語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【大岡昇平ノート】『レイテ戦記』にみられる批評精神(抄) ~日本という国家、軍隊という組織~

2010年07月30日 | ●大岡昇平
●「4 海軍」
 大本営海軍部はしかし、【台湾沖航空戦後の】敵機動部隊健在の真実を陸軍部に通報しなかった。今日から見れば信じられないことであるが、恐らく海軍としては全国民を湧かせた戦果がいまさら零とは、どの面さげてといったところであったろう。しかしどんなにいいにくくともいわねばならぬ真実というものはある。

●「5 陸軍」
 山本五十六提督が真珠湾を攻撃したとか、山下将軍がレイテ島を防衛した、という文章はナンセンスである。真珠湾の米戦艦群を撃破したのは、空母から飛び立った飛行機のパイロットたちであった。レイテ島を防衛したのは、圧倒的多数の米兵に対して、日露戦争の後、一歩も進歩していなかった日本陸軍の無退却主義、頂上奪取、後方攪乱、斬り込みなどの作戦指導の下に戦った、第16師団、第1師団、第26師団の兵士たちだった。

   *

 死んだ兵士の霊を慰めるためには、多分遺族の涙もウォー・レクエムも十分ではない。

   家畜のように死ぬ者のために、どんな弔いの鐘がある?
   大砲の化物じみた怒りだけだ。
   どもりのライフルの早口のお喋りだけが、
   おお急ぎでお祈りをとなえてくれるだろう。

 これは第一次世界大戦で戦死したイギリスの詩人オーウェンの詩「悲運に倒れた青年たちへの賛歌」の一節である。私はこれからレイテ島上の戦闘について、私が事実と判断したものを、出来るだけ詳しく書くつもりである。75ミリ野砲の砲声と38銃の響きを再現したいと思っている。それが戦って死んだ者の霊を慰める唯一のものだと思っている。それが私に出来る唯一のことだからである。

●「7 第35軍」
 増援軍の遅延は必ずしもこういう軍の楽観のせいばかりではない。それは一般に日本軍隊の非能率化、船舶の不足、各地の状況の悪化と関係がある。

   *

 これらレイテ戦初動の作戦の誤りは、米上陸軍を2個師団と速断したこと、従来の米軍の行動から見て、ゆっくり橋頭堡を固めてから、内陸進撃を開始するだろうから、レイテ平原に溢出するのは1週間前後だろう、と勝手にきめていたことから起こっている。つまりこっちが縦深抵抗に変更すれば、敵も内陸進撃を早めるだろうと予想する、要するに想像力が欠けていたのである。

●「8 抵抗」
 日本兵の白旗による欺瞞はニューギニア戦線でもよく見られた行動である。20対1、50対1の状況になった時,敵を斃すために手段を選ばずという考え方は、太平洋戦線の将兵に浸透していた。しかし白旗は戦闘放棄の意思表示であり、これは戦争以前の問題である。こうでもしなければ反撃の機会を得られない状態に追いつめられた日本兵の心事を想えば胸がつまる。射ったところでどうせ生きる見込みはない。殺されるまでに一矢を報いようとする闘志は尊重すべきである。しかしどんな事態になっても、人間にはしてはならないことがなければならない。

●「9 海戦」
 しかしこの新しい構想は、古い艦隊撃滅の観念に捉われていた現地司令官に理解されず、栗田艦隊のレイテ湾突入中止によって、画餅に帰する。しかし同時に米第三艦隊司令官ハルゼー大将を誤らせて、聯合艦隊は全滅を免れ、多くの艦艇を連れて帰ることになる。/ その経過において、われわれの創意と伝統との矛盾、アメリカ側には驕りと油断との関係が、複雑な艦隊行動となって現れているのである。

   *

 すべて大東亜戦争について、旧軍人の書いた戦史及び回想は、このように作為を加えられたものであることを忘れてはならない。それは旧軍人の恥を隠し、個人的プライドを傷つけないように配慮された歴史である。

   *

 軍艦もまた民族の精神の表現といえる。「大和」「武蔵」は、わが国の追い着き追い越せ主義の発露といえる。排水量72,000トン。46センチ主砲9門は世界最大の威力である。仰角45度で発射すれば、富士山の二倍の高さを飛んで、41キロ(東京より大船までの距離)遠方に達する。その他多くの日本造艦の技術者の智恵をしぼって建造されたもので、その性能は極度の機密に守られていたので、伝説的畏敬と信頼を寄せられていたのであった。
 しかし200カイリの攻撃半径を有する空母に対しては、その巨砲も用うる余地なく、一方的な攻撃を受けて沈まねばならなかったのである。
 起工当時海軍内部にも山本五十六や大西滝治郎等いわゆる「航空屋」の反対意見があったが、主力艦対決主義は日本海海戦以来の伝統であり、その偏見の下には無力であった。空母中心に艦隊を組み、戦艦は主砲以外はすべてを空母掩護用の高角砲に切り替えたアメリカ海軍の柔軟性に屈したのである。

   *

 巨艦はそのあまり複雑な機構のため、一部に不測の故障が起こると、一挙に戦力を損じたのである。

   *

 空から降ってくる人間の四肢、壁に張りついた肉片、階段から滝のように流れ落ちる血、艦底における出口のない死、などなど、地上戦闘では見られない悲惨な情景が生れる。海戦は提督や士官の回想録とは違った次元の、残酷な事実に充ちていることを忘れてはならない。

●「10 神風」
 こういう戦果の誇張は、散華した僚機への同情という感情的動機を持ったものだったのだが、軍首脳部にますます特攻を促進さす結果になった。

●「11 カリガラまで」
 友近少将は30日漸くセブからオルモックに渡ったような呑気さで、折柄オルモックに上陸した第1師団に、カリガラ平原会戦を指示したくらい実情にうとかった。諸部隊が行方不明ならば、情況悪化を想像してよいはずなのに、タクロバン入城の夢に取りつかれて、都合の悪いことは考えたくなかったのである。

●「12 第1師団」
 軍隊の行動に責任を負う旧軍人の回想には、こういう作為があるから警戒を要する。

●「17 脊梁山脈」
 山は常に美しく、時として荘厳であり、観光道路上の自動車の窓から眺めれば、ほほえむように人を迎える。しかしもし人間が生活とか戦争とか登山の必要から、徒歩で山に入るならば、そのあらゆる起伏、気候、林相、そこに棲む諸動物によって、恐るべき障害となって現れる。

●「18 死の谷」
 20日の攻撃命令は、友近少将の回想にも、『第1師団レイテ戦記』にも現れない。レイテ戦の惨状が明らかになった戦後では、遺族に対する遠慮から、自然になされる隠匿であるが、事実はこの段階で、最も犠牲が多く出たのである。軍隊とは、このように愚劣で非情な行動が行われ、しかもそれを隠匿する組織であることを覚えておく必要がある。

   *

 これらはみな今日の眼から見た結果論というのは易しい。しかし歴史から教訓を汲み取らねば、われわれは永遠にリモン峠の段階に止まっていることになる。ただしこれは必ずしも旧日本陸軍の体質の問題だけではなく、明治以来背伸びして、近代的植民地争奪に仲間入りした日本全体の政治的経済的条件の結果であった。レイテ沖海戦におけると同じく、ここにも日本の歴史全体が働いていた。リモン峠で戦った第1師団の歩兵は、栗田艦隊の水兵と同じく、日本の歴史自身と戦っていたのである。

●「24 壊滅」
 35軍は俄作りの軍で、人材に乏しく、敗軍と共にあまりかっこいい様子を見せなくなる。目賀田少尉のような予備士官学校出の部隊付将校に、却って肚の据わった人物が見出されるようである。

●「25 第68師団」
 動員下命は6月25日、校長来栖猛夫少将がそのまま旅団長となって、7月3日公主嶺出発、13日釜山に着いた。聯隊長沖静夫大佐が飛行機で東京へ飛び、聯隊旗を受領してきたが、兵隊はあまり関心がなかったといわれる。最新式の装備を持つと共に、聯隊旗に対する物神的畏敬の念も失われたのである。

●「28 地号作戦」
 現在のところ、準公刊戦史とでもいうべきは服部卓四郎『大東亜戦争全史』だが、その筆者服部大佐は当時の作戦課長にほかならず、工合の悪いことは隠蔽されているのである。大佐は緒戦以来陸軍の作戦指導の実際に当たって来たが、宮崎部長の就任に伴う方針変更、さらに20年2月の沖縄増強案について独断専行があって、罷免された。レイテ決戦続行も大佐の失敗といえるので、大本営指導の線は『大東亜戦争全史』では隠蔽される。

●「30 エピローグ」
 一勝を博して和平交渉に入るのはレイテ戦から存在した夢であるが、こっちの肚を見透かした敵が断固「否」といって、あくまで攻撃して来たらどうするか、むしろその方がありそうだ、と考える思考力を失っていたのである。
 ただ天皇と国民の前に、面子を失いたくないという情念、危険に対する反応としての攻撃性、及びこれらの情念を基盤として生れた神国不敗の幻想にかられて、その地上軍事力(国内的にはクーデタ的暴力となる)を背景に、主張したのであった。
 しかしその軍事力の基礎は国民である。徴集制度は、近代の民族国家の成立の根本的条件であるが、それが政治と独立した統帥権によって行われる場合、反対給付を伴わない強制労役となる。そのように日本の旧軍隊は徴募兵を牛馬のように酷使した。本土決戦では二千万人の国民が犠牲になれば、アメリカは戦争をやめるといい出すだろうと計算された。
 フィリピンの戦闘がこのようなビンタと精神棒と、完全消耗持久の方針の上で戦われたことは忘れてはならない。多くの戦線離脱者、自殺者が出たのは当然だが、しかしこれらの奴隷的条件にも拘わらず、軍の強制する忠誠とは別なところに戦う理由を発見して、よく戦った兵士を私は尊敬する。

   *

 しかし申すまでもなく、これは今日から見た結果論である。国土狭小、資源に乏しい日本が近代国家の仲間入りするために、国民を犠牲にするのは明治建国以来の歴史の要請であった。われわれは敗戦後も依然としてアジアの中の西欧として残った。低賃金と公害というアジア的条件の上に、西欧的な高度成長を築き上げた。だから戦後25年経てば、アメリカの極東政策に迎合して、国民を無益な死に駆り立てる政府とイデオローグが再生産されるという、退屈極まる事態が生じたのである。

   *

 これは太平洋で戦われた唯一の大島嶼の戦闘であったから、日米双方に幾多の錯誤があった。しかし老朽化した日本陸軍は、現代戦を戦う戦力も軍事技術も持っていなかったので、米軍の錯誤も重大な結果を生まなかった。戦闘は終始米軍の主導の下に行われ、日本軍の決戦補給は事実上は消耗補給となって、じり押しに敗北に追い込まれたのである。

   *

 作戦の細目には幾多の問題が残った。16師団の半端な水際戦闘、第1師団のリモン峠における初動混乱、栗田艦隊の逡巡、ブラウエン斬込み作戦の無理などがあるが、それらは全般的戦略の上に立つさざなみにすぎず、全体として通信連絡の不備、火力装備の前近代性--陸軍についていえば、砲撃を有線観測によって行い、局地戦を歩兵の突撃で解決しようとする、というような戦術の前近代性によって、勝つ機会はなかった。
 しかし、そういう戦略的無理にも拘わらず、現地部隊が不可能を可能にしようとして、最善を尽くして戦ったことが認められる。兵士はよく戦ったのであるが、ガダルカナル以来、一度も勝ったことがないという事実は、将兵の心に重くのしかかっていた。「今度は自分がやられる番ではないか」という危惧は、どんなに大言壮語する部隊長の心の底にもあった。その結果たる全体の士気の低下は随所に戦術的不手際となって現れた。これは陸軍でも海軍でも同じであった。
 陸海特攻機が出現したのは、この時期である。生き残った参謀たちはこれを現地志願によった、と繰り返しているが、戦術は真珠湾の甲標的に萌芽が見られ、ガダルカナル敗退以後、実験室で研究がすすめられていた。捷号作戦といっしょに実施と決定していたことを示す多くの証拠があるのである。
 この戦術はやがて強制となり、徴募学生を使うことによって一層非人道的になるのであるが、私はそれにも拘わらず、死生の問題を自分の問題として解決して、その死の瞬間、つまり機と自己を目標に命中させる瞬間まで操縦を誤らなかった特攻士に畏敬の念を禁じ得ない。死を前提とする思想は不健全であり煽動であるが、死刑の宣告を受けながら最後まで目的を見失わない人間はやはり偉いのである。
 醜悪なのはさっさと地上に降りて部下をかり立てるのに専念し、戦後いつわりを繰り返している指揮官と参謀である。

   *

 ここで演説は中断された。「声がつまって、続けることができなかった」とマッカーサーはいっている(『マッカーサー回想録』1964年)。しかし彼はなにかいう必要がある時、いわずにおくような男ではなかった。彼の勝利と栄光の記念すべき日の演説では、美辞麗句と泣き真似で十分だった。それ以上何かいうのは危険でもあったのだ。

   *

 マッカーサーがフィリピン諸島の隅々まで米軍を派遣したのは、日本軍に占領された資源を、フィリピン人のためではなく、アメリカの投資家と金持ちのフィリピン人のために確保するためであったと信ずべき理由がある。

   *

 1945年8月15日、日本降伏後の日本戦後処理については、われわれはよく覚えている。われわれはアジアにおいて、フィリピンと共に、アメリカ軍を「解放軍」と読んだ唯一の独立国である。コミュニストがアメリカに協力した、世界で唯一の国である。

   *

 それにも拘わらず神の如きマッカーサーと民政局はあくまでワシントンに反抗して、12歳の民主主義国家日本の育成に努めたということになっている。しかし朝鮮戦争が勃発すると、この民主主義の神は、最も積極的な作戦を推進した。常に情報分析で間違えてばかりいた(いつもその主人の喜びそうな情報ばかり集めるからである)ウィロビイを信頼した結果、中国の介入に関して見通しを誤る。1950年のクリスマス敗戦の後にも、台湾中立化廃棄(蒋介石の軍隊の朝鮮における使用)、鴫緑江対岸爆撃を主張して、罷免された。
 民主主義の神のこの突然の変貌は、1949年から1年の間に行われたと考えるよりも、それが1943年のオーストリアにおける予言的所感以来、彼の一貫して変わらないアジアの武力制覇の構想であったとする方が筋が通る。日本占領初期の民主主義的蜜月は、ソ連と対日理事会をごまかすための猿芝居であったと見るほうが現実的である。

   *

 太平洋戦争はアメリカの極東政策と日本の資本家の資源確保の必要との衝突として捉えるのが適切であるなら、二つの軍事技術が、哀れなフィリピン人の犠牲において、群島中の一つの農業島の攻防戦に尖端的な表現を見出したのが、レイテ島をめぐる日米陸海軍の格闘であったといえよう。

   *

 レイテ島の戦闘の歴史は、健忘症の日米国民に、他人の土地で儲けようとする時、どういう目に遇うかを示している。それだけではなく、どんな害をその土地に及ぼすものであるかも示している。その害が結局自分の見に撥ね返って来ることを示している。死者の証言は多面的である。レイテ島の土はその声を聞こうとする者には聞こえる声で、語り続けているのである。(全巻の掉尾)
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