1 財政金融制度
(1)金融システム
産業資金供給は、戦前は資本市場を通じる直接金融方式を中心とした。これが、銀行を経由する間接金融方式へ移行した。
また、戦時金融体制の仕上げとして、統制色の強い旧日本銀行法が1942年に作られた。1998年まで日本の基本的な経済法の一つだった。
戦時中に立法された「臨時資金調整法」や「資本逃避防止法」(を引き継いで作られた「外国為替及び外国貿易管理法」)を用いて、戦後の金融統制が行われた。
メインバンクが資金提供だけではなく、企業の意思決定に大きな影響力をもつ。多くの場合、主要株主である。
(2)財政システム
1940年度税制改正において、法人税が創設された。また、給与所得者に対する源泉徴収が整備された。現在まで続く直接税中心の税体系が確立された。会社に徴税実務を代行させる年末調整制度の導入とあいまって、近代産業に対して課税するしくみが確立された。
その財源は、政府が握った。財源を地方公共団体に配布する財政構造が作られた。地方公共団体は、財源の多くを地方交付税や国庫支出金(補助金)など、国からの移転に仰いでいる。
しかし、日本の地方公共団体は、もとは財源面での自主性が強かった。現在の中央集権的構造は、1940年度の税制改革がもたらしたものだ。
(3)政府の介入
行政指導や規制などによって、政府が市場に個別に介入する場合が非常に多い。
2 日本型企業
(1)資本と経営の分離
革新官僚が推しすすめたが、間接金融方式とあいまって、戦後日本企業の基本となった。
(2)企業と経済団体
戦時中に成長した企業(電力、製鉄、自動車、電機)が戦後日本経済の中核になった。
統制会の上部機構が経団連になった。統制会は、1941年に鉄鋼業で組織されたのが始まりである。その後、「重要産業団体令」によって、政府が指定する業種に統制会が設置された。最終的には22の統制会が設置された。企業は強制的に参加させられ、会長の任免権は主務大臣が握り、会長は参加企業の人事に介入する権限を有した。統制会の連絡調整機関として「重要産業協議会」が設置された。戦後、統制色を払拭する必要に迫られ、1946年2月に解散し、同年8月に再出発して設立されたのが「経済団体連合会」である。
(3)労働組合
戦時中に形成された「産業報告会」が戦後の企業別労働組合の母体になった。
労働組合は、企業別に組織された。
自動車、新聞社、通信社などの多くの企業が1940年体制の中で生まれた。
(4)組織優先の風潮
労働者も経営者も、企業という組織に固定化された。
雇用体制は、終身雇用・年功序列を中心とした。経営者は、内部昇進といった傾向が大企業を中心として広範に見られる。
市場を通じる自由な関係ではなく、集団主義をよしとする。「競争が悪で、協調が善」という価値観が一般的である。
(5)系列化
企業と企業との関係が排他的で、長期にわたって固定的である(系列関係)。
戦時体制は、戦後日本に存続しただけではなく、むしろ強化された。株主持ち合いによる企業の閉鎖性の進行やメインバンクの株保有によって、さらに強化された。また、系列関係も強化された。
3 土地改革
(1)農村の土地制度
戦時中に導入された食糧管理制度が戦後の農地改革を可能にした。
(2)都市の土地制度
戦時中に強化された借地借家法が、戦後の都市における土地制度の基本になった。
4 その他
(1)社会保障制度
1939年の船員保険、1942年の労働者年金保険制度によって、民間企業の従業員に対する公的年金制度が始まった。
労働者年金は、1944年に厚生年金保険となった。
(2)教育制度
現行のしくみの基本は、1940前後に確立された。
(3)低生産性部門に対する補助
農業や零細企業などに対して、財政的援助が与えられた。官僚制度が全体として社会主義政策を行った。
(4)その他
高い貯蓄率が1940年前後から顕著になった。
*
以上、『戦後日本経済史』巻末の付録1をもとに、『日本経済改造論』および『日本経済は本当に復活したのか』から若干加筆した。
【参考】野口悠紀雄『日本経済改造論 -いかにして未來を切り開くか-』(東洋経済新聞社、2005)
野口悠紀雄『日本経済は本当に復活したのか -根拠なき楽観論を斬る-』(ダイヤモンド社、2006)
野口悠紀雄『戦後日本経済史』(新潮社、2008)
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(1)金融システム
産業資金供給は、戦前は資本市場を通じる直接金融方式を中心とした。これが、銀行を経由する間接金融方式へ移行した。
また、戦時金融体制の仕上げとして、統制色の強い旧日本銀行法が1942年に作られた。1998年まで日本の基本的な経済法の一つだった。
戦時中に立法された「臨時資金調整法」や「資本逃避防止法」(を引き継いで作られた「外国為替及び外国貿易管理法」)を用いて、戦後の金融統制が行われた。
メインバンクが資金提供だけではなく、企業の意思決定に大きな影響力をもつ。多くの場合、主要株主である。
(2)財政システム
1940年度税制改正において、法人税が創設された。また、給与所得者に対する源泉徴収が整備された。現在まで続く直接税中心の税体系が確立された。会社に徴税実務を代行させる年末調整制度の導入とあいまって、近代産業に対して課税するしくみが確立された。
その財源は、政府が握った。財源を地方公共団体に配布する財政構造が作られた。地方公共団体は、財源の多くを地方交付税や国庫支出金(補助金)など、国からの移転に仰いでいる。
しかし、日本の地方公共団体は、もとは財源面での自主性が強かった。現在の中央集権的構造は、1940年度の税制改革がもたらしたものだ。
(3)政府の介入
行政指導や規制などによって、政府が市場に個別に介入する場合が非常に多い。
2 日本型企業
(1)資本と経営の分離
革新官僚が推しすすめたが、間接金融方式とあいまって、戦後日本企業の基本となった。
(2)企業と経済団体
戦時中に成長した企業(電力、製鉄、自動車、電機)が戦後日本経済の中核になった。
統制会の上部機構が経団連になった。統制会は、1941年に鉄鋼業で組織されたのが始まりである。その後、「重要産業団体令」によって、政府が指定する業種に統制会が設置された。最終的には22の統制会が設置された。企業は強制的に参加させられ、会長の任免権は主務大臣が握り、会長は参加企業の人事に介入する権限を有した。統制会の連絡調整機関として「重要産業協議会」が設置された。戦後、統制色を払拭する必要に迫られ、1946年2月に解散し、同年8月に再出発して設立されたのが「経済団体連合会」である。
(3)労働組合
戦時中に形成された「産業報告会」が戦後の企業別労働組合の母体になった。
労働組合は、企業別に組織された。
自動車、新聞社、通信社などの多くの企業が1940年体制の中で生まれた。
(4)組織優先の風潮
労働者も経営者も、企業という組織に固定化された。
雇用体制は、終身雇用・年功序列を中心とした。経営者は、内部昇進といった傾向が大企業を中心として広範に見られる。
市場を通じる自由な関係ではなく、集団主義をよしとする。「競争が悪で、協調が善」という価値観が一般的である。
(5)系列化
企業と企業との関係が排他的で、長期にわたって固定的である(系列関係)。
戦時体制は、戦後日本に存続しただけではなく、むしろ強化された。株主持ち合いによる企業の閉鎖性の進行やメインバンクの株保有によって、さらに強化された。また、系列関係も強化された。
3 土地改革
(1)農村の土地制度
戦時中に導入された食糧管理制度が戦後の農地改革を可能にした。
(2)都市の土地制度
戦時中に強化された借地借家法が、戦後の都市における土地制度の基本になった。
4 その他
(1)社会保障制度
1939年の船員保険、1942年の労働者年金保険制度によって、民間企業の従業員に対する公的年金制度が始まった。
労働者年金は、1944年に厚生年金保険となった。
(2)教育制度
現行のしくみの基本は、1940前後に確立された。
(3)低生産性部門に対する補助
農業や零細企業などに対して、財政的援助が与えられた。官僚制度が全体として社会主義政策を行った。
(4)その他
高い貯蓄率が1940年前後から顕著になった。
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以上、『戦後日本経済史』巻末の付録1をもとに、『日本経済改造論』および『日本経済は本当に復活したのか』から若干加筆した。
【参考】野口悠紀雄『日本経済改造論 -いかにして未來を切り開くか-』(東洋経済新聞社、2005)
野口悠紀雄『日本経済は本当に復活したのか -根拠なき楽観論を斬る-』(ダイヤモンド社、2006)
野口悠紀雄『戦後日本経済史』(新潮社、2008)
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