(1)バブルの経過
1980年代後半、不動産と株式の価格に大規模なバブルが発生した。
「円高不況」を克服した日本経済は、1986年12月から景気上昇を開始した。まず、企業収益の順調な伸びを反映して、株価が上昇した。少し遅れて、地価も顕著な上昇を始めた。東京の地価は、1986、87年の2年間で3倍になった。地価上昇は、やがて大阪や名古屋に、さらに地方都市に波及していった。日本の海外投資は、世界を席巻し、日本は世界一の債権国となった。
1990年に入って、株価は下落し始めた。1991年に入って、地価も顕著な下落を始めた。1990年代末には、大銀行や証券会社が破綻に瀬した。
(2)バブルとは何か
フロー価格とストック価格の乖離である。
【原理】資産価値=資産が将来生みだすフローの収益の合計値
例)株式:毎年の配当(フローの収益)の将来にわたる合計額=株価(ストック価格)
例)不動産:賃貸料(フローの収益)の将来にわたる合計額=不動産の資産価値
ところが、実際の資産価格は、これから乖離することもある。価格が将来上昇するなら、値上がり益(キャピタルゲイン)を得ることができるからだ。ここに、将来の高価格を予想して、現在の価格が高くなる現象が発生する。この場合の資産価格は、「値上がり期待」という根拠薄弱なものに支えられている。バブルと呼ばれる所以である。
かくして、転売利益だけを目当てとした需要が発生し、それが価格をさらに引き上げる。利用収益とかけ離れたところで、資産価格だけが自己増殖していく。バブルの膨張過程である。
市場価格は、資源の適切な配分を実現するための適切なシグナルとして機能する。ただし、それはフローの価格に関してのことだ。「期待」が重要な比重をもつ資産(ストック)の価格に関しては間違ったシグナルを与える可能性が大だ。
そして、事実間違ったシグナルを与えた。「東京はアジアの金融基地になるから、地価上昇は当然」という意見が広く唱えられた(政府の白書にも現れた)。野口悠紀雄は、1987年11月の論文(「週刊東洋経済」所収)で、地価上昇はバブルだ、と指摘した。しかし、耳を貸す人は少なかった。
(3)バブルをもたらした金融構造
バブルの原因として金融緩和がよく指摘される。公定歩合は、1987年2月には2.5%という史上最低レベルになった。「プラザ合意」(1985年9月)による円高圧力に対処しようとしたものだ。ブラックマンデー以降、米国からの圧力もあった。
しかし、それだけでは、あれほどのバブルは生じない。構造的な問題があったのだ。
1980年代後半、企業は株式や転換社債の発行によって低コストで資金を調達できるようになった。調達された資金は、まず借入れ減少にまわされた。さらに、大企業は、金融資産への投資を積極的に行った(「財テク」)。この背後に、当時の特異な金融情勢がある。自由金利は6%、株式市場での資金調達コストは2%。「直接金融で調達した資金を預金すれば、それだけで利益が上げられる」という奇妙な現象が発生してしまったのだ。
製造業の大企業という主要貸出先を失った銀行は、中小企業に融資をシフトさせた。同時に、不動産投機に資金を流した。
(4)1940年体制の矛盾の噴出
1940年体制が新しい経済条件の変化に対応できなかったために、バブルが生じた。結果として、1940年体制の中核的経済制度(銀行)に致命的な打撃を与えた。
(a)金融制度に矛盾が内包されていた。
この時点において、間接金融システムは主要な役割を終えていた。1940年体制の中核組織は、基本的な転換を要求されていたのである(特に日本興業銀行を中心とする長期信用銀行)。
かかる客観的条件の変化にもかかわらず、銀行は生き残ろうとした。事業内容が定かではない中小企業に対する融資や、ノンバンクを介した不動産金融など、それまでの業務とは異なる方向に事業を拡張しようとした。この時期の資金の流れは、きわめて歪んだ形となった。そして、これらのすべてが失敗した。
本来は、銀行は高度な金融サービスを提供する方向に脱皮していくべきだった。しかし、そうしたノウハウの蓄積がなかったため、容易で不適切な方向への事業拡張が行われたのである。
(b)不動産投資が行われた基本的な背景である。
過剰資金の投資対象としては、さまざまなものがありえた。不動産が選ばれたのは、不動産価格がつねに強含みだったからだ。これも1940年体制がもつ顕著な特徴なのだ。
間接金融の下では、家計の金融資産の大部分は預金という名目資産で保有される。不動産は、家計が保有できる唯一のリアルな資産だった。かくして不動産価格のスパイラル的な上昇が起こった。大企業という資産運用先を失った銀行が、不動産投機に走ったのも、不動産が有利な資産だったからだ。
(5)生産者優先のマクロ政策
1940年体制は、経済制度に歪みをもたらした。それだけではなく、マクロ経済の方向づけにも特有のバイアスを与えた。
(a)金融政策・為替政策におけるバイアス。
高度成長をへてオイルショックを克服した製造業は、生産性を高めた。輸出が伸びて、貿易黒字が蓄積された。為替レートが円高になった。
円高とは、日本人の労働価値が高く評価されることだ。海外からの輸入品を安く買うことができる。日本人の消費生活は向上するはずだった。
ところが、実際には円高は容認されず、円安政策がとられた。消費者からみて望ましい変化が生じたとき、それを打ち消す圧力が生産者(とくに輸出産業)から生じるのが日本の経済政策の基本的なバイアスである。このときも、そうだ。かくして金融緩和が行われた。
(b)財政政策におけるバイアス。
景気拡大、資産売却益増価によって税収が増えた。しかし、緊縮財政の方針は、これまでどおり堅持された。財政赤字が顕著に縮小した。
もし生活者の声が財政政策に反映していたら、都市生活環境を向上させる基盤投資が行われていただろう。国債が増発され、金融機関の余剰資金に対する運用手段が提供されただろう。前述のような資金の流れは生じなかったに違いない。
日本では、極端に消費者の立場が無視された。もし消費者の立場がマクロ政策に反映されれば、金融緩和・緊縮財政とは異なるマクロ政策が採られただろう。バブルが生じなかった可能性が高い。バブルは、消費者無視のバイアスがもたらしたものだ。この意味においても、バブルは1940年体制がもたらしたものなのだ。
マクロ経済におけるこうしたバイアスは、今日に至るまで残っている。
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以上、『日本経済改造論』第2章(1940年体制とバブル)の2(1940年体制がもたらしたバブル)による。
【参考】野口悠紀雄『日本経済改造論 -いかにして未來を切り開くか-』(東洋経済新聞社、2005)
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