれたことから発生する。そして、これがストレスや不安からの逃避とは無関係に独り歩きすると、日常的な依存へと発展してしまう。

●薬物依存を防ぐには
 薬物依存は防ぐ必要はあるし、健康や社会に害をもたらす薬物は全面禁止が当然であるが、それ以外の薬物や嗜好品、たとえば、アルコールやたばこのようなものの使用は、ストレス対策、快感追及――言葉が過ぎて誤解を招くならば、幸福感向上――手段としては、あってもよいし、なくてはならないとさえ言える。その上で、薬物依存の対策を考えることになる。
 そのヒントは、アルコール依存対策にある。
 まずは、法律的な制約、禁止である。アルコールには年齢制限や飲酒時の禁止事項などがある。しかし、それ以外のところでは、解禁である。
 飲酒運転の厳格化などの動きはあるが、アルコールに対する現在の法律的な対応は日本では妥当なところである。
ちなみに、1920年から1933年にアメリカで実施された禁酒法の顛末は、象徴的である。アルコールがもたらす害を根絶すべく、製造から販売までを全面禁止した結果、地下にもぐり、犯罪組織に利益をもたらすようになってしまった。
どれほど立派な法律のように見えても、それが民意、現状とミスマッチしたものであれば、「法があっても対策あり」となり、実効性はなくなってしまう。

アルコールには、もう一つ、飲酒文化ともいうべきものがある。その中で作りだされてきたマナーも、依存の防止対策に一役買っている。もっとも、日本に関して言えば、ようやく最近になって、そのように機能するように飲酒文化が変わってきている。
関連はするが、余談。スラム世界での宗教戒律としての飲酒厳禁の実態はどうなのだろうか。宗教戒律なので法律よりも厳格なのだと思うのだが。意外な対策がもしかしたらあるのかも。
言うまでもなく、こうした法律的、文化的は制約だけでは、アルコール依存症が根絶できないように、薬物依存症対策としては不十分である。

次にあるのは、医学的な方策である。
依存症の脳内メカニズムが解明されてくるにつれて、効果的な治療法が開発されるので、大いに期待が持てる。ただし、これには予防的措置はあまり期待できない。
予防的な効果が期待できるのは、その効果には不分明なところがあるが、啓蒙・教育活動とカウンセリングであろう。
啓蒙・教育活動は、社会的な圧力として薬物依存の弊害を訴えることで、薬物に近づかない、使用しないようにさせるものである。
カウンセリングは、薬物に頼りたくなる人、あるいは頼ってしまう人の心を変えることである。医学的処置と連携しながらの試みとなる。

「参考」
Wikipediaより
覚醒剤(かくせいざい、英語: Amphetamine, 英語: Stimulant drug[1]、「覚醒アミン」とも)とは、アンフェタミン類の精神刺激薬である[2][3][4][5]。脳神経系に作用して心身の働きを一時的に活性化させる(ドーパミン作動性に作用する)ため、覚醒剤精神病と呼ばれる中毒症状を起こす。それに伴い、乱用・依存を誘発することがある。この薬剤の定義として、広義には中枢神経刺激薬を指したり、狭義には覚せい剤取締法で規制されているメタンフェタミンとすることもある[6]。


「国際」学術交流のもたらすもの]今日の論考

2016-11-08 | 今日の論考
「国際」学術交流のもたらすもの

外国との学術交流とて、国内でのそれと本質的には同じである。
 
もっとも、国内だけだと、専門を同じくする人のサークルは限定されていて、そのサークルに所属して5年もすると、情報交流が陳腐化してくる。交流する相手も同じ、話すことも同窓会的内容になってくる。

その点で、世界は広い。あらゆる点で異質な国際的な学術の社会と直接に接触することで、「生々しい」情報の収集ができるし、研究者の日常の知の枠組を壊し、それが新たな知の創発の契機にもなる。



精神労働の労働時間」今日の論考

2016-11-07 | 今日の論考
精神労働」今日の論考

「政府は、長時間労働の是正を目指し、労働基準監督署の専門職員である労働基準監督官を増員する方針を固めた。
電通の新入社員の過労自殺問題を受け、従業員に長時間労働をさせている企業の監督や取り締まりを強化する必要があると判断したためだ。残業時間を減らすための制度整備と並行して、現場の体制を拡充することで、働き方改革の実効性を高める狙いがある。」
(読売新聞、2016年11月6日より)

●労働時間を意識したことがないこれまでだった
 もっぱら精神労働に従事している大学教員には、いわゆる勤務時間がない。
 というと世間的には、驚かれるかもしれないが、授業をし、会議に出席しさえすれば、どこで何をしようと「基本的には」自由である。
 「基本的には」は微妙なのだが、法律的にはそれなりの制約もあるし、仲間内の空気、あるいは学問文化としての制約はある。たとえば、理工系の教員は朝から晩まで大学の研究室で仕事をしている教員が多いのに対して、文系の教員は大学の研究室を仕事場(研究室)にはしていない傾向があるので、医学出身のある大学学長いわく。「大学の先生を大学で捕まえるがとても難しい」となる。

●精神労働の時間管理の難しさ
 それでも、「大学教員は、24時間、いたるところで労働している」と豪語?する教員もいる。自分でも半分くらいはこの豪語に賛同したい気持ちはある。
 研究だけに限定すれば、そこでの精神労働は無制限である。寝ているときでさえ、いや寝ているときこそ、アイディアが頭の中で蠢いている。それくらいでないと、最先端の研究にはならない。
 でもそれを労働とはまったく思わない。少なくとも、どこからもそれを強制されていないからである。さらに、それによって、残業代がつくなどとはつゆほども思わないし、実際、大学教員には残業代の制度はない。そもそもタイムカードがない。

●強制と時間制約のある精神労働
 あまりにも恵まれた労働環境の話をしてしまった。そもそも「労働」の範疇に入らない話と言うべきであろう。世間的には(一般には)同じ精神労働でも、業務命令としてある時間制約のもとで行われているのが普通である。
 とりわけ問題なのは、IT労働者やデザイナーが、納期のあるアプリやデザインを作るといったいわゆる非定型の業務である。同じ精神労働とはいっても、「労働」のほうに力点が置かれる。場合によって、精神への負荷の度合いは肉体労働に匹敵する。度が過ぎると、精神障害が発生してしまう。
 そこに怖さがある。
 肉体労働なら、肉体の負荷はかなり目に見えるし、自己認識もできる。周りからも自分でも、過大な負荷の軽減措置が可能であるし、さまざまな法律的な保護(制約)もできている。
 しかし、とりわけ問題なのは非定型の精神労働である。仕事が目に見えない。頭をどれほど使っても、まったくアウトプットが出てこないこともある。逆に、あっというまにとてつもない仕事ができてしまうこともある。
 したがって、労働時間という制約条件があまり意味をもたない。残業時間を制限しても、ほとんど意味がない。逆に、残業をいくらやっても、できないものはできないのだ。残業をしなくとも、できるものはできてしまう。

●どうすれば精神労働の最適化はできるのか
それでも、日本の産業構造は大きく変わり、肉体労働は減少し、かつそれに従事することが嫌われ、精神労働が増加しその領域も多彩になってきた現実は、従来型の肉体労働を想定して作られている労働環境の変更を迫られている。
すでに注目すべき試みは行われている。
 一つは、ITを使った在宅勤務である。
 通勤という肉体労働からの解放というメリットだけでなく、自宅というリックスできるオフィスで仕事ができるのは、精神にも好ましい。
もう一つは、精神労働の属人化からの解放である。
 精神労働は得てして「特定の人」の仕事になりやすい。仕事に投入する精神の質と量がその人に依存しがちなのだ。できる人にはそのほうがよい。しかし、「その人」はいつもできるとは限らない。得意不得意もある。仕事との相性もある。そんなときでも、一定の質と量の精神労働のアウトプットを保証するためには、仕事を「特定の人」に預けるのではなく、「特定の“人々”」に預けるのである。あるいは、チームの協働作業にするのである。
2つの仕事a,bがあれば、Aさんにa、Bさんにbを割り当てるのではなく、仕事aは主がAさん、従がBさん、仕事bは、主がBさん、従がAさんという具合に。協働の効果は、質量ともに期待できるし、自分ひとりで抱え込む精神的な負荷が低下する。
もちろん、組合せ方やチーム編成によるマイナス面も発生するリスクはあるので、それなりの最適化のノウハウは必要になる。
冒頭にあげたような古い労働環境を想定した法律的、行政的な規制は、必要だとは思うが、実行性という点では疑問なところがある。






 
 



国際共同研究]今日の論考

2016-11-06 | 今日の論考
国際共同研究

 個人の特性と分離できないところもあるが、研究心(考え方、研究の進め方など)は、人種や文化や教育によって微妙に違ってくいる。
 この違いは、共同研究には利点にも欠点にもなる。
 研究心の異質さが創発を生むきっかけを提供してくれる利点や、その国、その大学、その社会・文化がもっている情報の蓄積と交流の拠点ができる利点がある一方では、研究面だけでなく生活面でも、その異質さを受け入れるための手続きコスト(諸事務手続き、生活環境の整備など)がかかってしまう欠点がある。
 一時的な交流なら、利点のみのつまみ食いですむが、一定期間の間、共同で研究するとなると、欠点のほうにも十分な配慮をしておかないと、足もとを救われかねない。
 研究には「国境」はないが、研究者には「国境」がある。この齟齬が、国際化が進行してくると目立ってくる。この齟齬を埋めるのが、国の国際学術研究行政であろう。
 これまでは、相手国に出かけての共同研究が圧倒的に多かった。この場合には、もろものの成果は、相手にほとんど帰属してしまう。高々、出かけた人が個人的に持ち帰る「知」が細々と蓄積されるだけである。国の政策としては、費用対効果比は低い。
 これからは、来てもらう国際共同研究が気楽に行なえるような国内の環境整備に重点を向けるべきであろう。
 人で言うなら、トップレベルの研究者の招聘・雇用はもとより、大学院生や博士号取得者レベルでの優秀な外国人の発掘・雇用。
 そして、金・物・制度で言うなら、研究者が気楽に来てもらえるようなものにすることにつきる。



歴史小説」今日の論考

2016-11-04 | 今日の論考
歴史小説」今日の論考

●歴史小説が好き
 ここ10年くらいは、もっぱら司馬小説ばかりだが、昔は、結構、あれこれ歴史物を読んでいた。そのときはまったく気にならなかったのだが、司馬小説を読むようになってから、歴小説における虚実が気になりだした。
 たとえば、司馬遼太郎著「桜田門外の変」という短編の冒頭。
① 桜田門外の変であまねく知られている有村治左衛門兼清
② 「江戸にきて何がいちばんうれしゅうございましたか」と、さる老女からからかい半分にきかれたとき、「米のめし」と治左衛門は大声で答えた。
③ 薩摩藩士にはめずらしく色白の美丈夫で、頬があかい。

①  は史実であろう。書き物という証拠物もあるはずである。
しかし、②はどうひっくりかえしても虚であろう。まさに、見てきたような嘘であるが、さもありなんという嘘である。司馬小説はこれがあるからやめられないところでもある。  
③ はどうであろうか。どちらでもいいのだが、これがあるから主人公の具体的なイメージを浮かべることができるし、人物に同化もできる。

●史実を構成するもの
 史実といわれるものには次のようなものがある。
① 書かれたもの、映されたもの、描かれたもの
② 建造物や古物品(絵画や彫刻など)や出土品
③ 旧跡
④ 伝承
歴史家は、こうした史実を丹念に発掘し蓄積することに努力を注ぐ。

●歴史小説家のすること
歴史小説家は、こうした史実を素材にして小説の形で物語を創作することに腕を競う。その腕の見せ所はさまざまであるが、たとえば、司馬遼太郎の場合は、このすべてを自家薬籠中のものとして登場人物を描ききるのだが、その巧みさに「虚」の部分もあたかも「史実」であるかのごとく思わされてしまう。
その巧みさのいくつか。
・主人公は無論のことさまざまな人物を登場させる
  人の登場しない歴史小説はない。人物との同化、反発などあたかもリアルな対人関係で発生する感情を読者に持たせることになる。しかし、人物像には具体的になるほど、虚が含まれざるを得ないが、おおむね主人公が歴史上重要人物であればあるほど一貫した人物像にはなる。とりわけ、思いは、本人の書き物が残っていることもあるので、史実に近くなる。
・風景、風俗描写を入れる
  臨場感を出すためには、必須。それだけに史実とはかけ離れた描写がどうしても含まれるはず。
●司馬遼太郎と村上春樹
 司馬遼太郎は、1作品を書くにあたっては、ドラック1台分の資料を漁るという。そうして集めた資料の博物館が大阪にある。それらを読み込んでの執筆、想像を絶する労力と時間だと思う。
 それと対照的に、村上春樹の小説。ほとんど想念の世界での執筆。資料あさりなぞとはほとんど無縁。それはそれで大変な苦労はあるかと思うが、表面的には楽にみえる。自分でも書けそうな気さえする。(笑い)