(承前)
【注】X、Y1、Y2の定義は、(1)の冒頭を参照。
(9)大岡昇平の資質に合う体験的仮構の文学
作者が全能者であって、成功した小説はいくらでもある。『パルムの僧院』しかり、『赤と黒』しかり、『ドルジェル伯の舞踏会』しかり。
ただ、Xの資質にとっては、この全能者の視点をいれた本格小説の制作に限界があるのだ。
静的な視点と解釈癖、つまり見るという資質にとっては見られたものの内実が問題になる。どのように見るかというより何を見たかが問題なのだ。現実世界における体験がXにとっては作品完成の重要な動機なのである。Xは、本質的に体験を記録し描写する私小説的作家であって、無から有を空想し虚構する想像力によって書く作家ではない。
Xの作品ですぐれたものは記録文学に多い。『俘虜記』をはじめ、『父』『母』『神経さん』などの短編、それに中原中也伝などがそれである。
小説としてもっともすぐれた作品は、『野火』と『花影』だ。
次のような図式が成り立つ。『野火』は(おそらく『花影』も)、『俘虜記』の体験と『武蔵野夫人』の仮構の中間にある体験的仮構の文学である。この領域の仕事が、Xの資質にとってはもっとも生彩のあるものとなっている。そして、この資質の具現として特有な視点、Xと作中人物の特殊な関係があることはこれまで見てきたとおりである。
(10)大岡昇平における理論と実践
小説家の理論と実践とは必ずしも一致しない。
理論家としてのXは、あきらかに西欧の近代作家を範とし、仮構による本格小説を文学の中心にすえている。数々の評論や『現代小説作法』などすべてそうである。
しかし、実践家としてのXは、体験に密着した私小説、それから『野火』(や『花影』)の体験的仮構小説において才能を発揮するのである。資質がおのずから理論を制約してしまう。自己の資質を無視して理論どおりの作品を書こうとすると失敗する。
(11)大岡昇平の資質を生かした歴史小説
Xには、自分の資質をうまく利用した、もう一系列の作品がある。天誅組を素材にした一連の歴史小説、会津敗軍の大鳥圭介を主人公とした『保成峠』『檜原』などだ。これに『レイテ戦記』を付け加えてもよい。これらはすべて文献を基礎とした考証で作品が組み立てられている。静的な視点と解釈癖を備えたXにはまさしくもってこいの領域である。
ただ、こうした方法は、素材と解釈とが均衡を保ち、素材から生き生きとした人間像が浮かびあがった場合に面白い作品ができるが、Xはしばしば解釈癖が度をすごし、素材の中の人間がかすんでしまい、文献の訓詁のみが強調されすぎるきらいがある。
(12)『野火』における「野火」の意味
Y1が最後まで明晰な意識を持ち続けたのに反し、Y2は狂気におちいる。
『野火』のなかには異常な体験が次々と出てくる。それらの体験は、その場の異常な状況と相応して作品のリアリティを確乎たるものにしている。
もっとも重要なのは、野火の幻影である。野火とは何か。それはまず単純にフィリピン人の存在を指している。田村一等兵は異国への侵入者である。この異国の民は常に侵入者を敵視している。敗兵にはゲリラの危険がつきまとっている。フィリピン人の日本軍へのすさまじい憎しみは、日本軍の敗走が始まるとともに一挙に爆発した。
敗軍の一員としてY2はフィリピン人に追われねばならぬ。この公的状況に加えて、もう一つの私的状況が加わる。すなわちフィリピン人女性の殺害である。Y2は自責の念にも追われる身となる。殺人者が恐れるのは、彼を逮捕しようとする世人のみならず神である、とはラスコーリニコフ以来の公準である。殺人が神を呼びさます。彼は神に見られはじめる。神は姿を現さない。しかし、不断にこちらを見つめ、見とおすのである。そのまなざしのあわいに野火が現れる。
こうなるともはや実在の野火ではなくなる。野火の幻影である。野火はゲリラという具体的な外的脅威を示している。Y2の心の火には明確な存在理由はない。心の中の火は神である。だが、Y2は神の存在を信じたくない。Y2は、不合理な幻影を見た自分に腹を立てている。Y2が神を見たとき、その時点で彼が狂ったことをXは用心深く書きこんでいる。
Y2は、狂気においてしか神と出会うことができない。そこに日本の一知識人の不幸がある。Y2が狂気へ足を踏みいれた瞬間に、外部の野火、フィリピン人と内部の炎、神とが合一する。
が、神の出現する体験のみは状況的説明を越えてしまう。それは外的状況をこえた内的なもの、真の狂気に近づくのだ。「私の心にある火」を書いたXの着眼は、この狂気に精緻なリアリティを与えている。
この狂気は、精神病理学的吟味に十分耐えるだけの「科学的リアリティ」を備えている。真の狂気は、精神的なものよりもむしろ肉体の深みから立ち現れるのである。精神は肉体を了解【注】できない。
【注】ヤスパース的「了解」である。
(13)キリスト教的でない神
神は野火となった。
次に神は丘の上の狂人に化身してくる。丘の頂上の木に背を凭せて動かぬ人とはゴルゴタの丘のキリストにほかならない。教会堂の十字架を見て少年期からなじんだ異国の宗教を思い出す挿話など、伏線は巧みにはられている。
しかし、Y2にとって、キリストは神の一人にすぎない。人肉を食べさせてY2を飢えから救った永松は、「逗子の中に光る仏像の眼」を持っていた。この神は、キリストや仏陀を代表とする普遍的な何かである。
それまでY2を見るだけだった神は、Y2に語りかけるようになる。ついに幻声になるのだ。Y2は、声に動かされる。自分の意志ではなく、神に動かされる。しかし、この神は、Y2を受け入れてくれない。
Y2を見捨てたのは、神のうちキリストのほうであるとも言える。仏陀は、Y2を見捨てない。永松によって飢え死にからまぬがれさせ、その永松をも殺させ、ついには自殺を決意させる。このような神は、キリスト的ではない。
Y2を死に誘ったのが野火であることに注意されたい。野火は、たえずY2を脅かした。死の象徴であった火に彼は近づき、ついに襲撃されるのである。そこでY2は、再び神に出会う。
(14)ニヒリズムの神
『野火』は、宗教小説である。神を知らぬ男が、極限状況において神を発見する物語である。わが国の現代小説に、おそらくはじめて神を主題にする小説が現れた。
『俘虜記』では、なぜ米兵を射たなかったかという解釈の行き詰まりから神の摂理の存在へと到達した。が、ここで到達した神は必ずしもキリストではない。Y1は、キリスト教に対してむしろ批判的であった。
Y1は、収容所のなかで、自己の深奥にある神を、道徳を発見する。Y1はモラリストになるのだ。Y1は、うわべは収容所生活に適応しながら、衆愚のなかにあって徹底的に孤独であった。
『俘虜記』の到達したところから『野火』は出発している。『俘虜記』が自己省察の結果神に到達したのに対し、『野火』は神の存在から出発している。射たなかったのは神のせいだという定言は、射ったら神はどうなるのかという実験へXを駆りたてた。
Xは、記録から小説への転進を異常な努力で遂行し、立派にやりとげた。しかも宗教小説というもっとも困難な領域において。
実験の結果は、意外であった。Y2が汚辱にまみれればまみれるほど、神はますます確乎として存在しはじめたのであった。と同時に、汚辱の果てにY2は狂わねばならなかった。孤独の極限に至らねばならなかった。
しかも『俘虜記』で予想した神のように、神は柔和な姿では現れなかった。神はすべてを見とおし、叱責し、ついにはフィリピン人という恐怖の他者と合一さえしてしまう。Y2は、神にすがろうとして、いつも払い落とされる。Y2は、神を讃えることはできても神の国に入ることはできない。
肯定的で柔和な神がこの世を包みこむのではなく、汚辱と狂気との死の状況の最中に不安な神が現れたのである。このプリアヴアティーブ(欠如的)な神は、結局ニヒリズムの神である。Xは、現代の知識人が当面しているニヒリズムの暗黒に光を見出す努力をする。モラリストXの姿勢は、精確に現代的である。
(15)創造したものによって作者が拡大される
Y1とY2との差は、いまや歴然としている。『俘虜記』においてXとY1とは平行関係にあり、Y1はXより小さかった。他方、Y2はXとほとんど一体であり、しかもY2はXよりも大きいのである。
『俘虜記』は自分の過去を整理しただけであるが、『野火』は新しい自分を創造したのである。『野火』を書いたことで大岡昇平は確実に自分を拡大しえた。小説家の創造のいとなみと喜びがそこにある。
【参考】加賀乙彦『大岡昇平における私と神 -『野火』をめぐって-』(『文学と狂気』、筑摩書房、1971、所収)
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【注】X、Y1、Y2の定義は、(1)の冒頭を参照。
(9)大岡昇平の資質に合う体験的仮構の文学
作者が全能者であって、成功した小説はいくらでもある。『パルムの僧院』しかり、『赤と黒』しかり、『ドルジェル伯の舞踏会』しかり。
ただ、Xの資質にとっては、この全能者の視点をいれた本格小説の制作に限界があるのだ。
静的な視点と解釈癖、つまり見るという資質にとっては見られたものの内実が問題になる。どのように見るかというより何を見たかが問題なのだ。現実世界における体験がXにとっては作品完成の重要な動機なのである。Xは、本質的に体験を記録し描写する私小説的作家であって、無から有を空想し虚構する想像力によって書く作家ではない。
Xの作品ですぐれたものは記録文学に多い。『俘虜記』をはじめ、『父』『母』『神経さん』などの短編、それに中原中也伝などがそれである。
小説としてもっともすぐれた作品は、『野火』と『花影』だ。
次のような図式が成り立つ。『野火』は(おそらく『花影』も)、『俘虜記』の体験と『武蔵野夫人』の仮構の中間にある体験的仮構の文学である。この領域の仕事が、Xの資質にとってはもっとも生彩のあるものとなっている。そして、この資質の具現として特有な視点、Xと作中人物の特殊な関係があることはこれまで見てきたとおりである。
(10)大岡昇平における理論と実践
小説家の理論と実践とは必ずしも一致しない。
理論家としてのXは、あきらかに西欧の近代作家を範とし、仮構による本格小説を文学の中心にすえている。数々の評論や『現代小説作法』などすべてそうである。
しかし、実践家としてのXは、体験に密着した私小説、それから『野火』(や『花影』)の体験的仮構小説において才能を発揮するのである。資質がおのずから理論を制約してしまう。自己の資質を無視して理論どおりの作品を書こうとすると失敗する。
(11)大岡昇平の資質を生かした歴史小説
Xには、自分の資質をうまく利用した、もう一系列の作品がある。天誅組を素材にした一連の歴史小説、会津敗軍の大鳥圭介を主人公とした『保成峠』『檜原』などだ。これに『レイテ戦記』を付け加えてもよい。これらはすべて文献を基礎とした考証で作品が組み立てられている。静的な視点と解釈癖を備えたXにはまさしくもってこいの領域である。
ただ、こうした方法は、素材と解釈とが均衡を保ち、素材から生き生きとした人間像が浮かびあがった場合に面白い作品ができるが、Xはしばしば解釈癖が度をすごし、素材の中の人間がかすんでしまい、文献の訓詁のみが強調されすぎるきらいがある。
(12)『野火』における「野火」の意味
Y1が最後まで明晰な意識を持ち続けたのに反し、Y2は狂気におちいる。
『野火』のなかには異常な体験が次々と出てくる。それらの体験は、その場の異常な状況と相応して作品のリアリティを確乎たるものにしている。
もっとも重要なのは、野火の幻影である。野火とは何か。それはまず単純にフィリピン人の存在を指している。田村一等兵は異国への侵入者である。この異国の民は常に侵入者を敵視している。敗兵にはゲリラの危険がつきまとっている。フィリピン人の日本軍へのすさまじい憎しみは、日本軍の敗走が始まるとともに一挙に爆発した。
敗軍の一員としてY2はフィリピン人に追われねばならぬ。この公的状況に加えて、もう一つの私的状況が加わる。すなわちフィリピン人女性の殺害である。Y2は自責の念にも追われる身となる。殺人者が恐れるのは、彼を逮捕しようとする世人のみならず神である、とはラスコーリニコフ以来の公準である。殺人が神を呼びさます。彼は神に見られはじめる。神は姿を現さない。しかし、不断にこちらを見つめ、見とおすのである。そのまなざしのあわいに野火が現れる。
こうなるともはや実在の野火ではなくなる。野火の幻影である。野火はゲリラという具体的な外的脅威を示している。Y2の心の火には明確な存在理由はない。心の中の火は神である。だが、Y2は神の存在を信じたくない。Y2は、不合理な幻影を見た自分に腹を立てている。Y2が神を見たとき、その時点で彼が狂ったことをXは用心深く書きこんでいる。
Y2は、狂気においてしか神と出会うことができない。そこに日本の一知識人の不幸がある。Y2が狂気へ足を踏みいれた瞬間に、外部の野火、フィリピン人と内部の炎、神とが合一する。
が、神の出現する体験のみは状況的説明を越えてしまう。それは外的状況をこえた内的なもの、真の狂気に近づくのだ。「私の心にある火」を書いたXの着眼は、この狂気に精緻なリアリティを与えている。
この狂気は、精神病理学的吟味に十分耐えるだけの「科学的リアリティ」を備えている。真の狂気は、精神的なものよりもむしろ肉体の深みから立ち現れるのである。精神は肉体を了解【注】できない。
【注】ヤスパース的「了解」である。
(13)キリスト教的でない神
神は野火となった。
次に神は丘の上の狂人に化身してくる。丘の頂上の木に背を凭せて動かぬ人とはゴルゴタの丘のキリストにほかならない。教会堂の十字架を見て少年期からなじんだ異国の宗教を思い出す挿話など、伏線は巧みにはられている。
しかし、Y2にとって、キリストは神の一人にすぎない。人肉を食べさせてY2を飢えから救った永松は、「逗子の中に光る仏像の眼」を持っていた。この神は、キリストや仏陀を代表とする普遍的な何かである。
それまでY2を見るだけだった神は、Y2に語りかけるようになる。ついに幻声になるのだ。Y2は、声に動かされる。自分の意志ではなく、神に動かされる。しかし、この神は、Y2を受け入れてくれない。
Y2を見捨てたのは、神のうちキリストのほうであるとも言える。仏陀は、Y2を見捨てない。永松によって飢え死にからまぬがれさせ、その永松をも殺させ、ついには自殺を決意させる。このような神は、キリスト的ではない。
Y2を死に誘ったのが野火であることに注意されたい。野火は、たえずY2を脅かした。死の象徴であった火に彼は近づき、ついに襲撃されるのである。そこでY2は、再び神に出会う。
(14)ニヒリズムの神
『野火』は、宗教小説である。神を知らぬ男が、極限状況において神を発見する物語である。わが国の現代小説に、おそらくはじめて神を主題にする小説が現れた。
『俘虜記』では、なぜ米兵を射たなかったかという解釈の行き詰まりから神の摂理の存在へと到達した。が、ここで到達した神は必ずしもキリストではない。Y1は、キリスト教に対してむしろ批判的であった。
Y1は、収容所のなかで、自己の深奥にある神を、道徳を発見する。Y1はモラリストになるのだ。Y1は、うわべは収容所生活に適応しながら、衆愚のなかにあって徹底的に孤独であった。
『俘虜記』の到達したところから『野火』は出発している。『俘虜記』が自己省察の結果神に到達したのに対し、『野火』は神の存在から出発している。射たなかったのは神のせいだという定言は、射ったら神はどうなるのかという実験へXを駆りたてた。
Xは、記録から小説への転進を異常な努力で遂行し、立派にやりとげた。しかも宗教小説というもっとも困難な領域において。
実験の結果は、意外であった。Y2が汚辱にまみれればまみれるほど、神はますます確乎として存在しはじめたのであった。と同時に、汚辱の果てにY2は狂わねばならなかった。孤独の極限に至らねばならなかった。
しかも『俘虜記』で予想した神のように、神は柔和な姿では現れなかった。神はすべてを見とおし、叱責し、ついにはフィリピン人という恐怖の他者と合一さえしてしまう。Y2は、神にすがろうとして、いつも払い落とされる。Y2は、神を讃えることはできても神の国に入ることはできない。
肯定的で柔和な神がこの世を包みこむのではなく、汚辱と狂気との死の状況の最中に不安な神が現れたのである。このプリアヴアティーブ(欠如的)な神は、結局ニヒリズムの神である。Xは、現代の知識人が当面しているニヒリズムの暗黒に光を見出す努力をする。モラリストXの姿勢は、精確に現代的である。
(15)創造したものによって作者が拡大される
Y1とY2との差は、いまや歴然としている。『俘虜記』においてXとY1とは平行関係にあり、Y1はXより小さかった。他方、Y2はXとほとんど一体であり、しかもY2はXよりも大きいのである。
『俘虜記』は自分の過去を整理しただけであるが、『野火』は新しい自分を創造したのである。『野火』を書いたことで大岡昇平は確実に自分を拡大しえた。小説家の創造のいとなみと喜びがそこにある。
【参考】加賀乙彦『大岡昇平における私と神 -『野火』をめぐって-』(『文学と狂気』、筑摩書房、1971、所収)
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