主として『レイテ戦記』に基づき、一部他の資料から補足しながら、レイテ戦における第26師団の動きを追跡してみる。
<符号>
A:軍、野砲兵聯隊。Ab:砲兵大隊。As:独立砲兵聯隊。B:旅団。Bs:独立混成旅団。D:師団。FA:航空軍。FL:野戦病院。i:歩兵聯隊。ibs:独立歩兵大隊。is:独立歩兵聯隊。K:騎兵聯隊。KD:騎兵師団。P:工兵聯隊。SO:捜索聯隊。T:輜重兵聯隊。ⅠⅡⅢ:大隊番号。
【今堀】:今堀支隊の動向、【斎藤】:斎藤支隊の動向、【重松】:重松大隊の動向、■日本軍の概況、○米軍の概況、【US】:米軍の動向。
なお、『レイテ戦記』にならい、「聯隊」の表記は日本軍に、「連隊」の表記は米軍に適用する。
<出典>
文末の(04)・・・・以下は、『レイテ戦記の』各章である。(04) 「4 海軍」、(09) 「9 海戦」、(12) 「12 第1師団」、(13) 「13 リモン峠」、(14) 「14 軍旗」、(15) 「15 第26師団」、(16) 「16 多号作戦」、(17) 「17 脊梁山脈」、(18) 「18 死の谷」、(19) 「19 和号作戦」、(20) 「20 ダムラアンの戦い」、(21) 「21 ブラウエンの戦い」、(22) 「22 オルモック湾の戦い」、(23) 「23 オルモックの戦い」、(24) 「24 壊滅」、(25) 「25 第68旅団」、(26) 「26 転進」、(27) 「27 敗軍」、(28) 「28 地号作戦」、(29) 「29 カンギポット」、(30) 「30 エピローグ」。
また、<年>は太平洋戦争年表(『レイテ戦記』巻末)、<重>は「重松大隊の戦記」、<雨>は「第一師団戦闘行動経過表」。
------------------------------------
■師団長幕僚以下、高級将校は皆戦死しているから詳しいことは伝わらない。ただし、聯隊ごとの戦記は比較的早く、昭和33年に刊行されている。(15)
■「師団からの帰還者は300余名であるが、大部分はマスバテ島漂着部隊とルソン島残存部隊で、レイテ島からの帰還者は、将校1、兵22,計23名にすぎない。万事はっきりしないことの方が多いのである」(15)
■マスバテ島漂着部隊とは、レイテ島へ輸送中に空襲を受けてマスバテ島に避難し、終戦時まで山中に残った部隊約200名のことである。(15)
【昭和10年】
2月
■熱河省で歩兵2個連隊を基幹として11Bsが編成された。(15)
【昭和12年】
10月
■11Bsは、静岡から名古屋、岐阜にいたる東海、中部地方の第3師団管区から現役兵をもって補充され(下士官は主として久留米)、師団に昇格した(26D)。11is、12is、13isを基幹とし、歩兵各聯隊は1個大隊が4個中隊のフル編成で、「山西省の八路軍と対峙、対ゲリラ戦の経験を持つ歴戦の部隊であった」(15)
【昭和18年】
10月20日
■16D20i、レイテ島討伐。<年>
【昭和19年】
3月8日
■インパール作戦開始(7月退却)。<年>
3月12日
■牧野中将(16D長)、D司令部(ルソン島ロスバニヨス)に着任。<年>
4月13日
■16D司令部、レイテ島進出。<年>
6月9日
■マリアナ沖海戦。<年>
7月初旬~
■1Dと同じく対米作戦参加の内命を受けた26Dは、対戦車肉薄攻撃、輸送船舷側の昇り降りなど、南方派遣部隊としての訓練を行った。(15)
7月7日
■サイパン島の日本軍全滅。<年>
7月13日迄
■原駐地厚和、大同に集中を終わった。(15)
7月24日
■捷号作戦が決定された。うち、捷1号は比島を対象とする。(04)
■比島派遣14Aが昇格して第14方面軍となり、26D(蒙彊)、8D(満州)、戦車第2師団が戦闘序列に入った。ルソン島中南部の防備を強化するためである。(04) また、ビサヤ、ミンダナオ方面の警備に当たっていた師団、混成旅団を集めて35Aを創設した。35Aは第14方面軍の隷下に入った。(04)
■1D(満州)は上海に移された。状況によって、随時、比島あるいは南西諸島に派遣できるよう準備された。(04)
7月28日
■鉄路釜山に着いた。そこで師団長が交替した。山県栗花生中将が転補された。(15)
■第14方面軍、第35軍新設。<年>
8月8日
■26Dは輸送船「玉津丸」「日昌丸」等(8隻、(12))に乗船した。(15)
8月9日
○米軍、ダバオ空襲(撤退後初めての攻撃)。<年>
8月10日
■九州の伊万里湾で30数隻の大輸送船団を組んで出航した。台湾の馬公を出る時は、改装空母「大鷹」ほか12隻の護衛が付いた。(15)
■バシー海峡で、敵潜水艦により、護送空母「大鷹」、駆逐艦1、輸送船6が撃沈された。この頃、目的地に到達するもの平均45%という数値になっていた。(12)
8月22日
■ルソン島マニラに着いた。1Dより早い。当時、マニラの状況はそれほど悪化していなかった。(15) 26Dの任務は、リンガエン湾から東海岸バレル湾にいたる中部ルソンの警備だった。(15) しかし、給養はきわめて悪く、副食は腐ったような水牛の塩汁ばかりだったので、下痢患者、栄養失調者が増えた。移動中、道傍の養魚場の魚をとろうとして、補充兵の警備員に叱られたりした。(15)
【重松】重松大隊(Ⅲ/13is、大隊長重松勲次少佐)、マニラ港入港。停泊すること1日半で下船。リンガエン湾の警備に就いた。<重>
8月27日
【重松】中部ルソン島タルラック州サンミゲルに進駐。警備と演習に明け暮れた。<重>
9月9日
○ダバオ大空襲。<年>
9月17日
【斎藤】齋藤二郎大佐、海没した安尾大佐の後任として、聯隊長(13is)に着任。<重>
9月21日
○ルソン島に第1回目の大空襲があった。<年><重>
9月25日
○米軍、ペリリュー島上陸。<年>
9月29日
■グアム、テニアン両島の日本軍全滅。<年>
10月6日
■第14方面軍司令官山下大将着任。<年>
10月8日頃~10月7日
■マニラ集結命令。<重> 26D主力はマニラ付近に集結した。しかし、最初に出た命令は、波止場の荷揚げ作業であった。「こうして26師団の兵士たちは、決戦参加に先立ち、すき腹を抱えての24時間労働で体力を消耗する不運に見舞われた」(15)
10月10~14日
■<台湾沖航空戦><年>
10月17日
○米レンジャー部隊、スルアン島上陸。<年>
10月19日
■捷1号作戦発令。神風特別攻撃隊編成。<年>
10月20日
【US】米軍、レイテ上陸。<重>
■大西滝治郎中将(第1航空艦隊司令官)、特攻を決定。<年> ○米軍、レイテ島上陸(1日で10万を超える人員と10万トン以上の補給物資を揚陸)。<年>
■16D(牧野四郎中将)など約2万が配備されているのみ。師団司令部のあるタクロバン正面は手薄、敵上陸第1日で通信網を寸断され、集積物資の多くを失った。→戦況は上級司令部には伝わらなかった。(レイテ決戦決定)<年>
10月24~26日
■レイテ沖海戦(09)
10月26日
■レイテ島進出の命令が26Dに下った。(15)
10月28日
■レイテ島輸送の「多号作戦」が正式に決定された。(15)
10月30日迄
■26Dの諸隊は軍装検査を終えた。(15)
10月31日
【今堀】26Dの先遣部隊、今堀支隊(12is(Ⅱ欠)1,000名、(12))は、1Dとともに出航した。(15)
11月1日
■1D(片岡薫中将)主力、オルモック上陸。<年>
11月1~4日
【今堀】11月1日朝、今堀支隊は、1Dとともにオルモックに到着。午後のうちに上陸を完了した。(12) 今堀支隊所属の野砲4門も上陸した。(17) 今堀支隊は、ドロレスから、水と食糧を求めてまずダナオ湖をめざした。(17) ダナオ湖は、ドロレス=ハロ道から約2キロ南、周囲6キロ、湖面標高800メートルで、折しも雨季と悪路が重なり、ゲリラの襲撃とあいまって苦難の行程だった。(17) 「作戦する前から、蛙やとかげを探さなければならないとは悲惨」な状態だったが(17)、脊梁山脈を越えて(15)、ダナオ湖からハロ側へ3キロ下り(17)、「今堀支隊は脊梁山脈中の小径を抜けて、4日までにハロを見下ろすラアオ山に進出し、後続の師団主力の到着を待っていた」(12)
11月2日
■第35軍司令官鈴木中将、レイテ島進出。<年>
11月2日頃
<ダムラアンの戦い>
■先着41i(30D)は当面の必要からカリガラ方面に使用され、1個大隊がブラウエン道に先遣されたが、主力は予備としてオルモックにとどめられていた。(20)
11月3日~
【今堀】11月3日以来、今堀支隊はハロ西方のラアオ山上にあって、4日以来(13)ハロの米長距離砲陣地に斬り込み隊を送り(21)、155ミリ長距離砲を破壊した(17)。 今堀支隊と10キロ離れた552高地に第1聯隊(1D)が東南2キロにわたって展開し、その西北「三ツ瘤高地」東南の脊梁山脈に49聯隊(1D)が展開していた。(13)
【US】今堀支隊と対峙したのは、米24Dである。(14) オルモック東北方、ラアオ=マムバン山の線で、ハロの米1KD(後に24D)と対峙した。(23) なお、今堀支隊所属の野砲1個大隊は、山路運搬不能なので、ドロレスに待機し、ダムラアンの戦いに加わった。(20)
11月4日
【重松】102D所属の1個中隊が加わった。徒歩道打通のため師団工兵も加わっていた。(21)
11月5日
■○<リモン峠にて日米交戦><年>
11月7日
<ダムラアンの戦い>
■35Aは、とりあえずオルモックにあった364大隊(55B、10月27日上陸)の1個中隊をカモテス海に沿って南下させたが、撃退された(10日までに)。(20)
11月8日
■最高戦争指導会議、レイテ決戦続行決定。<年>
11月8~11日
■「多号作戦」第3次、第4次輸送が実施された。(15)
■11月8日に組んだ船団は、11月1日に1Dの輸送を成功させた方式を踏襲したものだった。輸送船は26Dを乗せた「金華丸」「高津丸」「香椎丸」を主体とした。(14) 11月8日から9日にかけて、1Dの追求部隊は1,500トン級輸送船3に乗って先発した。荒天を利用し、22ノットの高速を生かして、素早く軍旗及び人員の輸送に成功した。(14) 9日、26D主力、オルモック上陸。
【重松】11日払暁を期し上陸すべき準備をしたが、夜明けとともに米海軍機が反復攻撃、艦艇発動機故障等により不成功となり、携行兵器のみで上陸。オルモック街道を急遽。師団主力とともにドロレス(オルモック北方)付近に集結し、今堀支隊の前線基地まで進出した。<重> 重松大隊は重機関銃以下を揚陸し、後に迫撃砲6門増加。<重>
11月9日
■レイテ島は雨季に入った。<雨> この年のレイテ島の雨は例年より多かったと言われる。(21)
11月9日
【US】午後、「米軍が絶対優勢にあるレイテの空の下では信じられないことだが、3隻の日本快速輸送艦がオルモック港に着き、1,000名以上の新手部隊の揚陸に成功した。さらに大型輸送船3、護衛艦多数よりなる別の船団が、レイテ西岸を南下、第5空軍の攻撃にも拘わらず1隻も撃沈されずにオルモック湾に入った」という「ぞっとするような報告」を米第6軍司令官クルーガー中将は受けた。これは軍旗とともに主力を追求中の1Dの残部3大隊と26Dの主力であった。(13)
■しかし、平均速度12ノットの本隊の方は、11月1日のようにはうまくいかなかった。レイテ島周辺の航空状況は9日の間に一変していた。(14) 「残念ながら26師団を乗せた輸送船団は、米機の爆撃と大発の不足により重火器を揚陸出来ず、兵員1万を上陸させることが出来ただけだった」(13) 上陸した26Dの兵士約1万名は、三八銃に弾薬130発、食糧1週間分を携行しただけだった。(16) 重火器、トラックと燃料その他軍需資材(6,600トン、(16))多数は揚陸できないまま、輸送船は撃沈された。「この日からレイテ島の補給は枯渇し、敗勢が現れてくる」(14)
11月12日
<ブラウエンの戦い>
■先遣今堀支隊のいるラアオ山からハロへの溢出が予定されていた26Dは、方面軍命令により、急遽1個大隊(重松大隊)をアルブエラ方面へ派遣した。マホナグ、ルビを通る土民道によって脊梁山脈を越え、ブラウエン方面の偵察と攻撃準備を行うためである。(16)
<ダムラアンの戦い>
【US】この頃、米7師団の先鋒1個大隊がアルブエラの南20キロのダムラアンまで北上していた。(16)
■「この敵と対抗しながら、ブラウエン攻撃を実施するという面倒な任務が、手ぶらで上陸した26師団に課せられることになるのである」(16) 11月2日にバイバイに出現した米軍は、その後増加の形勢にあった。オルモックに対する直接の脅威なので、後にこれに対処するため26Dの斎藤支隊(基幹Ⅰ、Ⅱ/13isに、Ⅱ/12is、Ⅱ/11isの一部を加えた)が派遣された。後、支隊のみならず師団の全力を注入することになる。(20)
11月12日
<ダムラアンの戦い>
【US】バイバイに出現した米軍は、その後増加の形勢にあった。(20)
11月12日頃
<ダムラアンの戦い>
【斎藤】オルモックに対する直接の脅威なので、これに対処するため26Dの斎藤支隊(基幹Ⅰ、Ⅱ/13isに/12is、Ⅱ/11isの一部を加えた)が派遣された。後、支隊のみならず師団の全力を注入することになる。(20)
11月12日
<ブラウエンの戦い>
■14方面軍は、「和号作戦」を35Aに下達。35軍は、26Dにアルブエラ~ブラウエン方面へ指向せよと命令した。26D主力はダムランを目指して進撃を開始した。<重>
【重松】山中の地形、敵情の偵察を任務とする重松大隊は、オルモックを出発した。(21) 夕刻、重松大隊は、和号作戦先遣隊としてイピル地区出発。タリサヤン川南岸を東進した。 <重> 11月13日~15日の間に、山中の地形、敵情の偵察を任務とする重松大隊は、オルモックを出発した。(21)
11月13日
<ダムラアンの戦い>
【斎藤】26Dの井上大隊(Ⅱ/12is)がダムラアン方面へ派遣された。(20) バイバイの敵の北上は35Aにとってさしあたり脅威であった。1個大隊(13is)がダムラアン方面に派遣された。(17)
11月14日
■26Dはオルモックに到着した。(17)
11月15日
<ブラウエンの戦い>
【重松】重松大隊、マホナグ着。
【斎藤】井上大隊の半分がカリダード付近で、他の半分がパラナス川付近で交戦した(互いの兵力を確かめ合った程度)。(20) 同日夕、13is主力(Ⅰ、Ⅱ)はイピルを出発、タリサヤン川(パラナス川の北7キロ、ブラウエンに向かう山径の分かれるところ)に向かった。(20) 1個大隊(13is)の先頭はパラナス川北岸に達し、米軍の先鋒と接触した。(17) 川岸から1キロ退いて、稜線に陣地を構築した。13isは野砲4門の配属を受け、アルブエラの南に布陣した。(17)
11月17日
<ダムラアンの戦い>
【斎藤】先遣井上大隊(Ⅱ/12is)は、斎藤大佐の指揮下に入り、斎藤支隊主力はパラナス川の線に進出した。(20) 斎藤支隊は、バイバイからカモテス海沿岸を北上中の米7Dの先頭とダムラアン(オルモック南方20キロ)で接触した。(19) 米軍の勢力は増大する傾向にあるので、さらに1個大隊を増強された。これは当時イピルにあった26Dの全力である。(19) 【重松】<ブラウエンの戦い>ルビ着。(21) 重松大隊は、マリトボから山に入り、脊梁山脈を越えて、その先頭は11月17日、全隊は22日、ブラウエンの西4キロの287高地に達した。(21) 287高地は、ブラウエンの西4キロ、ブラウエンの南でレイテ平野に溢出し、東流してドラグで海に入るダギタン川上流左岸の要地である。(21)
11月20日
<ブラウエンの戦い>
【重松】ルビ南東2粁に進出。この時一部の敵と遭遇し、これを撃退した。<重>
11月21日
<ダムラアンの戦い>
【斎藤】軍命令、26Dはアルブエラ方面の敵をカリダート以南に撃攘すべし。(20)
11月22日
<ブラウエンの戦い>
【重松】重松大隊の尖鋭中隊は、287高地(ブラウエン西方10キロ)に進出した。(19) 重松大隊、マタグバ東方地区に進出。先遣の小泉集成中隊(小泉少尉を長とする学徒兵将校を中心の集成中隊200名、102D)を掌握。<重>
<ダムラアンの戦い>
【斎藤】26D司令部はマリトボ(タリサヤン川南)に前進、作戦指導に万全を期した。(20)
11月23日
<ダムラアンの戦い>
【US】米第511降下連隊(1個大隊欠)はブラウエンを出発した。ダギタン川を遡行して脊梁山脈に入った。ダムラアンから北上する米第7師団と対峙する日本兵の背後を衝く作戦部隊だが、山中で散り散りになってしまった。しばしば26Dと交戦したが、統一指揮を失って分隊毎に単独行動をとったので、日本兵の損害も大きくなかった。(21) 当時西海岸にあった米軍の全兵力は、歩兵3個大隊、軽戦車1個小隊(2台?)。火力はリモン峠方面とは比較にならないほど貧弱なもので、11月23日時点で総数14門であった。砲兵はすべて前線から1,500ヤード後方、ダムラアン(オルモックの南20キロ)の町の南のバガン川の両岸に集結していた。(20)
↓クリック、プリーズ。↓
<符号>
A:軍、野砲兵聯隊。Ab:砲兵大隊。As:独立砲兵聯隊。B:旅団。Bs:独立混成旅団。D:師団。FA:航空軍。FL:野戦病院。i:歩兵聯隊。ibs:独立歩兵大隊。is:独立歩兵聯隊。K:騎兵聯隊。KD:騎兵師団。P:工兵聯隊。SO:捜索聯隊。T:輜重兵聯隊。ⅠⅡⅢ:大隊番号。
【今堀】:今堀支隊の動向、【斎藤】:斎藤支隊の動向、【重松】:重松大隊の動向、■日本軍の概況、○米軍の概況、【US】:米軍の動向。
なお、『レイテ戦記』にならい、「聯隊」の表記は日本軍に、「連隊」の表記は米軍に適用する。
<出典>
文末の(04)・・・・以下は、『レイテ戦記の』各章である。(04) 「4 海軍」、(09) 「9 海戦」、(12) 「12 第1師団」、(13) 「13 リモン峠」、(14) 「14 軍旗」、(15) 「15 第26師団」、(16) 「16 多号作戦」、(17) 「17 脊梁山脈」、(18) 「18 死の谷」、(19) 「19 和号作戦」、(20) 「20 ダムラアンの戦い」、(21) 「21 ブラウエンの戦い」、(22) 「22 オルモック湾の戦い」、(23) 「23 オルモックの戦い」、(24) 「24 壊滅」、(25) 「25 第68旅団」、(26) 「26 転進」、(27) 「27 敗軍」、(28) 「28 地号作戦」、(29) 「29 カンギポット」、(30) 「30 エピローグ」。
また、<年>は太平洋戦争年表(『レイテ戦記』巻末)、<重>は「重松大隊の戦記」、<雨>は「第一師団戦闘行動経過表」。
------------------------------------
■師団長幕僚以下、高級将校は皆戦死しているから詳しいことは伝わらない。ただし、聯隊ごとの戦記は比較的早く、昭和33年に刊行されている。(15)
■「師団からの帰還者は300余名であるが、大部分はマスバテ島漂着部隊とルソン島残存部隊で、レイテ島からの帰還者は、将校1、兵22,計23名にすぎない。万事はっきりしないことの方が多いのである」(15)
■マスバテ島漂着部隊とは、レイテ島へ輸送中に空襲を受けてマスバテ島に避難し、終戦時まで山中に残った部隊約200名のことである。(15)
【昭和10年】
2月
■熱河省で歩兵2個連隊を基幹として11Bsが編成された。(15)
【昭和12年】
10月
■11Bsは、静岡から名古屋、岐阜にいたる東海、中部地方の第3師団管区から現役兵をもって補充され(下士官は主として久留米)、師団に昇格した(26D)。11is、12is、13isを基幹とし、歩兵各聯隊は1個大隊が4個中隊のフル編成で、「山西省の八路軍と対峙、対ゲリラ戦の経験を持つ歴戦の部隊であった」(15)
【昭和18年】
10月20日
■16D20i、レイテ島討伐。<年>
【昭和19年】
3月8日
■インパール作戦開始(7月退却)。<年>
3月12日
■牧野中将(16D長)、D司令部(ルソン島ロスバニヨス)に着任。<年>
4月13日
■16D司令部、レイテ島進出。<年>
6月9日
■マリアナ沖海戦。<年>
7月初旬~
■1Dと同じく対米作戦参加の内命を受けた26Dは、対戦車肉薄攻撃、輸送船舷側の昇り降りなど、南方派遣部隊としての訓練を行った。(15)
7月7日
■サイパン島の日本軍全滅。<年>
7月13日迄
■原駐地厚和、大同に集中を終わった。(15)
7月24日
■捷号作戦が決定された。うち、捷1号は比島を対象とする。(04)
■比島派遣14Aが昇格して第14方面軍となり、26D(蒙彊)、8D(満州)、戦車第2師団が戦闘序列に入った。ルソン島中南部の防備を強化するためである。(04) また、ビサヤ、ミンダナオ方面の警備に当たっていた師団、混成旅団を集めて35Aを創設した。35Aは第14方面軍の隷下に入った。(04)
■1D(満州)は上海に移された。状況によって、随時、比島あるいは南西諸島に派遣できるよう準備された。(04)
7月28日
■鉄路釜山に着いた。そこで師団長が交替した。山県栗花生中将が転補された。(15)
■第14方面軍、第35軍新設。<年>
8月8日
■26Dは輸送船「玉津丸」「日昌丸」等(8隻、(12))に乗船した。(15)
8月9日
○米軍、ダバオ空襲(撤退後初めての攻撃)。<年>
8月10日
■九州の伊万里湾で30数隻の大輸送船団を組んで出航した。台湾の馬公を出る時は、改装空母「大鷹」ほか12隻の護衛が付いた。(15)
■バシー海峡で、敵潜水艦により、護送空母「大鷹」、駆逐艦1、輸送船6が撃沈された。この頃、目的地に到達するもの平均45%という数値になっていた。(12)
8月22日
■ルソン島マニラに着いた。1Dより早い。当時、マニラの状況はそれほど悪化していなかった。(15) 26Dの任務は、リンガエン湾から東海岸バレル湾にいたる中部ルソンの警備だった。(15) しかし、給養はきわめて悪く、副食は腐ったような水牛の塩汁ばかりだったので、下痢患者、栄養失調者が増えた。移動中、道傍の養魚場の魚をとろうとして、補充兵の警備員に叱られたりした。(15)
【重松】重松大隊(Ⅲ/13is、大隊長重松勲次少佐)、マニラ港入港。停泊すること1日半で下船。リンガエン湾の警備に就いた。<重>
8月27日
【重松】中部ルソン島タルラック州サンミゲルに進駐。警備と演習に明け暮れた。<重>
9月9日
○ダバオ大空襲。<年>
9月17日
【斎藤】齋藤二郎大佐、海没した安尾大佐の後任として、聯隊長(13is)に着任。<重>
9月21日
○ルソン島に第1回目の大空襲があった。<年><重>
9月25日
○米軍、ペリリュー島上陸。<年>
9月29日
■グアム、テニアン両島の日本軍全滅。<年>
10月6日
■第14方面軍司令官山下大将着任。<年>
10月8日頃~10月7日
■マニラ集結命令。<重> 26D主力はマニラ付近に集結した。しかし、最初に出た命令は、波止場の荷揚げ作業であった。「こうして26師団の兵士たちは、決戦参加に先立ち、すき腹を抱えての24時間労働で体力を消耗する不運に見舞われた」(15)
10月10~14日
■<台湾沖航空戦><年>
10月17日
○米レンジャー部隊、スルアン島上陸。<年>
10月19日
■捷1号作戦発令。神風特別攻撃隊編成。<年>
10月20日
【US】米軍、レイテ上陸。<重>
■大西滝治郎中将(第1航空艦隊司令官)、特攻を決定。<年> ○米軍、レイテ島上陸(1日で10万を超える人員と10万トン以上の補給物資を揚陸)。<年>
■16D(牧野四郎中将)など約2万が配備されているのみ。師団司令部のあるタクロバン正面は手薄、敵上陸第1日で通信網を寸断され、集積物資の多くを失った。→戦況は上級司令部には伝わらなかった。(レイテ決戦決定)<年>
10月24~26日
■レイテ沖海戦(09)
10月26日
■レイテ島進出の命令が26Dに下った。(15)
10月28日
■レイテ島輸送の「多号作戦」が正式に決定された。(15)
10月30日迄
■26Dの諸隊は軍装検査を終えた。(15)
10月31日
【今堀】26Dの先遣部隊、今堀支隊(12is(Ⅱ欠)1,000名、(12))は、1Dとともに出航した。(15)
11月1日
■1D(片岡薫中将)主力、オルモック上陸。<年>
11月1~4日
【今堀】11月1日朝、今堀支隊は、1Dとともにオルモックに到着。午後のうちに上陸を完了した。(12) 今堀支隊所属の野砲4門も上陸した。(17) 今堀支隊は、ドロレスから、水と食糧を求めてまずダナオ湖をめざした。(17) ダナオ湖は、ドロレス=ハロ道から約2キロ南、周囲6キロ、湖面標高800メートルで、折しも雨季と悪路が重なり、ゲリラの襲撃とあいまって苦難の行程だった。(17) 「作戦する前から、蛙やとかげを探さなければならないとは悲惨」な状態だったが(17)、脊梁山脈を越えて(15)、ダナオ湖からハロ側へ3キロ下り(17)、「今堀支隊は脊梁山脈中の小径を抜けて、4日までにハロを見下ろすラアオ山に進出し、後続の師団主力の到着を待っていた」(12)
11月2日
■第35軍司令官鈴木中将、レイテ島進出。<年>
11月2日頃
<ダムラアンの戦い>
■先着41i(30D)は当面の必要からカリガラ方面に使用され、1個大隊がブラウエン道に先遣されたが、主力は予備としてオルモックにとどめられていた。(20)
11月3日~
【今堀】11月3日以来、今堀支隊はハロ西方のラアオ山上にあって、4日以来(13)ハロの米長距離砲陣地に斬り込み隊を送り(21)、155ミリ長距離砲を破壊した(17)。 今堀支隊と10キロ離れた552高地に第1聯隊(1D)が東南2キロにわたって展開し、その西北「三ツ瘤高地」東南の脊梁山脈に49聯隊(1D)が展開していた。(13)
【US】今堀支隊と対峙したのは、米24Dである。(14) オルモック東北方、ラアオ=マムバン山の線で、ハロの米1KD(後に24D)と対峙した。(23) なお、今堀支隊所属の野砲1個大隊は、山路運搬不能なので、ドロレスに待機し、ダムラアンの戦いに加わった。(20)
11月4日
【重松】102D所属の1個中隊が加わった。徒歩道打通のため師団工兵も加わっていた。(21)
11月5日
■○<リモン峠にて日米交戦><年>
11月7日
<ダムラアンの戦い>
■35Aは、とりあえずオルモックにあった364大隊(55B、10月27日上陸)の1個中隊をカモテス海に沿って南下させたが、撃退された(10日までに)。(20)
11月8日
■最高戦争指導会議、レイテ決戦続行決定。<年>
11月8~11日
■「多号作戦」第3次、第4次輸送が実施された。(15)
■11月8日に組んだ船団は、11月1日に1Dの輸送を成功させた方式を踏襲したものだった。輸送船は26Dを乗せた「金華丸」「高津丸」「香椎丸」を主体とした。(14) 11月8日から9日にかけて、1Dの追求部隊は1,500トン級輸送船3に乗って先発した。荒天を利用し、22ノットの高速を生かして、素早く軍旗及び人員の輸送に成功した。(14) 9日、26D主力、オルモック上陸。
【重松】11日払暁を期し上陸すべき準備をしたが、夜明けとともに米海軍機が反復攻撃、艦艇発動機故障等により不成功となり、携行兵器のみで上陸。オルモック街道を急遽。師団主力とともにドロレス(オルモック北方)付近に集結し、今堀支隊の前線基地まで進出した。<重> 重松大隊は重機関銃以下を揚陸し、後に迫撃砲6門増加。<重>
11月9日
■レイテ島は雨季に入った。<雨> この年のレイテ島の雨は例年より多かったと言われる。(21)
11月9日
【US】午後、「米軍が絶対優勢にあるレイテの空の下では信じられないことだが、3隻の日本快速輸送艦がオルモック港に着き、1,000名以上の新手部隊の揚陸に成功した。さらに大型輸送船3、護衛艦多数よりなる別の船団が、レイテ西岸を南下、第5空軍の攻撃にも拘わらず1隻も撃沈されずにオルモック湾に入った」という「ぞっとするような報告」を米第6軍司令官クルーガー中将は受けた。これは軍旗とともに主力を追求中の1Dの残部3大隊と26Dの主力であった。(13)
■しかし、平均速度12ノットの本隊の方は、11月1日のようにはうまくいかなかった。レイテ島周辺の航空状況は9日の間に一変していた。(14) 「残念ながら26師団を乗せた輸送船団は、米機の爆撃と大発の不足により重火器を揚陸出来ず、兵員1万を上陸させることが出来ただけだった」(13) 上陸した26Dの兵士約1万名は、三八銃に弾薬130発、食糧1週間分を携行しただけだった。(16) 重火器、トラックと燃料その他軍需資材(6,600トン、(16))多数は揚陸できないまま、輸送船は撃沈された。「この日からレイテ島の補給は枯渇し、敗勢が現れてくる」(14)
11月12日
<ブラウエンの戦い>
■先遣今堀支隊のいるラアオ山からハロへの溢出が予定されていた26Dは、方面軍命令により、急遽1個大隊(重松大隊)をアルブエラ方面へ派遣した。マホナグ、ルビを通る土民道によって脊梁山脈を越え、ブラウエン方面の偵察と攻撃準備を行うためである。(16)
<ダムラアンの戦い>
【US】この頃、米7師団の先鋒1個大隊がアルブエラの南20キロのダムラアンまで北上していた。(16)
■「この敵と対抗しながら、ブラウエン攻撃を実施するという面倒な任務が、手ぶらで上陸した26師団に課せられることになるのである」(16) 11月2日にバイバイに出現した米軍は、その後増加の形勢にあった。オルモックに対する直接の脅威なので、後にこれに対処するため26Dの斎藤支隊(基幹Ⅰ、Ⅱ/13isに、Ⅱ/12is、Ⅱ/11isの一部を加えた)が派遣された。後、支隊のみならず師団の全力を注入することになる。(20)
11月12日
<ダムラアンの戦い>
【US】バイバイに出現した米軍は、その後増加の形勢にあった。(20)
11月12日頃
<ダムラアンの戦い>
【斎藤】オルモックに対する直接の脅威なので、これに対処するため26Dの斎藤支隊(基幹Ⅰ、Ⅱ/13isに/12is、Ⅱ/11isの一部を加えた)が派遣された。後、支隊のみならず師団の全力を注入することになる。(20)
11月12日
<ブラウエンの戦い>
■14方面軍は、「和号作戦」を35Aに下達。35軍は、26Dにアルブエラ~ブラウエン方面へ指向せよと命令した。26D主力はダムランを目指して進撃を開始した。<重>
【重松】山中の地形、敵情の偵察を任務とする重松大隊は、オルモックを出発した。(21) 夕刻、重松大隊は、和号作戦先遣隊としてイピル地区出発。タリサヤン川南岸を東進した。 <重> 11月13日~15日の間に、山中の地形、敵情の偵察を任務とする重松大隊は、オルモックを出発した。(21)
11月13日
<ダムラアンの戦い>
【斎藤】26Dの井上大隊(Ⅱ/12is)がダムラアン方面へ派遣された。(20) バイバイの敵の北上は35Aにとってさしあたり脅威であった。1個大隊(13is)がダムラアン方面に派遣された。(17)
11月14日
■26Dはオルモックに到着した。(17)
11月15日
<ブラウエンの戦い>
【重松】重松大隊、マホナグ着。
【斎藤】井上大隊の半分がカリダード付近で、他の半分がパラナス川付近で交戦した(互いの兵力を確かめ合った程度)。(20) 同日夕、13is主力(Ⅰ、Ⅱ)はイピルを出発、タリサヤン川(パラナス川の北7キロ、ブラウエンに向かう山径の分かれるところ)に向かった。(20) 1個大隊(13is)の先頭はパラナス川北岸に達し、米軍の先鋒と接触した。(17) 川岸から1キロ退いて、稜線に陣地を構築した。13isは野砲4門の配属を受け、アルブエラの南に布陣した。(17)
11月17日
<ダムラアンの戦い>
【斎藤】先遣井上大隊(Ⅱ/12is)は、斎藤大佐の指揮下に入り、斎藤支隊主力はパラナス川の線に進出した。(20) 斎藤支隊は、バイバイからカモテス海沿岸を北上中の米7Dの先頭とダムラアン(オルモック南方20キロ)で接触した。(19) 米軍の勢力は増大する傾向にあるので、さらに1個大隊を増強された。これは当時イピルにあった26Dの全力である。(19) 【重松】<ブラウエンの戦い>ルビ着。(21) 重松大隊は、マリトボから山に入り、脊梁山脈を越えて、その先頭は11月17日、全隊は22日、ブラウエンの西4キロの287高地に達した。(21) 287高地は、ブラウエンの西4キロ、ブラウエンの南でレイテ平野に溢出し、東流してドラグで海に入るダギタン川上流左岸の要地である。(21)
11月20日
<ブラウエンの戦い>
【重松】ルビ南東2粁に進出。この時一部の敵と遭遇し、これを撃退した。<重>
11月21日
<ダムラアンの戦い>
【斎藤】軍命令、26Dはアルブエラ方面の敵をカリダート以南に撃攘すべし。(20)
11月22日
<ブラウエンの戦い>
【重松】重松大隊の尖鋭中隊は、287高地(ブラウエン西方10キロ)に進出した。(19) 重松大隊、マタグバ東方地区に進出。先遣の小泉集成中隊(小泉少尉を長とする学徒兵将校を中心の集成中隊200名、102D)を掌握。<重>
<ダムラアンの戦い>
【斎藤】26D司令部はマリトボ(タリサヤン川南)に前進、作戦指導に万全を期した。(20)
11月23日
<ダムラアンの戦い>
【US】米第511降下連隊(1個大隊欠)はブラウエンを出発した。ダギタン川を遡行して脊梁山脈に入った。ダムラアンから北上する米第7師団と対峙する日本兵の背後を衝く作戦部隊だが、山中で散り散りになってしまった。しばしば26Dと交戦したが、統一指揮を失って分隊毎に単独行動をとったので、日本兵の損害も大きくなかった。(21) 当時西海岸にあった米軍の全兵力は、歩兵3個大隊、軽戦車1個小隊(2台?)。火力はリモン峠方面とは比較にならないほど貧弱なもので、11月23日時点で総数14門であった。砲兵はすべて前線から1,500ヤード後方、ダムラアン(オルモックの南20キロ)の町の南のバガン川の両岸に集結していた。(20)
↓クリック、プリーズ。↓