【大岡昇平ノート】『野火』とレイテ戦(3) ~注(1)~
【注】
(01)「それは私が過去の様々な時において、様々に愛した女達に似ていた。踊子のように、葉を差し上げた若い椰子は、私の愛を容れずに去った少女であった。重い葉扇を髪のように垂れて、暗い蔭を溜めている一樹は、私への愛のため不幸に落ちた齢進んだ女であった。誇らかに四方に葉を放射した一樹は、互いに愛し合いながら、その愛を自分に告白することを諾じないため、別れねばならなかった高慢な女であった。(中略)私は月光の渡った空への渇望が、或る女が私が彼女を棄てる前に私を棄てた時、私の感じた渇望に似ていることに思い当った」(「9 月」)
(02)「十一月下旬レイ島の西岸に上陸するとまもなく、私は軽い喀血をした。水際の対空戦闘と奥地への困難な行軍で、ルソン島に駐屯当時から不安を感じていた、以前の病気が昂じたのである」(「1 出発」)
(03)「十一月下旬レイテ島の西岸に上陸するとまもなく、私は軽い喀血をした。水際の対空戦闘と奥地への困難な行軍で、ルソン島に駐屯当時から不安を感じていた、以前の病気が昂じたのである。私は五日分の食糧を与えられ、山中に開かれていた患者収容所へ送られた。血だらけの傷兵が碌々手当も受けずに、民家の床にごろごろしている前で、軍医はまず肺病なんかで、病院へ来る気になった私を怒鳴りつけたが、食糧を持っているのを見ると、入院を許可してくれた。/三日後私は治癒を宣されて退院した。しかし中隊では治癒と認めない、五日分の食糧を持って行った以上、五日おいて貰え、といった。私は病院へ引き返した。あの食糧は五日分とはいえない、もう切れたと断られた。そして今朝私は投げ返されたボールのように、再び中隊へ戻って来たのであるが、それはただ私の中隊でもまた「死ね」というかどうかを、確めたかったからにすぎない」(「1 出発」)
(04)「もっとも私は内地を出て以来、こういう不条理な観念や感覚に馴れていた。例えば輸送船が六月の南海を進んだ時、ぼんやり海を眺めていた私は、突然自分が夢の中のように、整然たる風景の中にいるのに気がついた」(「2 道」)
【補注】第26師団は、30数隻の輸送船団を組み、8月10日に九州の伊万里湾を出港した<「十五 第二十六師団」>。
(05)「比島の熱帯の風物は私の感覚を快く揺った。マニラ城外の柔らかい芝の感覚、スコールに洗われた火焔樹の、眼が覚めるような朱の梢、原色の朝焼と夕焼、紫に翳る火山、白浪をめぐらした珊瑚礁、水際に蔭を含む叢等々、すべて私の心を恍惚に近い歓喜の状態においた。こうして自然の中で絶えず増大して行く快感は、私の死が近づいた確実なしるしであると思われた」(「2 道」)
【補注】第26師団は、輸送船4隻沈没、4隻大破の損害を受け、8月22日、マニラ着。軍需資材疎開に従事し、26師団の兵士たちは決戦参加に先立って、すき腹を抱えての24時間労働で体力を消耗する不運に見舞われた<「十五 第二十六師団」>。
(06)「彼等は大部分内地から私と一緒に来た補充兵である。輸送船の退屈の中で、我々は奴隷の感傷で一致したが、古兵を交えた三カ月の駐屯生活の、こまごました日常の必要は、我々を再び一般社会におけると同じエゴイストに返した。」(「1 出発」)
出発」)
【補注】第26師団は、歩兵2個聯隊を基幹として、昭和10年2月に熱河省承徳で編成された独立混成第11旅団を改編したものである。昭和12年、第3師団管区から現役兵をもって補充、師団に昇格した。独立歩兵第11聯隊、同第12聯隊、同第13聯隊の書く聯隊は1個大隊が4個中隊のフル編成で、対ゲリラの経験を持つ歴戦の部隊であった<「十五 第二十六師団」>。
(07)「タクロバン地区における敗勢を挽回するため、西海岸に揚陸された、諸兵団の一部であったわが混成旅団は、水際で空襲され、兵力の半数以上を失っていた。重火器は揚陸する隙なく、船諸共沈んだ。しかし我々は最初の作戦通りブラウエン飛行場目指して、中央山脈を越える小径を行軍したが、山際で先行した別の兵団の敗兵に押し戻された。先頭は迫撃砲を持つ敵遊撃隊の活動によって混乱に陥り、前進不可能だという。我々は止むを得ず南方に道なき山越えの進路を取ったが、途中三方から迫撃砲撃を受けて再び山麓まで下り、この辺一帯の谷間に分散露営して、なすところなくその日を送っていた」(「1 出発」)
【補注】第26師団第12聯隊今堀支隊(第2大隊欠)のみ、10月31日、マニラ発。11月1日、レイテ島オルモック港着。11月2日中に上陸完了、ドロレスから脊梁山脈を越えて、ハロを見下ろすラアオ山に進出、師団進出を待っていた。11月8~11日、「多号作戦」第三次、第四次輸送によって送られた師団の人員は、師団司令部、第11聯隊の第2大隊、第12聯隊の第2大隊、及び第13聯隊の3個大隊で、兵員総力は歩兵5個大隊と野砲2個大隊、輜重、野戦病院、総計およそ1万である。師団からの帰還者は300余名だが、レイテ島からの帰還者は、将校1、兵22、計23名にすぎない。「万事はっきりしないことの方が多いのである」<「十五 第二十六師団」>。
【補注】11月23日発令の和号作戦は、12月5日から10日までのいずれかの決行日(第二挺身団=高千穂空挺隊が降下する翌日)に、26師団の先頭1個大隊および16師団残部1,500が飛行場を攻撃、確保する。16師団は北方のブリ飛行場(ブラウエン北飛行場)、26師団はサンパブロ飛行場とバユグ飛行場(ブラウエン南飛行場)に突入する。その後、26師団主力が逐次マリトボ=ブラウエン道より溢出、戦火を拡大する・・・・というもの<「十九 和号作戦」>。しかし、「兵力、補給の裏づけがなく、脊梁山脈の自然的条件に妨げられて、26師団の将兵は、最も苛酷悲惨な行動を強いられることになった<「十七 脊梁山脈」>。
(08)「衛兵司令の兵長はしかし私の形式的な申告を聞くと顔色を変えた。満州の設営隊から転属になったこの色白の土木技師は、彼自身の不安を想起させられたのである」(「1 出発」)
【補注】上陸した26師団の兵士1万は、三八銃に弾薬130発、食糧1週間分を携行しただけだった<「十六 多号作戦」>。
(09)「オルモックを出発する時携行した十二日分の食糧は既になかった。附近に住民が遺棄した玉蜀黍その他雑穀も、すぐ食べつくした。実数一個小隊となった中隊兵力の三分の一は、かわるがわる附近山野に出動して、住民の畠から芋やバナナを集めて来た。というよりは食い継ぎに出て行った。四、五日そうして食べて来ると、交替に次の三分の一が出動する間、留守隊を賄うだけの食糧を持って帰って来るのである。附近のに散在する部隊も、同様の手段で食糧をあさっていて、我々は屡・出先で畠の先取権を争い、出動の距離と日数は長くなった」(「1 出発」)
【補注】太平洋戦争では、戦闘で死んだ兵士よりも餓死した兵士が圧倒的に多い(立花隆・佐藤優『ぼくらの頭脳の鍛え方 必読の教養書400冊』、文春新書、2009)。
(10)「空には遠く近く、いつも爆音があった。様々の音色を持った音の中で、一つポンポンと軽く断続する音があった。これは航空機にはあり得ない音である。むしろモーター・ボートの音に近かった。ではどこかに海があるのだろうか。/私は改めて私の現在地を反省した。病院が砲撃されてから幾日経ったか、あてどなく歩く間に、計算を失していたが、凡そ十日であろう。私の伝って来た谷は、月がそれを直角に渡ったところをみれば、南北に横わっていた。その谷を私は十二粁北上したと思われる。結局私は現在中隊の宿営地から、約二十粁北方にいるはずである。中隊は当時オルモックから四十粁南方にあったから、私はほぼその中間にいるわけである。海岸との距離は不明であるが、中隊の宿営地からの距離、つまり八粁とみて大過あるまい。/北極星の位置から判断すると、私の小屋は東北に向いている。してみれば向うの斜面は西南、つまり海に面しているわけである」(「11 楽園の思想」)
【補注】オルモックから20キロ南方にカリダード、50キロ南方にバイバイが位置する。
(11)「の中はアカシヤの大木が聳え、道をふさいで張り出した根を、自分の蔭で蔽っていた。住民の立ち退いた家々は戸を閉ざし、道に人はなかった。敷きつめた火山砂礫が、褐色に光り、村をはずれて、陽光の溢れる緑の原野にまぎれ込んでいた」(「2 道」)
(12)「病院は正面の丘を越えて、約六粁の行程である」(「2 道」)
(13)「敵発火点は不明であるが、これが我々の今まで受けた迫撃砲撃とは違い、組織的な攻撃であることは明白であった。或いは上陸前の艦砲射撃かも知れない。レイテ西海岸の平野は浅く、我々は海岸と四粁メートルと離れていなかった」(「7 砲声」)
(14)「私は五日分の食糧を与えられ、山中に開かれていた患者収容所へ送られた。血だらけの傷兵が碌々手当も受けずに、民家の床にごろごろしている前で、軍医はまず肺病なんかで、病院へ来る気になった私を怒鳴りつけたが、食糧を持っているのを見ると、入院を許可してくれた。/三日後私は治癒を宣されて退院した。しかし中隊では治癒と認めない、五日分の食糧を持って行った以上、五日おいて貰え、といった。私は病院へ引き返した。あの食糧は五日分とはいえない、もう切れたと断られた。そして今朝私は投げ返されたボールのように、再び中隊へ戻って来たのであるが、それはただ私の中隊でもまた「死ね」というかどうかを、確めたかったからにすぎない」(「1 出発」)
【補注】「
父のレイテ戦記」によれば、「野戦病院での負傷者の食糧は一日ににぎりめし二個だった」。
(15)「私は頬を打たれた。分隊長は早口に、ほぼ次のようにいった。/「馬鹿やろ。帰れっていわれて、黙って帰って来る奴があるか。帰るところがありませんって、がんばるんだよ。そうすりゃ病院でもなんとかしてくれるんだ。中隊にゃお前みてえな肺病やみを、飼っとく余裕はねえ。見ろ、兵隊はあらかた、食糧収集に出動している。味方は苦戦だ。役に立たねえ兵隊を、飼っとく余裕はねえ。病院へ帰れ。入れてくんなかったら、幾日でも坐り込むんだよ。まさかほっときもしねえだろう。どうでも入れてくんなかったら――死ぬんだよ。手榴弾は無駄に受領してるんじゃねえぞ。それが今じゃお前のたった一つの御奉公だ」」(「1 出発」)
(16)「幾日かがあり、幾夜かがあった。私を取り巻く山と野には絶えず砲声が響き、頭上には敵機があったが、私は人を見なかった」(「8 川」)
(17)「私がさまよい込んだ丘陵地帯は、ブラウエン、アルベラ、オルモックの各作戦地区を頂点とする三角形の中心に近く、いわば颱風の眼のように無事であった」(「8 川」)
(18)「或る明方北西に砲声が起り、青と赤の照明弾が、花火のように中空に交錯するのが見られた。その夜頂上から見渡すと、輝かしい燈火が、見馴れたオルモックの町の輪郭を描いていた。西海岸唯一の友軍の基地にも、米軍が上陸したのである」(「8 川」)
【補注】昭和19年12月7日、米軍はデボジトに逆上陸。12月15日、オルモック港は米軍により完全に封鎖された。
(19)「しかし倒木の間を下りて行きながら、私は鶏の食べているものを確める必要がないのを知った。根株の間に到るところ、カモテ・カホイ(木の芋)と呼ばれる、木のような高い茎を持つ芋が植えてあった。蔓芋の葉も匐っていた。私はすぐカモテ・カホイの直立した茎の一本を倒した。地下茎が千成瓢箪のようについていた。手で土を払いかじった」
(20)「それから毎日、倒木を渡ってこの斜面に坐り、海を眺めるのが私の日課となった。群島にかこまれたカモテス海は静かであった。夕方、かつて私の駐屯したセブ島の山々が、内海を飾る三角の小島のうしろに、巨大な影絵を浮べた。その上に空は夕焼け、真紅の雲が放射線をなして天頂まで、延びて来た。海は次第に暗く、セブは霞んで来た。私は我慢して小屋に帰った」(「12 象徴」)
(21)「オルモックが陥ちた今、あそこにいる人間が日本人である可能性はまずなかった。湾に船がないところから見て、米軍がいないのは確かとしても、比島人はいるであろう。そして彼等がいくら彼等同士の間で、あの十字架の下で信心深い生を営むとしても、私に対してはすべて敵であった」(「12 象徴」)
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