語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【読書余滴】斎藤美奈子の反語的文芸時評 ~小説における素材~

2010年07月28日 | 批評・思想
 小説は、素材(何を書くか)より包丁捌き(どう書くか)にウェイトがおかれるジャンルである。
 だが、あえて素材に着目して論じたのが、2010年7月27日付け朝日新聞の文芸時評。
 以下要旨だが、斎藤はまず素材の内容によって「体験型」と「調査型」を区別する。
 前者の素材は、自分の体験であり(いわゆる私小説)、その延長線上に一族の歴史も含まれる。
 後者の素材は、森羅万象、なんでもよい。

 今月、素材の力が生きていた作品は柳田大元『ボッグブリッジ』。エチオピアを舞台とする。作者はアフガニスタンで拘束された体験を綴った『タリバン拘束日記』(青峯社)もあるフリージャーナリスト。紛争地帯の放浪(?)体験が作品に昇華した例。「そこで勝負されても困る、という意見もあるだろうけれど、こういう小説は机の上だけではけっして生まれない」
 また、楊逸『ピラミッドの憂鬱』は、中国のひとりっ子政策が素材として作品に大きな位置を占める。祖父母4人と親二人と子ども一人の家族のなかで、子どもは「小皇帝」として君臨するが、親の力が失われたとたんにピラミッドは簡単に逆転して、子どもに一族の負担がかかる。この皮肉な構造が「何かを考えさせはする」。書く材料はいくらでもある、といっているような楊逸だが、日本の若い作家には素材を探すのが困難らしい。
 法月のり『空腹のヴィーナス』は、2002年のニューヨークを舞台として、それなりに小説らしくできあがっているのだが、いくつもの素材が松花堂弁当のように並べられているかのようで、物足りない。「しかし、それでも、お行儀のいい弁当箱をひっくり返したらどうなるかを見てみたい、と思わせるところがある」
 「半径数メートル圏内の見飽きた素材を読ませるには特異な技術が必要で、だったら新鮮な素材を探しに外に飛び出したほうが『勝ち』の場合も少なくないのだ。最終形態が小説でも、そのプロセスは研究論文やノンフィクションとそう変わらないかもしれない。繊細な料理人になる前に果敢なハンターたれ、である」

【参考】2010年7月27日付け朝日新聞
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