2010年4月1日付けで11歳6か月のプロ棋士が誕生。超治勲25世本因坊の11歳9か月を抜き、日本囲碁界では史上最年少記録だ。
この少女、藤沢里菜の父は、おなじく棋士の藤沢一就八段、祖父は藤沢秀行名誉棋聖である。2009年5月に亡くなった祖父から直接指導を受けたことはほとんどなかったが、その鬼才と逸話は耳に入っていただろう。
『碁打秀行』は、藤沢秀行名誉棋聖の奔放不羈な自伝である。
希代の借金王であった。その額は、一個人としては天文学的な数字だったらしい。昭和50年代、1億5千万円の収入があっても大半は返済に消えた。喜劇役者藤山寛美の、当時マスコミにとり沙汰された借金額より自分のそれのほうが多かった、と述懐している。競輪に憑かれて利子1日1割の借金を重ね、副業の不動産業がらみで後先の考えもなく小切手をきりまくる。小切手が期限がくれば、高利貸から借りて充てるというありさまであった。博才はあっても、商才はなかったのである。債鬼に追われる苦しさから浴びるように酒を呑み、呑めば前後を忘れて、留置場で朝を迎えたこともあった。
だが、碁にかける情熱は衰えなかった。生活が破綻した時に棋聖戦6連覇の偉業を達成、66歳になってもタイトル(王座)を獲得した(史上最高齢)。
碁は芸である、と秀行はいう。「芸を磨くことがプロのつとめである、と思っている。勝ち負けは結果にしかすぎない。芸が未熟なら負ける。相手より芸がまさっていれば勝つ。ただ、それだけの話である」
指導碁、置碁にも学ぶものを見いだす。どんな下手を相手にしても、局面の最善手を考えて真剣に打った。
芸を磨くこの姿勢は、プロに勝っていい気分になりたいアマには都合がわるい。つまり、「あやす」のが下手ということになる。腕をあげた、と自信満々の社長に「三子置きなさい」とずけずけ言って、二度と声がかからなくなったこともある。社会的地位相応の甘言を受けないと満足しないトップは多い。
捨てる神あれば拾う神あり。彼の芸道を愛した人もいた。右翼の黒幕、頭山満(中江兆民『一年有半』にその名が見える)は、秀行が初段の時代から目をかけた。後援会を組織した河野一郎、大野伴睦ほか、政財界の錚々たる人物が秀行と厚誼をむすんだ。
細君も理解した。一度競輪に同行した。すって残り2千円となり、さすがに気がとがめて「飯を食って帰ろうか」と誘うが、即座に「せっかくそのつもりでもってきたお金なんですから、全部、つかってしまいましょうよ」
行き着くところまで行くしかない人だ、と腹をくくっていたのである。
秀行が囲碁の普及と振興にはたした役割は大きい。販売術に無知なために2号でつぶれたが、「囲碁之研究」という月刊紙をだしたことがある。また、日本棋院渉外担当理事としては、名人戦創設(第一期名人戦は1961年)に奔走した。船を借りてプロとアマの船旅を企画し、囲碁ツアーの草分けとなった。あるいは、四次にわたる秀行塾で多数の若手を育てあげた。古くは、のちに韓国棋界の重鎮となった曹薫鉉がいる。依田紀基、小松英樹、高尾紳路、 森田道博、 三村智保・・・・これら囲碁界をひっぱる実力者たちがいずれも門下だ。
囲碁の国際的な普及にも尽力した。ふと思いたって韓国へ出かけ、3日間ホテルを一歩も出ないまま曹薫鉉と碁について語りつづけたり、いくたびも「秀行軍団」をひきいて中国へ出かけては日中の囲碁外交につとめた。
1998年に引退。二度ガンに罹患し、体力が落ちたためである。一度の対局で2-3キロ体重が減るのだが、回復が容易ではなくなったのだ。公式戦には出なくなったが、勉強はやまない。「ヘボが精進を続けているかぎり、老け込むことはないだろう」
本書は、当初日経紙のコラム「私の履歴書」に連載され、1993年に日本経済新聞社から単行本として刊行された。文庫化にあたって、単行本刊行後の動向が加筆されている。破天荒な行跡がおもしろいだけではない。芸に徹するプロ意識が読者に感銘を与える。囲碁ファンだけに独占させるにはもったいない自伝である。
□藤沢秀行『碁打秀行』(角川文庫、1999)
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この少女、藤沢里菜の父は、おなじく棋士の藤沢一就八段、祖父は藤沢秀行名誉棋聖である。2009年5月に亡くなった祖父から直接指導を受けたことはほとんどなかったが、その鬼才と逸話は耳に入っていただろう。
『碁打秀行』は、藤沢秀行名誉棋聖の奔放不羈な自伝である。
希代の借金王であった。その額は、一個人としては天文学的な数字だったらしい。昭和50年代、1億5千万円の収入があっても大半は返済に消えた。喜劇役者藤山寛美の、当時マスコミにとり沙汰された借金額より自分のそれのほうが多かった、と述懐している。競輪に憑かれて利子1日1割の借金を重ね、副業の不動産業がらみで後先の考えもなく小切手をきりまくる。小切手が期限がくれば、高利貸から借りて充てるというありさまであった。博才はあっても、商才はなかったのである。債鬼に追われる苦しさから浴びるように酒を呑み、呑めば前後を忘れて、留置場で朝を迎えたこともあった。
だが、碁にかける情熱は衰えなかった。生活が破綻した時に棋聖戦6連覇の偉業を達成、66歳になってもタイトル(王座)を獲得した(史上最高齢)。
碁は芸である、と秀行はいう。「芸を磨くことがプロのつとめである、と思っている。勝ち負けは結果にしかすぎない。芸が未熟なら負ける。相手より芸がまさっていれば勝つ。ただ、それだけの話である」
指導碁、置碁にも学ぶものを見いだす。どんな下手を相手にしても、局面の最善手を考えて真剣に打った。
芸を磨くこの姿勢は、プロに勝っていい気分になりたいアマには都合がわるい。つまり、「あやす」のが下手ということになる。腕をあげた、と自信満々の社長に「三子置きなさい」とずけずけ言って、二度と声がかからなくなったこともある。社会的地位相応の甘言を受けないと満足しないトップは多い。
捨てる神あれば拾う神あり。彼の芸道を愛した人もいた。右翼の黒幕、頭山満(中江兆民『一年有半』にその名が見える)は、秀行が初段の時代から目をかけた。後援会を組織した河野一郎、大野伴睦ほか、政財界の錚々たる人物が秀行と厚誼をむすんだ。
細君も理解した。一度競輪に同行した。すって残り2千円となり、さすがに気がとがめて「飯を食って帰ろうか」と誘うが、即座に「せっかくそのつもりでもってきたお金なんですから、全部、つかってしまいましょうよ」
行き着くところまで行くしかない人だ、と腹をくくっていたのである。
秀行が囲碁の普及と振興にはたした役割は大きい。販売術に無知なために2号でつぶれたが、「囲碁之研究」という月刊紙をだしたことがある。また、日本棋院渉外担当理事としては、名人戦創設(第一期名人戦は1961年)に奔走した。船を借りてプロとアマの船旅を企画し、囲碁ツアーの草分けとなった。あるいは、四次にわたる秀行塾で多数の若手を育てあげた。古くは、のちに韓国棋界の重鎮となった曹薫鉉がいる。依田紀基、小松英樹、高尾紳路、 森田道博、 三村智保・・・・これら囲碁界をひっぱる実力者たちがいずれも門下だ。
囲碁の国際的な普及にも尽力した。ふと思いたって韓国へ出かけ、3日間ホテルを一歩も出ないまま曹薫鉉と碁について語りつづけたり、いくたびも「秀行軍団」をひきいて中国へ出かけては日中の囲碁外交につとめた。
1998年に引退。二度ガンに罹患し、体力が落ちたためである。一度の対局で2-3キロ体重が減るのだが、回復が容易ではなくなったのだ。公式戦には出なくなったが、勉強はやまない。「ヘボが精進を続けているかぎり、老け込むことはないだろう」
本書は、当初日経紙のコラム「私の履歴書」に連載され、1993年に日本経済新聞社から単行本として刊行された。文庫化にあたって、単行本刊行後の動向が加筆されている。破天荒な行跡がおもしろいだけではない。芸に徹するプロ意識が読者に感銘を与える。囲碁ファンだけに独占させるにはもったいない自伝である。
□藤沢秀行『碁打秀行』(角川文庫、1999)
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