語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【読書余滴】デュマをめぐる雑談 ~『モンテ・クリスト伯』・ダルタニャン物語~

2010年07月01日 | 小説・戯曲
 桑原武夫はいう。「文学は、はたして人生に必要なものであろうか? この問いはいまの私には、なにか無意味のように思われる。私はいま、二日前からトルストイの『アンナ・カレーニナ』を読んでいるからだ」(『文学入門』、岩波新書、1950)。

 『アンナ・カレーニナ』は通俗小説である。すくなくとも丸谷才一『文学のレッスン』によれば、池澤夏樹はそう見ていたらしい。
 しかし、純文学よりも通俗小説あるいは大衆小説こそ、世の多数へ影響するところは大きい。
 多数の一人として、桑原武夫は暗記するほど『三国志演義』に読みふけった。哲学者の木田元も『闇屋になりそこねた哲学者』によれば、猿飛佐助その他の講談に熱中した時期があった。そして、桑原武夫も木田元も、その文章はとても読みやすい。大衆が読みやすい文章のコツを会得しているのだ。

 加賀乙彦は、『頭医者』の留学記によれば、船により渡仏したのだが、その船はマルセイユに入港したので『モンテ・クリスト伯』の舞台になったシャトー・ディフ(イフ城)を見物した。この監獄島、出発直前まで1年半監獄医をつとめていた加賀乙彦には興味津々だったが、同行者の一人、スタンダール研究家はちっとも関心を払わなかった。デュマのごとき通俗文学には目もくれない人なのであった。
 この研究家、スタンダールの中の文章でタクシーの運転手に話しかけたが、ちっとも通じないのであった。

 『モンテ・クリスト伯』の翻訳は、涙香黒岩周六によって『巌窟王』と題され、1901~1902年に刊行された。
 涙香は、ジャーナリストらしく、ネーミングが卓抜だった。エミール・ガボリオ“ Le petit vieux des Batignolles (バティニョールの小男)”を『血の文字』、F・D・ボアゴベイ“La Vieillesse de Monsieur Lecoq (ルコック氏の晩年)”を『死美人』などとやってのけた。ヴィクトル・ユーゴー“Les Miserables (レ・ミゼラブル) ”を『噫無情』と訳したにいたっては、ああ見事、と賛嘆するしかない。涙香が翻訳した(というか翻案した)100以上の小説のタイトルは、おおむねこういった調子だ。
 
 涙香にかぎらず、むかしの日本人は、よほどネーミングの感覚が発達していたらしい。かつて日本で公開された洋画のタイトルは、とてもシャレていた。たとえば、日本人にいまなお人気のあるオードリー・ヘップバーン出演作品から拾ってみよう。
 “Funny Face ”(1957)は『パリの恋人』だ。“The Children's Hour”(1961)は『噂の二人』、“How to Steal a Million”(1966)は『おしゃれ泥棒』、“They All Laughed”(1981)は『ニューヨークの恋人たち』、“Love Among Thieves”(1986)は『おしゃれ泥棒2』・・・・。
 いまの映画は、原題をカタナカ表記にすることでお茶をにごしている。

 ところで、ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』に、印象的な場面がある。
 旧ソ連の、インテリ囚人を集めた特殊研究所で、日ごろなにかと当局に反逆的な言動をとるネルジンが、ふと別の囚人が手にしている『モンテ・クリスト伯』に目をとめ、彼には珍しく辞を低うして乞い、借り受ける。そして、ふだんなら勇躍参加するような論争にくわわらず、ひたすら読みふけるのである。
 スターリニズムの犠牲者である囚人が読みふける復讐譚・・・・という構図には、なにか胸をつくものがある。

 『巌窟王』とくると、牢獄から脱出したところで事が成就したかのような印象を与える。いまは亡きスティーブ・マックィーン主演の映画『パピヨン』のように。あるいは、後にカーメル市長になったクリント・イーストウッド主演の映画『アルカトラズからの脱出』のように。両方とも実話がもとになっている。
 しかし、『モンテ・クリスト伯』では、エドモン・ダンテスが牢獄で呻吟する場面は、小説全体のごく一部でしかない。大部分は壮大にして手間のかかる復讐にページが割かれている。したがって、『巌窟王』というタイトルは、『モンテ・クリスト伯』の内容を過不足なく表しているとは言いがたい。
 とはいえ、『巌窟王』は、日本人を惹きつけるタイトルだ。自分も「巌窟」の中に置かれている、という閉塞感が日本人を魅するのかもしれない。あるいは、あるいは、自分をとりまくややこしい社会情勢に倦み疲れて、時々シンプルな立場に身をおいてみたくなるのかもしれない。囚人の生活はシンプル・ライフのきわみである。佐藤優も、また牢獄に入って読書に没頭したい、と何処かで冗談をいっていた。
 21世紀のわがテレビ・アニメでもこのタイトルが採用された(テレビ朝日、2004-2005年。また、NHK衛星第二、2008年、全24話)のも、しかるべき理由があったのだろう、と思う。

 かくのごとく『モンテ・クリスト伯』の人気は高いのだが、爽快さという点ではやはりダルタニャン三部作の後塵を拝する。
 第三部『ブラジュロンヌ子爵』の後半を訳した『仮面の男』に、こんな場面がある。

----------------(引用開始)----------------
 「(前略)おれは君に嘘をつけとは命令せんよ。それは君にできんことだからな」
 「うむ、それで?」
 「だから我々二人のためにおれが嘘をつこう。ガスコーニュ人の気質と、習慣からいっても、これは容易な問題だからな!」
 アトスは微笑した。(後略)
----------------(引用終了)----------------

 アトスの気質、ダルタニャンの機略と実行力、そして二人の友情を短い会話に描いて間然するところがない。
 そして、アラミス、ポルトスをふくめた4人の友情は、物語に複数の視点を与えるとともに、意外な波紋、予想外の展開をもたらす。目的限定的な復讐譚にはないおおらかさがあって、このあたりが爽快な所以だろう。

【参考】アレクサンドル・デュマ(石川登志夫訳)『仮面の男』(角川文庫、1998)
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