語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【旅】竜安寺

2010年07月31日 | □旅
 竜安寺の池泉回遊式庭園は、「鏡容池」と呼ばれる。キョウヨウチである。石庭よりもこちらのほうが知名度の高い時代があったらしい。
 知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。『論語』がここでいう水は流水のことだと思うが、池でもさしつかえあるまい。
 いま蓮が盛りで、純白がまぶしい。
 しかし、辨天島の青鷺は、蓮には目もくれず、池底の獲物をねらっている。



 石庭の前は、修学旅行らしき中学生と青い眼の異人さんでいっぱいだった。
 中学生は徒党を組み、制服で一目瞭然である。自由行動をとっているらしく、引率の先生は見あたらない。
 中学生たちは、キャピキャピと写真を撮りあっている。
 十代のヤンキー娘が跳ねるように端から端まで歩きながら石の数をかぞえはじめた。能書きにあるとおり15個あることを確かめている。この無邪気さには抗しがたい。
 京都の寺社仏閣に群れる白人は、概して穏やかなまなざしだ。生き馬の目をぬくニューヨークのビジネス・パーソンとは、別の人種であるかのようだ。

 軒端を中学生と青い目の人に占領されているから、観客の頭越しに庭を眺望するしかない。
 奥にしりぞいて眺めると、別のものが見えてくる。
 土壁と、壁を越えて庭に垂れる緑の枝であり、塀の外に鬱蒼と茂る木立である。これらも庭の一部となっていることに気づく。
 こうした目でみれば、一枚の落葉も庭の一部を構成する。

  

 しかし、庭の中には石と砂しか置かれていない。
 わずかに苔の緑がところどころに散在するばかりだ。

  

 加藤周一には白砂が群青の海にみえ、5つの石の集まりが島にみえた。ひとたび立ちあがって、縁の端から端まであるけば、おどろくべし、島は互いに近づいたり離れたりしながら、広大な海の表面にあたかもバレーの踊子の動きのような、ほとんど音楽的な位置の変化を示すのであった。それは、疾走するジープから加藤が秋の瀬戸内海を眺めたときの印象と寸分ちがわぬ海なのであった。いや、むしろそれ以上に微妙な変化に富み、それ以上に広大な眺望を支配する・・・・。
 加藤の目には、竜安寺の石庭はクールベが描いたエトルタの海に似ていたし、伊豆や須磨明石その他、かつてみたあらゆる海に似ていた。しかし、正確にはそのいずれでもなく、そのすべてに通じ、そのいずれにも完全には実現されていないものなのであった。ある特殊な海ではなく、特殊な海に頒たれている海一般というべきだった・・・・。

 砂を波、石を島と見立てるならば、苔は平野部の草木に見立ててもよいだろう。
 あるいは、加藤の見立てから一挙に遠ざかって、個々の石を人に見立てることもできるだろう。
 素材がシンプルだから、かえってさまざまな解釈を引き出すことができる。
 さまざまの解釈を許すうえに、見る角度によって、ちがった相貌が目に入る。石と石との距離は、見る角度によって近くなり、また遠ざかる。したがって石相互の関係も、石と見る人の関係も無限の変化がある。
 見ていて飽きないから、時間はたちまち過ぎ去る。腕時計の針は2時間の経過を指摘するが、石を眺めてすごした2時間は、仕事に費やした2時間とは別個の時間である。フッサールのいわゆる内的時間意識がこれだろう。
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