語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【読書余滴】俳句における日常と脱・日常 ~渡辺白泉と戦争~

2010年07月14日 | 詩歌
 大岡信『百人百句』は、20年以上にわたって朝日新聞に連載したコラム「折々のうた」で採りあげられた古今の句から百人の百句を抜粋する。
 解説は新たに書き下ろしているが、作品ないし俳人によって、解説に精粗がある。
 季別に分類されているが、無季の作品が7句も採録されている。7%という数値は、小さくない。推計学でいう危険率は1%、幅を広げても5%である。注目してよい数値だ。
 これは、大岡信が俳人ではなく、詩人、しかも前衛的な詩人であることと無関係ではあるまい。現代詩に占める季節感の役割は、きわめて小さい。
 無季に分類される俳人の一人が渡辺白泉で、採りあげられたのは昭和14年作の次の作品である。

   戦争が廊下の奥に立つてゐた

 「廊下の奥というささやかな日常生活に、戦争という巨大な現実は容赦なく進入してくる」というのが大岡信の見立てである。「この不安が一種のブラックユーモアとして言いとめられている」うんぬん。
 不安であって、恐怖ではない。この点は強調してよい。不安とは、対象が明かでない場合に発生する感情である。廊下の奥に立っているものが具体的に記されていないから、漠然たる不安が醸しだされる。それだけ作品の柄が大きくなる。
 この句が生まれる具体的なモチーフが何かあったはずだ。「廊下の奥に立つてゐた」のは赤紙を配達する郵便夫である、というのが一つの解である。ただし、そうだとしても、白泉に対する召集ではなかった。彼の応召は昭和19年である。配達された赤紙は、自分に対するものではないが、己が近く直面しなければならない近未来の応召を予感させるものであった。隣近所に配達された赤紙という具体的なものを「戦争」という抽象に転化させるだけの、若干の余裕と、残り時間が砂時計の砂のように確実に減っていくと感じさせる緊張感があった。

 大岡信はさらに「夏の海水兵ひとり紛失す」「戦場へ手ゆき足ゆき胴ゆけり」「まんじゆしゃげ昔おいらん泣きました」の3句についても鑑賞し、作品成立前後の事情を解説する。
 大岡信は、「夏の海」の句の「紛失す」という措辞の分析から軍隊の非情さを剔抉している。
 ところで、「戦場へ」の句は、一個の人間が部分に分解されるところに非情さが生じるのだが、この非情さは、「馬場乾き少尉の首が跳ねまはる」で将校に適用されると、奇妙なことに諷刺が生まれる、と思う。
 なお、大岡信はとりあげていないが、

  銃後といふ不思議な町を丘で見た

という句は、「戦争が廊下の奥に立つてゐた」と対をなすと思う。こちらが日常生活に侵入する戦争であるならば、「銃後といふ不思議な町」は、戦争が日常になったころ、まさにその日常性の異様さを問うのだ。

 白泉には無季の句が多い。
 篠原鳳作を論じて大岡信は論評する。「無季俳句には結果として未来がな」い、と。無季俳句には、季語がない分、「別の意味でなるほどと思わせる勢いがないといけない」
 白泉の無季句には「勢い」があった。目の前に戦争という現実があり、その現実に批判的な強い情念があり、批判には弾圧が待ちかまえているという不安があり、これらの緊張関感が「勢い」をつくった、と思う。

【参考】大岡信『百人百句』(講談社、2001)
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【言葉】ルネ・マルグリットと複製芸術

2010年07月14日 | 批評・思想
 写真を含む複製システムについて、最後のコメントを述べよう。マルグリットは芸術作品を唯一無二の作品と考える立場とはまったく無縁であった。彼は注文に応じて自分の作品をコピーしさえした。もちろん必要な修正を施しはしたが。それゆえマルグリットは、写真技術が提供する可能性に強い関心を示した。彼が肖像画の制作に写真を利用したことは、すでに述べたとおりである。

 別の例を示そう。ブリュッセル、シャルルロワ、それにクノッケ・ヘイスト/ル・ズートの壁画の注文を受けたとき、マルグリットはためらうことなく自分の絵を撮影したカラースライドを使った。画家が選んだ絵を直接壁に投影し、最終的な構図が決まった後に、装飾画家が彩色したのである(p.162-163)。このような技術を応用したのは、おそらくマルグリット一人ではなかったであろう。ところで、絵画に対する一般の関心をどう思うかと質問されたとき、マルグリットはこう答えた。「絵画を見る必要はありません。私には複製で十分です」。
 この点において、マルグリットはヴァルター・ベンヤミンと一致していた。このドイツ人哲学者は、「芸術作品の技術的な複製の可能性が、芸術に対する大衆の態度を変える」(ベンヤミン、1955)と断言した。「大衆」に対する態度については、マルグリットが広告と密接な関係にあったことを忘れてはならない。マルグリットは生活のために広告を手掛けた。広告デザイナーはしばしばマルグリットをコピーした。それというのも、マルグリットの着想や画法は、新しい広告のデザインと非常によくマッチしたからである。だが、広告より機械的なもの、したがってまた複製的なものがほかにあるだろうか。

 最後に、マルグリットと写実主義の概念について、20世紀に初めて一人の画家が、現実的なものを回避せずに、現実的なものによって神秘を表現しようとした。それはマルグリットが最初で、そしておそらく最後であった。彼は絵に表せない漠然とした印象や感情に対し、自然をあたかも一つの対象として扱うという、まったく新しいアプローチをとった。マルグリットが常に教えているもの、そして何度繰り返してもけっして十分ではないもの、それは「人がある対象に見るものは、隠された別の対象なのだ」ということである。

【出典】ジャック・ムーリ(Kazuhiro Akase訳)『マグリット 1898-1967』(タッシェン・ジャパン、2009)pp.99-100
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