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語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【大岡昇平ノート】『野火』とレイテ戦(1) ~はじめに~

2010年07月18日 | ●大岡昇平
 『野火』は、戦争で精神を病んだ者の手記という体裁をとっている。手記は「一 出発」から「三六 転身の頌」までで、フィリピンはレイテ島における山中の孤独な彷徨を記す。
 ちなみに、「三七 狂人日記」から「三九 死者の書」までは、帰国後に収容された病院における独白である。
 病院で治療にあたるのは医師だが、生活歴の聞き取りは、今ならメディカル・ソーシャル・ワーカーの役目だ。しかし、「手記」を資料として主人公の生活誌を拾い出そうとすると、困惑するにちがいない。5W1Hを旨とするケース記録に記載するには、あまりにも不明の部分が多いからである。
 では、『野火』を資料として主人公の生活誌をどこまで再構成できるだろうか。つまり、思想や感情はひとまず措いて、行動のみに着目すれば、どのような履歴となるだろうか。
 以下は、その試みである。
 なお、レイテ戦は、投入兵力84,006名、戦没者79,261名。生還者2,500名。生還率は、わずかに3%にすぎない。
 大岡昇平が主人公の所属として念頭においた第26師団(泉)は、小説では小泉兵団となっている。『野火』は、第26師団の動向と照応させると興味深い【注】。

 テキストは、『大岡昇平全集』第3巻(筑摩書房、1994)とする。
 『大岡昇平全集』第3巻所収の『野火』は、『大岡昇平集』第3巻(岩波書店、1982)を底本としている。『大岡昇平集』第3巻の「作者の言葉」によれば、初稿が1948-49年、訂正決定稿が1951年。外国語に翻訳されるとき、1957年に1か所追記された(「36 転身の頌」の「天使である」の前の「私はもう人間ではない。」)。
 なお、【補注】の<>内は、『レイテ戦記』の各章である。

【注】『ダナオ湖まで』(『大岡昇平集2』、岩波書店、所収)に次の文面がある。
 私の『野火』の主人公田村一等兵は泉兵団に所属と仮定した。山越えのブラウエンへ斬込みを命じられるが、部隊は先頭をゲリラに押し返され、山際でぶらぶらしている。喀血して病院へ送られるが、結局どこでも断られて、山中を彷徨する戦線離脱者いわゆる遊兵となる。
 この状況は当時レイテ戦に関する唯一の記録友近少将の『軍参謀長の手記』に基づき、レイテ島収容所内の伝聞を基にして設定していたものである。『野火』はフィクションであるから、主題の展開のためにはこれくらいで十分であろう。
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【大岡昇平ノート】『野火』とレイテ戦(2) ~主人公の行動~

2010年07月18日 | ●大岡昇平
■比島上陸まで
 『野火』の主人公は、姓名が明らかでない。いや、姓は田村だが、名は不明である。生年月日も年齢も明記されていない。
 ここで非公式の資料を援用すれば、主人公の姓名は、田村鶴吉。昭和20年3月の時点で推定32、3歳である。埼玉県の地主の息子であり、文学を愛して東京の某私立大学に遊学、戦争中郷里に帰って結婚し、家業を継いだ。昭和19年に応召。長身、痩躯。
 ちなみに、非公式の資料とは、初稿(「文体」第3号、1948年12月刊)には記されているが、定稿では削除された部分である。

 応召するまでに、異性との交渉は多々あったらしい。少女から年上の女性まで。彼女たちの性格は多様で、得恋もあれば、逆に棄てられたこともあった。(01)
 結核の病歴がある。(02) 上陸後、軽い喀血をした。(03)
 昭和何年かは明記されていないが(おそらく昭和19年)、6月に日本から輸送船でフィリピンへ向かった。(04) フィリピン到着後、マニラ城外で3カ月間駐屯した。(05)(06)
 ここでは部隊名は不祥だが(おそらく「小泉兵団」)、混成旅団である。(07) 隊員の中には満州から転属した者もいた。(08) しかし、大部分は内地から田村一等兵と一緒に来た補充兵であった。(06)

■生還の希望
 長居は無用、とばかり小屋に戻った田村は、ブラウエン斬込み隊の生き残りの兵士たちと会い(27)、彼らからパロンポンへの退却命令を聞いた。(28) 生還の希望が生まれた。(29)
 被甲の中身をすてて根芋を収め、伍長の先導で出発した。最初この畠へ上って来た道を逆行して河原へ降り、暫く流れに沿って下ってから、最初の屈折点で、別の丘へ取りついた。北を目指した。オルモック街道がリモンの北で2つに分れ、1つがパロンポンに向っている地点がある。そこから半島に入ることが出来るはずだった。2つの丘と2つの川を杣道で越すと、牛車の通れるくらいの幅の道に出た。三々五々連れ立った日本兵が、丘の蔭、叢林から不意に現われて道に加り、やがて1個中隊ほどの蜒々たる行軍隊形になった。道が草原に露出しているところでは、列は道を外れて林に潜り、先でまた林に入ってくる道を捉えた。兵達の状態は、見違えるように悪くなっていた。服は裂け、靴は破れ、髪と髯が延びて、汚れた蒼い顔の中で、眼ばかり光り、その眼は互いに隣人を窺ように見た。上り坂の両側は休む、或いは倒れた兵の列であった。(30)
 被爆の危険を避けて夜間に行軍し、月が細るに及んで昼間の行軍に返った。(31)
 ある日、病院の前で別れた2人の病兵に再会した。今では歩けないのは安田であり、若い永松は元気になっていた。彼は通行の兵士に煙草を薦めていた。(32)
 レイテ島は雨季に入った。生物の体温を持つ厚ぼったい風が1日吹き続けると、雨が木々の梢を鳴らし、道行く兵士の頭に落ちてきた。(33)
 雨は頭上に飛ぶ米機を減らしたが、自働小銃を持つゲリラが側面から脅かすようになった。道はレイテ島を縦走する脊梁山脈の西の山際に沿っていたが、ゲリラの攻撃によってさらに山奥の杣道へ追い込まれた。川もいくつか越えねばならなかった。(34)
 オルモックを左後にした頃から、山脈は低くなり丘と谷が錯綜してきた。低い丘が海岸方面に連り、道はその裏側をまわった。丘と脊梁山脈の前山との間は、泥の平原が埋めていた。(35)
 濡れた靴と地下足袋はどんどん破れて、道原駐地以来穿いていた靴は山中の畠を出た時既に底に割れ目が入っていたが、ある日完全に前後が分離した。裸足になった。(36)
 脊梁山脈が東タクロバンから北カリガラに到り、平地になって尽きるところで、西へ半島が張り出している。半島は、脊梁山脈とは別の山系に属する低い山脈が南北に走り、南に長く突出して、オルモック湾を抱いていた。半島の西南端に位置するパロンポンが集結場所である。湾の底部の、いわば耳朶の附根にオルモックが位置している。平行した二つの山脈の間は湿原で、その中をオルモックから北上する国道、いわゆるオルモック街道が北岸カリガラに通じ、海岸沿いに脊梁山脈の北を迂回して、東の方タクロバン平原に降りている。(37)

■生還へのあがき
 リモン、バレンシヤ等、沿道の要地はことごとく米軍が占領していた。国道には、絶えず戦車やトラックが走り、各所にゲリラの屯所があった。パロンポンへ到達するにはこの国道を突破しなければならない。リモン北方でパロンポンへ向う1道が分れているところ、通称「三叉路」附近が、その先の湿原の抜けるのに楽だから、特に敗兵達によって窺われた地点であった。戦闘の初期、タクロバン平原から脊梁山脈を迂回しようとした米軍と一時対峙した精鋭部隊が、この辺に多少の部隊体形を保ちつつ残っていた。(37)
 草原が丘に囲まれて行き止ったところから一方の丘に上ると、頂上に兵達が群れ、繁みに身を潜めて稜線の彼方を窺っていた。前は湿原が拡がり、土手で高められた一条の広い道が横に貫く国道があった。湿原は左側に開け、遠い林まで到っているが、右側は道の向うに木のよく繁った丘が出張り、さらに裾から低い林を湿原の上に延ばしていた。林の上に遠く、半島山脈の主峰カンギポット山(歓喜峰)に雲がかかっていた。右手、視野のはずれの国道上に、少しばかり人家のかたまったところが「三叉路」だった。パロンポンへ行く道は、そこから分れ、ほぼカンギポット山(歓喜峰)に向って、前方の丘裾の林の中を廻って行く。(38)
 夜になった。雨は依然として湿原を曇らせつつ、まず遠いカンギポット山(歓喜峰)が消え、アカシヤの木が消え、次いで前面の林が消えて、やがて何も見るもののない闇となった。米軍の車輛の往来もとまった。(39)
 国道の土手の線が闇を横に長く切ってほのかに空と境しているあたりが目標であった。泥はますます深く、膝を越し、なかなか近づかない。疲れてきた。前方の泥がこれ以上深ければ、完全に動けなくなる。そのまま夜が明けてしまえば、泥から上半身を出した姿で、道を通る米兵に発見される。(40)
 国道は闇の中に、白く左右に延びていた。固い砂利に肱をつき、銃を曳きずって横切った。対面の草の斜面を素速く滑り降りた。水がそこに音を立てて流れていた。跨いで越した先の泥は、踝までしか入らなかった。匍って行った。前方には黒々と林の輪郭が見えた。肱と膝を用いる中腰の匍匐の姿勢です早く進んだ。周囲の闇には兵士の群で満ちていた。そこへ弾が来た。戦車であった。(41)
 再び泥を渡って引き返した。銃はいつかのまにか手になかった。そのためか、帰路は往路よりよほど楽だった。(42)

■孤独な彷徨
 幾日か、独りで歩いた。その間の記憶は定かではない。(43)
 集合地に向かおうとする兵士はいたが、突破は絶望的であった。(44)

■飢餓
 飢えがこうじ、道傍に見出す屍体の肉を食べたいと思った。(45)
 他の兵士も屍肉を食べたいと思うにちがいない。屍体のみならず、生きている人間の肉をも。生存していることを示さなければ自分が犠牲になる。「おう」という気合いで生きていることを証明するのだ。(46)
 屍体にたかる蛭から血を啜った。(47) さらに人肉に手をつけようとすると、自分でも意外なことに、剣を持った私の右の手首を、左の手が握って止めた。(48)
 飢えのはて、銃口でねらわれるのを感じて倒れたところを永松に救われた。(49) 水と肉を口に押し込まれた。(50) 肉は美味であった。「猿」の肉であった。(51)
 翌朝から雨になった。(52) 今日は2月10日だと聞いて驚いた。三叉路を越せなかったのは1月初めだったから、ひと月、1人でさまよっていたのである。雨はなかなか止まなかった。永松は猟に出ず、肉の割当も1日1片に減った。田村と永松はもう安田のテントへ行かず、火種を持ってきて別に火を起し、互いに差向いで、1日膝を抱いて坐っていた。彼の私を見る眼は険しくなった。肉はもうなくなっていた。(53)
 永松が猟に失敗した。猟の対象を知った。「猿」は日本兵であった。(54)
 田村が不注意にも手榴弾を安田にとられたことを知った永松は、安田殺害を決意した。(55) 永松が安田を射殺した後、不注意におき忘れた銃を田村は手にとった。田村が差し向けた銃口を永松は握ったが、遅かった。そこまでは記憶しているが、永松を撃ったかどうか、田村の記憶は欠けている。だが、肉はたしかに食べなかった。食べたなら、憶えているはずである・・・・。(56)
 非情な自然。手の中の、菊花の紋がばってんで刻んで消してある38銃。手拭を出し、雨滴がぽつぽつについた遊底蓋を拭ったところで田村の記憶は途切れる。(57)

■文明社会ふたたび
 俘虜になったのはオルモック付近である。(58)
 俘虜となって6年後、この手記を書いた。(59)
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【大岡昇平ノート】『野火』とレイテ戦(3) ~注(1)~

2010年07月18日 | ●大岡昇平
【大岡昇平ノート】『野火』とレイテ戦(3) ~注(1)~

【注】
(01)「それは私が過去の様々な時において、様々に愛した女達に似ていた。踊子のように、葉を差し上げた若い椰子は、私の愛を容れずに去った少女であった。重い葉扇を髪のように垂れて、暗い蔭を溜めている一樹は、私への愛のため不幸に落ちた齢進んだ女であった。誇らかに四方に葉を放射した一樹は、互いに愛し合いながら、その愛を自分に告白することを諾じないため、別れねばならなかった高慢な女であった。(中略)私は月光の渡った空への渇望が、或る女が私が彼女を棄てる前に私を棄てた時、私の感じた渇望に似ていることに思い当った」(「9 月」)

(02)「十一月下旬レイ島の西岸に上陸するとまもなく、私は軽い喀血をした。水際の対空戦闘と奥地への困難な行軍で、ルソン島に駐屯当時から不安を感じていた、以前の病気が昂じたのである」(「1 出発」)

(03)「十一月下旬レイテ島の西岸に上陸するとまもなく、私は軽い喀血をした。水際の対空戦闘と奥地への困難な行軍で、ルソン島に駐屯当時から不安を感じていた、以前の病気が昂じたのである。私は五日分の食糧を与えられ、山中に開かれていた患者収容所へ送られた。血だらけの傷兵が碌々手当も受けずに、民家の床にごろごろしている前で、軍医はまず肺病なんかで、病院へ来る気になった私を怒鳴りつけたが、食糧を持っているのを見ると、入院を許可してくれた。/三日後私は治癒を宣されて退院した。しかし中隊では治癒と認めない、五日分の食糧を持って行った以上、五日おいて貰え、といった。私は病院へ引き返した。あの食糧は五日分とはいえない、もう切れたと断られた。そして今朝私は投げ返されたボールのように、再び中隊へ戻って来たのであるが、それはただ私の中隊でもまた「死ね」というかどうかを、確めたかったからにすぎない」(「1 出発」)

(04)「もっとも私は内地を出て以来、こういう不条理な観念や感覚に馴れていた。例えば輸送船が六月の南海を進んだ時、ぼんやり海を眺めていた私は、突然自分が夢の中のように、整然たる風景の中にいるのに気がついた」(「2 道」)
 【補注】第26師団は、30数隻の輸送船団を組み、8月10日に九州の伊万里湾を出港した<「十五 第二十六師団」>。

(05)「比島の熱帯の風物は私の感覚を快く揺った。マニラ城外の柔らかい芝の感覚、スコールに洗われた火焔樹の、眼が覚めるような朱の梢、原色の朝焼と夕焼、紫に翳る火山、白浪をめぐらした珊瑚礁、水際に蔭を含む叢等々、すべて私の心を恍惚に近い歓喜の状態においた。こうして自然の中で絶えず増大して行く快感は、私の死が近づいた確実なしるしであると思われた」(「2 道」)
 【補注】第26師団は、輸送船4隻沈没、4隻大破の損害を受け、8月22日、マニラ着。軍需資材疎開に従事し、26師団の兵士たちは決戦参加に先立って、すき腹を抱えての24時間労働で体力を消耗する不運に見舞われた<「十五 第二十六師団」>。

(06)「彼等は大部分内地から私と一緒に来た補充兵である。輸送船の退屈の中で、我々は奴隷の感傷で一致したが、古兵を交えた三カ月の駐屯生活の、こまごました日常の必要は、我々を再び一般社会におけると同じエゴイストに返した。」(「1 出発」)
出発」)
 【補注】第26師団は、歩兵2個聯隊を基幹として、昭和10年2月に熱河省承徳で編成された独立混成第11旅団を改編したものである。昭和12年、第3師団管区から現役兵をもって補充、師団に昇格した。独立歩兵第11聯隊、同第12聯隊、同第13聯隊の書く聯隊は1個大隊が4個中隊のフル編成で、対ゲリラの経験を持つ歴戦の部隊であった<「十五 第二十六師団」>。

(07)「タクロバン地区における敗勢を挽回するため、西海岸に揚陸された、諸兵団の一部であったわが混成旅団は、水際で空襲され、兵力の半数以上を失っていた。重火器は揚陸する隙なく、船諸共沈んだ。しかし我々は最初の作戦通りブラウエン飛行場目指して、中央山脈を越える小径を行軍したが、山際で先行した別の兵団の敗兵に押し戻された。先頭は迫撃砲を持つ敵遊撃隊の活動によって混乱に陥り、前進不可能だという。我々は止むを得ず南方に道なき山越えの進路を取ったが、途中三方から迫撃砲撃を受けて再び山麓まで下り、この辺一帯の谷間に分散露営して、なすところなくその日を送っていた」(「1 出発」)
 【補注】第26師団第12聯隊今堀支隊(第2大隊欠)のみ、10月31日、マニラ発。11月1日、レイテ島オルモック港着。11月2日中に上陸完了、ドロレスから脊梁山脈を越えて、ハロを見下ろすラアオ山に進出、師団進出を待っていた。11月8~11日、「多号作戦」第三次、第四次輸送によって送られた師団の人員は、師団司令部、第11聯隊の第2大隊、第12聯隊の第2大隊、及び第13聯隊の3個大隊で、兵員総力は歩兵5個大隊と野砲2個大隊、輜重、野戦病院、総計およそ1万である。師団からの帰還者は300余名だが、レイテ島からの帰還者は、将校1、兵22、計23名にすぎない。「万事はっきりしないことの方が多いのである」<「十五 第二十六師団」>。
 【補注】11月23日発令の和号作戦は、12月5日から10日までのいずれかの決行日(第二挺身団=高千穂空挺隊が降下する翌日)に、26師団の先頭1個大隊および16師団残部1,500が飛行場を攻撃、確保する。16師団は北方のブリ飛行場(ブラウエン北飛行場)、26師団はサンパブロ飛行場とバユグ飛行場(ブラウエン南飛行場)に突入する。その後、26師団主力が逐次マリトボ=ブラウエン道より溢出、戦火を拡大する・・・・というもの<「十九 和号作戦」>。しかし、「兵力、補給の裏づけがなく、脊梁山脈の自然的条件に妨げられて、26師団の将兵は、最も苛酷悲惨な行動を強いられることになった<「十七 脊梁山脈」>。

(08)「衛兵司令の兵長はしかし私の形式的な申告を聞くと顔色を変えた。満州の設営隊から転属になったこの色白の土木技師は、彼自身の不安を想起させられたのである」(「1 出発」)
 【補注】上陸した26師団の兵士1万は、三八銃に弾薬130発、食糧1週間分を携行しただけだった<「十六 多号作戦」>。

(09)「オルモックを出発する時携行した十二日分の食糧は既になかった。附近に住民が遺棄した玉蜀黍その他雑穀も、すぐ食べつくした。実数一個小隊となった中隊兵力の三分の一は、かわるがわる附近山野に出動して、住民の畠から芋やバナナを集めて来た。というよりは食い継ぎに出て行った。四、五日そうして食べて来ると、交替に次の三分の一が出動する間、留守隊を賄うだけの食糧を持って帰って来るのである。附近のに散在する部隊も、同様の手段で食糧をあさっていて、我々は屡・出先で畠の先取権を争い、出動の距離と日数は長くなった」(「1 出発」)
 【補注】太平洋戦争では、戦闘で死んだ兵士よりも餓死した兵士が圧倒的に多い(立花隆・佐藤優『ぼくらの頭脳の鍛え方 必読の教養書400冊』、文春新書、2009)。

(10)「空には遠く近く、いつも爆音があった。様々の音色を持った音の中で、一つポンポンと軽く断続する音があった。これは航空機にはあり得ない音である。むしろモーター・ボートの音に近かった。ではどこかに海があるのだろうか。/私は改めて私の現在地を反省した。病院が砲撃されてから幾日経ったか、あてどなく歩く間に、計算を失していたが、凡そ十日であろう。私の伝って来た谷は、月がそれを直角に渡ったところをみれば、南北に横わっていた。その谷を私は十二粁北上したと思われる。結局私は現在中隊の宿営地から、約二十粁北方にいるはずである。中隊は当時オルモックから四十粁南方にあったから、私はほぼその中間にいるわけである。海岸との距離は不明であるが、中隊の宿営地からの距離、つまり八粁とみて大過あるまい。/北極星の位置から判断すると、私の小屋は東北に向いている。してみれば向うの斜面は西南、つまり海に面しているわけである」(「11 楽園の思想」)
 【補注】オルモックから20キロ南方にカリダード、50キロ南方にバイバイが位置する。

(11)「の中はアカシヤの大木が聳え、道をふさいで張り出した根を、自分の蔭で蔽っていた。住民の立ち退いた家々は戸を閉ざし、道に人はなかった。敷きつめた火山砂礫が、褐色に光り、村をはずれて、陽光の溢れる緑の原野にまぎれ込んでいた」(「2 道」)

(12)「病院は正面の丘を越えて、約六粁の行程である」(「2 道」)

(13)「敵発火点は不明であるが、これが我々の今まで受けた迫撃砲撃とは違い、組織的な攻撃であることは明白であった。或いは上陸前の艦砲射撃かも知れない。レイテ西海岸の平野は浅く、我々は海岸と四粁メートルと離れていなかった」(「7 砲声」)

(14)「私は五日分の食糧を与えられ、山中に開かれていた患者収容所へ送られた。血だらけの傷兵が碌々手当も受けずに、民家の床にごろごろしている前で、軍医はまず肺病なんかで、病院へ来る気になった私を怒鳴りつけたが、食糧を持っているのを見ると、入院を許可してくれた。/三日後私は治癒を宣されて退院した。しかし中隊では治癒と認めない、五日分の食糧を持って行った以上、五日おいて貰え、といった。私は病院へ引き返した。あの食糧は五日分とはいえない、もう切れたと断られた。そして今朝私は投げ返されたボールのように、再び中隊へ戻って来たのであるが、それはただ私の中隊でもまた「死ね」というかどうかを、確めたかったからにすぎない」(「1 出発」)
 【補注】「父のレイテ戦記」によれば、「野戦病院での負傷者の食糧は一日ににぎりめし二個だった」。

(15)「私は頬を打たれた。分隊長は早口に、ほぼ次のようにいった。/「馬鹿やろ。帰れっていわれて、黙って帰って来る奴があるか。帰るところがありませんって、がんばるんだよ。そうすりゃ病院でもなんとかしてくれるんだ。中隊にゃお前みてえな肺病やみを、飼っとく余裕はねえ。見ろ、兵隊はあらかた、食糧収集に出動している。味方は苦戦だ。役に立たねえ兵隊を、飼っとく余裕はねえ。病院へ帰れ。入れてくんなかったら、幾日でも坐り込むんだよ。まさかほっときもしねえだろう。どうでも入れてくんなかったら――死ぬんだよ。手榴弾は無駄に受領してるんじゃねえぞ。それが今じゃお前のたった一つの御奉公だ」」(「1 出発」)

(16)「幾日かがあり、幾夜かがあった。私を取り巻く山と野には絶えず砲声が響き、頭上には敵機があったが、私は人を見なかった」(「8 川」)

(17)「私がさまよい込んだ丘陵地帯は、ブラウエン、アルベラ、オルモックの各作戦地区を頂点とする三角形の中心に近く、いわば颱風の眼のように無事であった」(「8 川」)

(18)「或る明方北西に砲声が起り、青と赤の照明弾が、花火のように中空に交錯するのが見られた。その夜頂上から見渡すと、輝かしい燈火が、見馴れたオルモックの町の輪郭を描いていた。西海岸唯一の友軍の基地にも、米軍が上陸したのである」(「8 川」)
 【補注】昭和19年12月7日、米軍はデボジトに逆上陸。12月15日、オルモック港は米軍により完全に封鎖された。

(19)「しかし倒木の間を下りて行きながら、私は鶏の食べているものを確める必要がないのを知った。根株の間に到るところ、カモテ・カホイ(木の芋)と呼ばれる、木のような高い茎を持つ芋が植えてあった。蔓芋の葉も匐っていた。私はすぐカモテ・カホイの直立した茎の一本を倒した。地下茎が千成瓢箪のようについていた。手で土を払いかじった」

(20)「それから毎日、倒木を渡ってこの斜面に坐り、海を眺めるのが私の日課となった。群島にかこまれたカモテス海は静かであった。夕方、かつて私の駐屯したセブ島の山々が、内海を飾る三角の小島のうしろに、巨大な影絵を浮べた。その上に空は夕焼け、真紅の雲が放射線をなして天頂まで、延びて来た。海は次第に暗く、セブは霞んで来た。私は我慢して小屋に帰った」(「12 象徴」)

(21)「オルモックが陥ちた今、あそこにいる人間が日本人である可能性はまずなかった。湾に船がないところから見て、米軍がいないのは確かとしても、比島人はいるであろう。そして彼等がいくら彼等同士の間で、あの十字架の下で信心深い生を営むとしても、私に対してはすべて敵であった」(「12 象徴」)
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