『二つの同時代史』Ⅶ章に、『俘虜記』に係る埴谷雄高の見解が披露されている。
第一、大岡文学は『俘虜記』から出発している。ドストエフスキーが『死の家の記録』から出発したように。
『死の家の記録』にさまざまなロシア人のさまざまなタイプが描かれている。『俘虜記』にもさまざまなタイプの日本人が描かれている。日本人だけではない。多様なアメリカ人を描いている。この点、20世紀に生きた大岡昇平は、ドストエフスキーよりも広がっている。「大岡は日本人を発見したと同時に、世界の他の国をも発見したわけだ」
これに対して、大岡昇平は冗談を言っている。「最初の洋行だからな(笑)」
第二、『俘虜記』には、『野火』の原型がある。
埴谷はいう。岩波版「大岡昇平集」では『野火』の解説に限定して書いたが、真に大岡昇平論をやるなら、おおかたの批評家がやっているように『死の家の記録』からドストエフスキー論をはじめると同様、『俘虜記』を徹底的にやるべきだ。
大岡は、首肯していう。「そうだ。まあ、おれはサラリーマンのこすからい智慧を持ちながら、『パルムの僧院』のファブリスの無垢を理想型にしたまんま戦争に行った。それを農民出の兵隊の中に見出した。ところがその兵隊とおれは話の種がなかった。俘虜病院にいる間だけどね。そこでやけになって、俘虜収容所全体を反無垢、小児性が残っちゃった。それを『野火』で追っかけてみた、ってことかね、自己解説すると」
埴谷は『俘虜記』から次のような人物を拾いだす。
(1)4人の暗号兵仲間のうち一人はレイテ島で結核のため司令部からも病院からも追い出され、とうとう自爆して死んだ。 (2)黒川軍曹が人肉食の話をして大岡昇平を嫌な気持ちにさせた。
(3)食べものを食べる前に儀式をする狂人が出てくる。
(4)(1)と(3)は、『野火』の主人公の原型である。(1)から(3)までの「3人がアマルガメイトされ、そしてそこに、大岡自身の感覚と思索が緊密に注ぎこまれて、あの『野火』ができたわけだ」。こういう点でも『俘虜記』は『死の家の記録』と同じ位置を占めている。ドストエフスキーは、『死の家の記録』の事実から出発して、いろいろフィクションの傑作を書いた。ドストエフスキーと同様に、大岡昇平も『俘虜記』の事実の原型を消化して自家薬籠中のものとし、『野火』という傑作を書いた。
第三、『俘虜記』には国際性、超階層性があり、日本的なものの発見がある。
戦争という世界的背景があるから、日本人もいろんな回想の人物がみんな出てきた。敵方のアメリカ人も、ドイツ系やスペイン系や、いろんな人物が出てきた。「日本文学の光彩性とか言うけれど、国際性はあそこで発見されているんだよ」
2,700カロリーの食糧を俘虜にだすとか、アメリカの兵隊と日本の捕虜をまったく同じに扱うとか、「これが国際性の始まりなんだよ」。
そして、いろんな階層の日本人を書いている。戦闘で死に、捕虜収容所に来なかった者まで書いている。
敗戦を知って暗闇で大岡が泣く場面、あるいは捕まって「殺せ」と叫んだ日本兵に対して、父母を嘆き悲しませるな、と涙を流しながら諭すフィリピン人(女房は日本人で息子は日本軍に志願)に、日本人は日本人を再発見する。
かくのごとく『俘虜記』にはいろんなものがつまっている、というのが埴谷の見立てだ。
そして、Ⅶ章冒頭で述べているところの、『俘虜記』を考える枠組みは、これまた埴谷雄高的な気宇壮大な説である。いわく・・・・
日本人は、だいたい北と南からやってきた。縄文人は北からやってきた。弥生人は中国の南からやってきた。南から黒潮にのってやってきた者もいるだろう。数万年の間に、これらが重層的に重なりあって、いまの日本人になった。
大東亜戦争は、原日本人を探し求める無意識的な探索である。「大東亜」とはいうものの、中国、仏印、マライ、ビルマ、フィリピン、インドネシア、ニューギニア、ポリネシア、ミクロネシアに行った。深層心理的には、歴史以前の重層的日本人の源を訪ねて、これら全部に行った。日本人が数万年にわたって夢見てきたことの実現である。本当のルーツ探しは無意識的なもので、資本主義帝国主義の時代だったから大東亜戦争という形をとった。
アジアからヨーロッパにかけては大陸だから、歴史以前の民族は大移動していた。いまの国は、もとは歴史がはじまったときにそれらの民族が定着してできたものである。その昔は、変な人間がやたらに歩きまわっていた。
ところが、日本に縄文人がきて以来、日本の向こうは太平洋で行き止まりだから、みんなこの国で雑居するようになった。そこで、胎児が夢を見るみたいに、無意識に日本人とは何かを考えていた。そこで大岡昇平はフィリピンに行くことになった。しかもそれは、日本人の国際性と非国際性と人間性の両端、それから日本そのものが問いなおされ始めた時代でもあった。
人間性とか国際性とかいうものは、だいたいヨーロッパ文化から教えられてたものだが、それを身をもって体験したのが、あの戦争時代だった。大岡昇平は、フィリピンに行って、フィリピン人はもとより、山の上にいる土着民にもアメリカ人にも会った。そして、これが重要なのだが、日本人にも会った。こういう状況のなかで、日本人というものが問いなおされ、自覚され直したのだ。
これが『俘虜記』を考える枠組みだ。
【参考】大岡昇平/埴谷雄高『二つの同時代史』(岩波書店、1984)
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第一、大岡文学は『俘虜記』から出発している。ドストエフスキーが『死の家の記録』から出発したように。
『死の家の記録』にさまざまなロシア人のさまざまなタイプが描かれている。『俘虜記』にもさまざまなタイプの日本人が描かれている。日本人だけではない。多様なアメリカ人を描いている。この点、20世紀に生きた大岡昇平は、ドストエフスキーよりも広がっている。「大岡は日本人を発見したと同時に、世界の他の国をも発見したわけだ」
これに対して、大岡昇平は冗談を言っている。「最初の洋行だからな(笑)」
第二、『俘虜記』には、『野火』の原型がある。
埴谷はいう。岩波版「大岡昇平集」では『野火』の解説に限定して書いたが、真に大岡昇平論をやるなら、おおかたの批評家がやっているように『死の家の記録』からドストエフスキー論をはじめると同様、『俘虜記』を徹底的にやるべきだ。
大岡は、首肯していう。「そうだ。まあ、おれはサラリーマンのこすからい智慧を持ちながら、『パルムの僧院』のファブリスの無垢を理想型にしたまんま戦争に行った。それを農民出の兵隊の中に見出した。ところがその兵隊とおれは話の種がなかった。俘虜病院にいる間だけどね。そこでやけになって、俘虜収容所全体を反無垢、小児性が残っちゃった。それを『野火』で追っかけてみた、ってことかね、自己解説すると」
埴谷は『俘虜記』から次のような人物を拾いだす。
(1)4人の暗号兵仲間のうち一人はレイテ島で結核のため司令部からも病院からも追い出され、とうとう自爆して死んだ。 (2)黒川軍曹が人肉食の話をして大岡昇平を嫌な気持ちにさせた。
(3)食べものを食べる前に儀式をする狂人が出てくる。
(4)(1)と(3)は、『野火』の主人公の原型である。(1)から(3)までの「3人がアマルガメイトされ、そしてそこに、大岡自身の感覚と思索が緊密に注ぎこまれて、あの『野火』ができたわけだ」。こういう点でも『俘虜記』は『死の家の記録』と同じ位置を占めている。ドストエフスキーは、『死の家の記録』の事実から出発して、いろいろフィクションの傑作を書いた。ドストエフスキーと同様に、大岡昇平も『俘虜記』の事実の原型を消化して自家薬籠中のものとし、『野火』という傑作を書いた。
第三、『俘虜記』には国際性、超階層性があり、日本的なものの発見がある。
戦争という世界的背景があるから、日本人もいろんな回想の人物がみんな出てきた。敵方のアメリカ人も、ドイツ系やスペイン系や、いろんな人物が出てきた。「日本文学の光彩性とか言うけれど、国際性はあそこで発見されているんだよ」
2,700カロリーの食糧を俘虜にだすとか、アメリカの兵隊と日本の捕虜をまったく同じに扱うとか、「これが国際性の始まりなんだよ」。
そして、いろんな階層の日本人を書いている。戦闘で死に、捕虜収容所に来なかった者まで書いている。
敗戦を知って暗闇で大岡が泣く場面、あるいは捕まって「殺せ」と叫んだ日本兵に対して、父母を嘆き悲しませるな、と涙を流しながら諭すフィリピン人(女房は日本人で息子は日本軍に志願)に、日本人は日本人を再発見する。
かくのごとく『俘虜記』にはいろんなものがつまっている、というのが埴谷の見立てだ。
そして、Ⅶ章冒頭で述べているところの、『俘虜記』を考える枠組みは、これまた埴谷雄高的な気宇壮大な説である。いわく・・・・
日本人は、だいたい北と南からやってきた。縄文人は北からやってきた。弥生人は中国の南からやってきた。南から黒潮にのってやってきた者もいるだろう。数万年の間に、これらが重層的に重なりあって、いまの日本人になった。
大東亜戦争は、原日本人を探し求める無意識的な探索である。「大東亜」とはいうものの、中国、仏印、マライ、ビルマ、フィリピン、インドネシア、ニューギニア、ポリネシア、ミクロネシアに行った。深層心理的には、歴史以前の重層的日本人の源を訪ねて、これら全部に行った。日本人が数万年にわたって夢見てきたことの実現である。本当のルーツ探しは無意識的なもので、資本主義帝国主義の時代だったから大東亜戦争という形をとった。
アジアからヨーロッパにかけては大陸だから、歴史以前の民族は大移動していた。いまの国は、もとは歴史がはじまったときにそれらの民族が定着してできたものである。その昔は、変な人間がやたらに歩きまわっていた。
ところが、日本に縄文人がきて以来、日本の向こうは太平洋で行き止まりだから、みんなこの国で雑居するようになった。そこで、胎児が夢を見るみたいに、無意識に日本人とは何かを考えていた。そこで大岡昇平はフィリピンに行くことになった。しかもそれは、日本人の国際性と非国際性と人間性の両端、それから日本そのものが問いなおされ始めた時代でもあった。
人間性とか国際性とかいうものは、だいたいヨーロッパ文化から教えられてたものだが、それを身をもって体験したのが、あの戦争時代だった。大岡昇平は、フィリピンに行って、フィリピン人はもとより、山の上にいる土着民にもアメリカ人にも会った。そして、これが重要なのだが、日本人にも会った。こういう状況のなかで、日本人というものが問いなおされ、自覚され直したのだ。
これが『俘虜記』を考える枠組みだ。
【参考】大岡昇平/埴谷雄高『二つの同時代史』(岩波書店、1984)
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