9月に明らかになった大阪地検特捜部主任検事の証拠品改竄は、検察の信頼を失墜させた。
ここで思い出すのは、大野正男と大岡昇平の対談『フィクションとしての裁判 -臨床法学講義-』だ。
大野正男は、1927年生、2006年没。サド裁判、砂川事件、全逓中郵事件、羽田空港デモ事件を担当した弁護士で、1993年、最高裁判事に着任。学生時代、吉行淳之介、清岡卓行、日高普、いいだもも、中村稔らと同人誌『世代』に参加した。大岡昇平の「顧問」だった。
『フィクションとしての裁判』は、それぞれの分野の専門家が作家などに対して「講義」と題する対談を行うLECTURE BOOKSシリーズの一冊である。このシリーズ、竹内均一と石坂浩二の地球学講義(『アトランティスが沈んだ日』)、河合隼雄と谷川俊太郎のユング心理学講義(『魂にメスはいらない』)、下村寅太郎と小川国男の地中海文化講義(『光があった』)など魅力的なテーマと人材が配されていた。
本書は、第1講「文学裁判」、第2講「『事件』をめぐって」、第3講「事実認定」、第4講「誤判の原因」、第5講「裁判の中心にあるもの」、第6講「陪審」・・・・の6講及び終章「臨床法学」について、で構成される。
第1講は、サド裁判が話題の中心である。
第2講は、大岡昇平『事件』を俎上にあげる。過失致死ないし傷害致死の微妙な判定、動機の問題を実務家が論評し、作家が作品を生みだす過程を明かす。弁護士には尋問の技術が不可欠だから判事を辞めて2~3年で身につくものではない、『事件』の菊池弁護士は生え抜きの弁護士であってほしかった・・・・と大野正男は注文している。ただし、菊池弁護士はうまくやっている由。余談ながら、この証人尋問の技術、弁護士に限らず、人間を相手に世をわたる職業人なら多かれ少なかれ必要とされる技術である、と思う。
第3講をみると、一時期知られた古畑種基・東大教授の鑑定には、門下の大学院生が短時間で調べただけにすぎないものも含まれていたらしい。また、弘前大学教授夫人殺害事件では、当事者の一人である学長の心理鑑定が証拠として採用されているが、先入観、偏向のある鑑定人による鑑定は「前代未聞」と評されている。鑑定以前の問題、証拠の捏造もあるらしい。前述の事件では、最初引田一雄・弘前医大教授ほか2人が鑑定し、1年後に古畑鑑定が行われた。この間に白シャツに血痕が増えていた、という。このあたりの事情が明らかになって再審で被告は無罪となった。
第4講で、捜査官の取り調べと弁護士の役割がとりあげられる。大野は、ある事件の体験を次のように語る。
検察官は、被疑者を弁護士に面会させないようにした。準抗告して、ようやく面会がかなった。被疑者がどんな取調べを受けたか、克明にメモして日付を入れておいた。完全自供ではないが、3分の2ぐらい不利益な供述をしていた。大野は、検察官が最後に被告人の調書を証拠として提出する段階で、その任意性を争った。証拠とすることに断固反対した。そして、不当な取調べが行われたことの証明のため、自ら証人になって出廷した。作成したメモを全部法定に提出し、これに基づいて証言した。結果として、自白に任意性はない、と大部分が却下された。事件は無罪で結審した。
こう語った後、大野は続ける。
心理的その他いろいろな形で圧迫がある場合、弁護士がついて話を聞くということは、被疑者にとってもっとも必要なことだ。被告人や被疑者のためだけではない。検察官が仮に卑劣な取調べをやろうと思っても、やりにくくなる。
「捜査官の場合は組織の問題ですから、誰かがおかしなことをすれば、直ちに全体の信用が問われます。(中略)自分たちはフェアにやっているということを保障するのは、自分じゃだめなんです(笑)。やっぱり、反対側から見ている人にも文句が出ないということが必要です。司法は全体として一つのルールにもとづいてやることを大前提にして成り立っているのですから、ルール違反を司法のなかでやり出したら、これはもう地獄ですね。だから、そういう担保として、捜査でも弁護人がついて、被疑者にいつでも面会して話を聞けることを保障するのは、捜査活動がフェアに行われていることを保障することでもある、そう考えるような視点が必要なんじゃないか、と思いますけれどね」
ここから接見の秘密と盗聴の問題、人権の“建前”と“応用”の問題が展開されるのだが、大岡昇平研究家のため余談を付記しておく。
スタンダールはナポレオン法典を読んでから小説を書いた、という逸話がある。わりと有名な逸話なのだが、これはフィクションなのであった。バルザックに対する返事にしか書かれていない。ナポレオン法典は、スタンダールのような引き締まった文章ではない。三島由紀夫は、自分は小説作法を民事訴訟法に学んだ、と言っているが、「それはスタンダールの悪い真似ですね。彼は私に聞けばよかったんだ」。
「それから開高健が江藤淳と対談して、新憲法の文章は気が抜けている。旧憲法のほうがしまっている。スタンダールがナポレオン法典を手本にしたように、手本にできる憲法がほしい、と言ったから、ナポレオン法典は民法だ。まあ、刑法を含めて、彼の治世に出来た法体系全部をそう呼ぶ場合もあるけれど、憲法は最初からほかの法律とは別だ、と言ってやったら、彼は一言もなかったですね」
なお、本書の副題「臨床法学」は、現場から発想する法学のこと。一般理論や立法はさておき、法律を紛争解決の手段として見る。
現場では、法律学では教えない「事実認定」が鍵になる。100%わかったことだけで事実を組み立てていくと、とんでもない結論に達することもある。空白の部分は「フィクション」で埋める。それが証拠上認め得る範囲なのか、限界を超えてしまったのか、という惑いを現場ではいつも抱えているのだ。
【参考】【大岡昇平ノート】大野正男/大岡昇平『フィクションとしての裁判 -臨床法学講義-』(朝日出版社、1979)
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ここで思い出すのは、大野正男と大岡昇平の対談『フィクションとしての裁判 -臨床法学講義-』だ。
大野正男は、1927年生、2006年没。サド裁判、砂川事件、全逓中郵事件、羽田空港デモ事件を担当した弁護士で、1993年、最高裁判事に着任。学生時代、吉行淳之介、清岡卓行、日高普、いいだもも、中村稔らと同人誌『世代』に参加した。大岡昇平の「顧問」だった。
『フィクションとしての裁判』は、それぞれの分野の専門家が作家などに対して「講義」と題する対談を行うLECTURE BOOKSシリーズの一冊である。このシリーズ、竹内均一と石坂浩二の地球学講義(『アトランティスが沈んだ日』)、河合隼雄と谷川俊太郎のユング心理学講義(『魂にメスはいらない』)、下村寅太郎と小川国男の地中海文化講義(『光があった』)など魅力的なテーマと人材が配されていた。
本書は、第1講「文学裁判」、第2講「『事件』をめぐって」、第3講「事実認定」、第4講「誤判の原因」、第5講「裁判の中心にあるもの」、第6講「陪審」・・・・の6講及び終章「臨床法学」について、で構成される。
第1講は、サド裁判が話題の中心である。
第2講は、大岡昇平『事件』を俎上にあげる。過失致死ないし傷害致死の微妙な判定、動機の問題を実務家が論評し、作家が作品を生みだす過程を明かす。弁護士には尋問の技術が不可欠だから判事を辞めて2~3年で身につくものではない、『事件』の菊池弁護士は生え抜きの弁護士であってほしかった・・・・と大野正男は注文している。ただし、菊池弁護士はうまくやっている由。余談ながら、この証人尋問の技術、弁護士に限らず、人間を相手に世をわたる職業人なら多かれ少なかれ必要とされる技術である、と思う。
第3講をみると、一時期知られた古畑種基・東大教授の鑑定には、門下の大学院生が短時間で調べただけにすぎないものも含まれていたらしい。また、弘前大学教授夫人殺害事件では、当事者の一人である学長の心理鑑定が証拠として採用されているが、先入観、偏向のある鑑定人による鑑定は「前代未聞」と評されている。鑑定以前の問題、証拠の捏造もあるらしい。前述の事件では、最初引田一雄・弘前医大教授ほか2人が鑑定し、1年後に古畑鑑定が行われた。この間に白シャツに血痕が増えていた、という。このあたりの事情が明らかになって再審で被告は無罪となった。
第4講で、捜査官の取り調べと弁護士の役割がとりあげられる。大野は、ある事件の体験を次のように語る。
検察官は、被疑者を弁護士に面会させないようにした。準抗告して、ようやく面会がかなった。被疑者がどんな取調べを受けたか、克明にメモして日付を入れておいた。完全自供ではないが、3分の2ぐらい不利益な供述をしていた。大野は、検察官が最後に被告人の調書を証拠として提出する段階で、その任意性を争った。証拠とすることに断固反対した。そして、不当な取調べが行われたことの証明のため、自ら証人になって出廷した。作成したメモを全部法定に提出し、これに基づいて証言した。結果として、自白に任意性はない、と大部分が却下された。事件は無罪で結審した。
こう語った後、大野は続ける。
心理的その他いろいろな形で圧迫がある場合、弁護士がついて話を聞くということは、被疑者にとってもっとも必要なことだ。被告人や被疑者のためだけではない。検察官が仮に卑劣な取調べをやろうと思っても、やりにくくなる。
「捜査官の場合は組織の問題ですから、誰かがおかしなことをすれば、直ちに全体の信用が問われます。(中略)自分たちはフェアにやっているということを保障するのは、自分じゃだめなんです(笑)。やっぱり、反対側から見ている人にも文句が出ないということが必要です。司法は全体として一つのルールにもとづいてやることを大前提にして成り立っているのですから、ルール違反を司法のなかでやり出したら、これはもう地獄ですね。だから、そういう担保として、捜査でも弁護人がついて、被疑者にいつでも面会して話を聞けることを保障するのは、捜査活動がフェアに行われていることを保障することでもある、そう考えるような視点が必要なんじゃないか、と思いますけれどね」
ここから接見の秘密と盗聴の問題、人権の“建前”と“応用”の問題が展開されるのだが、大岡昇平研究家のため余談を付記しておく。
スタンダールはナポレオン法典を読んでから小説を書いた、という逸話がある。わりと有名な逸話なのだが、これはフィクションなのであった。バルザックに対する返事にしか書かれていない。ナポレオン法典は、スタンダールのような引き締まった文章ではない。三島由紀夫は、自分は小説作法を民事訴訟法に学んだ、と言っているが、「それはスタンダールの悪い真似ですね。彼は私に聞けばよかったんだ」。
「それから開高健が江藤淳と対談して、新憲法の文章は気が抜けている。旧憲法のほうがしまっている。スタンダールがナポレオン法典を手本にしたように、手本にできる憲法がほしい、と言ったから、ナポレオン法典は民法だ。まあ、刑法を含めて、彼の治世に出来た法体系全部をそう呼ぶ場合もあるけれど、憲法は最初からほかの法律とは別だ、と言ってやったら、彼は一言もなかったですね」
なお、本書の副題「臨床法学」は、現場から発想する法学のこと。一般理論や立法はさておき、法律を紛争解決の手段として見る。
現場では、法律学では教えない「事実認定」が鍵になる。100%わかったことだけで事実を組み立てていくと、とんでもない結論に達することもある。空白の部分は「フィクション」で埋める。それが証拠上認め得る範囲なのか、限界を超えてしまったのか、という惑いを現場ではいつも抱えているのだ。
【参考】【大岡昇平ノート】大野正男/大岡昇平『フィクションとしての裁判 -臨床法学講義-』(朝日出版社、1979)
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