A girl meets a boy.・・・・よくある話である。
"girl"をハンナ、"boy"をマルティンという固有名詞に置き換えても、ありふれた話であることはかわりがない。
1924年、マールブルグ大学におけるマルティンの講義において二人は出会った。
当時、ハンナは18歳。写真を見るからに、なかなかの美形である。
当時、マルティンは35歳。妻と二人の息子がいた。マルティンがハンナを呼び出し、自宅あるいは旅先で密会する。マルティンが許可しないかぎりハンナからは連絡しない、といった関係が続いた。
ハンナ・アーレントは、1906年ハノーファー生まれ。ユダヤ人なるがゆえの迫害を避け、1933年にフランスへ脱出。リスボン経由で米国へ亡命した。1975年にニューヨークて逝く。
マルティン・ハイデガーは、1889年生、1976年没。
通説にさからって、エルジビェータ・エティンガーは、両者の恋は一過性のものではなくて4年間にわたって続き、一時中断の後、ハンナの死まで続いたと見る。そして、その関係を3つの時期に大別する。
(1)1925年から1930年あたりまで。
恋仲の関係、というよりも情事。
(2)1930年代初期から1950年まで。
国民社会主義の台頭、第二次世界大戦、二人の関係の根底的変化。
(3)1950年から1975年まで。
かつての関係の復活、というよりも新しい関係の成立。
第3期の「新しい関係」とは、ハイデガーがかつての恋人アーレントに乞い、これを受けてアーレントがハイデガーの「汚名」払拭につとめる関係である。
すでに国際的名声を得ており、その後ますます著名になるアーレントが、ハイデガー復権にはたした役割は小さなものではなかった、と思う。
じつのところ、ハイデガーはナチに深く加担した。
熱狂的なナチ党員である妻エルフリーデと死に至るまで志を同じくしていた。はや1931年に『我が闘争』を読み、1933年にナチ党に加入した。同年、ヒットラーべったりということで「悪名高い」学長就任演説を行い、学長の権限によってユダヤ人を構内立入禁止とした。師のフッサールさえ大学から締め出し、フッサールの葬儀には姿を見せなかった。
ヤスパースは、その妻(ユダヤ人)に無礼なふるまいをしたハイデガーを最後まで許していない。
露骨に人種差別を行っただけではない。ハイデガーは、積極的に迫害した。ナチに協力しない弟子マックス・ミュラーの前途を閉ざした。あるいは、ノーベル化学賞受賞者ヘルマン・シュタウディンガーを讒言し、免職処分を勧告した。
戦後、ナチへの協力をあいまいにするため、著者の表現を借りれば「二枚舌を、偽善を、策動を」やってのけ、ヤスパースによれば「言い逃れ」に終始した。
アーレントは、少なくとも再会の当初は、ハイデガーの弁明を信じた。
ハイデガーを見ると、深淵な哲学の持ち主の、卑小な社会的行動に愕然とさせられる。
アーレントを見ると、いかに聡明な人であれ、自分が信じたいものを信じるという点では私たち凡人と異ならないらしい。
『アーレントとハイデガー』は、未公開の二人の往復書簡に基づいて書かれた。
未公開であるため、著者は恣意的な解釈をくだしているのではないか、という疑問が書評者から提起された。
しかし、本書が巻き起こした騒動も一因となって往復書簡が公開される運びとなったらしいから、本書の主張は検証可能になる。
□エルジビェータ・エティンガー(大島かおり訳)『アーレントとハイデガー』(みすず書房、1996)
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"girl"をハンナ、"boy"をマルティンという固有名詞に置き換えても、ありふれた話であることはかわりがない。
1924年、マールブルグ大学におけるマルティンの講義において二人は出会った。
当時、ハンナは18歳。写真を見るからに、なかなかの美形である。
当時、マルティンは35歳。妻と二人の息子がいた。マルティンがハンナを呼び出し、自宅あるいは旅先で密会する。マルティンが許可しないかぎりハンナからは連絡しない、といった関係が続いた。
ハンナ・アーレントは、1906年ハノーファー生まれ。ユダヤ人なるがゆえの迫害を避け、1933年にフランスへ脱出。リスボン経由で米国へ亡命した。1975年にニューヨークて逝く。
マルティン・ハイデガーは、1889年生、1976年没。
通説にさからって、エルジビェータ・エティンガーは、両者の恋は一過性のものではなくて4年間にわたって続き、一時中断の後、ハンナの死まで続いたと見る。そして、その関係を3つの時期に大別する。
(1)1925年から1930年あたりまで。
恋仲の関係、というよりも情事。
(2)1930年代初期から1950年まで。
国民社会主義の台頭、第二次世界大戦、二人の関係の根底的変化。
(3)1950年から1975年まで。
かつての関係の復活、というよりも新しい関係の成立。
第3期の「新しい関係」とは、ハイデガーがかつての恋人アーレントに乞い、これを受けてアーレントがハイデガーの「汚名」払拭につとめる関係である。
すでに国際的名声を得ており、その後ますます著名になるアーレントが、ハイデガー復権にはたした役割は小さなものではなかった、と思う。
じつのところ、ハイデガーはナチに深く加担した。
熱狂的なナチ党員である妻エルフリーデと死に至るまで志を同じくしていた。はや1931年に『我が闘争』を読み、1933年にナチ党に加入した。同年、ヒットラーべったりということで「悪名高い」学長就任演説を行い、学長の権限によってユダヤ人を構内立入禁止とした。師のフッサールさえ大学から締め出し、フッサールの葬儀には姿を見せなかった。
ヤスパースは、その妻(ユダヤ人)に無礼なふるまいをしたハイデガーを最後まで許していない。
露骨に人種差別を行っただけではない。ハイデガーは、積極的に迫害した。ナチに協力しない弟子マックス・ミュラーの前途を閉ざした。あるいは、ノーベル化学賞受賞者ヘルマン・シュタウディンガーを讒言し、免職処分を勧告した。
戦後、ナチへの協力をあいまいにするため、著者の表現を借りれば「二枚舌を、偽善を、策動を」やってのけ、ヤスパースによれば「言い逃れ」に終始した。
アーレントは、少なくとも再会の当初は、ハイデガーの弁明を信じた。
ハイデガーを見ると、深淵な哲学の持ち主の、卑小な社会的行動に愕然とさせられる。
アーレントを見ると、いかに聡明な人であれ、自分が信じたいものを信じるという点では私たち凡人と異ならないらしい。
『アーレントとハイデガー』は、未公開の二人の往復書簡に基づいて書かれた。
未公開であるため、著者は恣意的な解釈をくだしているのではないか、という疑問が書評者から提起された。
しかし、本書が巻き起こした騒動も一因となって往復書簡が公開される運びとなったらしいから、本書の主張は検証可能になる。
□エルジビェータ・エティンガー(大島かおり訳)『アーレントとハイデガー』(みすず書房、1996)
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