語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『ジャーナリストはなぜ疑り深いか』 ~事実が自分で歌う~

2010年10月20日 | 批評・思想
 ロジャー・サイモンは、コラムニストである。
 「シカゴ・サン・タイムズ」で独自のコラムを発表しはじめ、1985年に発表紙を「バルティモア・サン」に移した。以後、全米100紙に配信され、1,000万人以上の読者をもつに至る。
 米国新聞協会賞(1984年)をはじめ、多数の賞を受けた。
 本書は、そのロジャー・サイモンが自選したコラム集である。

 主題は幅ひろい。家庭内暴力(DV)、末期癌の少年、少女の出産と里子、ウォーターゲイト事件後のニクソン、ミス・アメリカに落選した候補者たち、誤って殺害された発達遅滞者、大量殺人事件、空港警備体制の不備、ラスベガスの防火体制の不備・・・・。
 このように、日本の随筆と異なって、書き手自身ないし身辺のことよりも同時代の社会相が主題になっている。
 当然、コラムの対象として取りあげられる者も幅ひろく、社会の各層にわたる。
 話題とする地域も、米国内だけではなく、国外におよぶ。南アフリカを訪れては対立する両者(アフリカーナとカラードを、中東ではイスラエル人とパレスチナ人)をインタビューしている。
 このように、広く取材して事実を掘り起こしているから、この点でも日本の随筆とは異なる。日本の随筆は、多くの場合、手持ちの情報をもとに私見を加えるものだ。
 問題提起も、事実を掘り起こして読者の「疑い」を引き出し、また「疑い」を深める点に重きが置かれている。
 当然、問題の解決策は概してあからさまには示されない。しかし、その分、多様な解決策を読者が議論できる余地をのこす。
 そのほうが影響力が大きい、と思う。ひとは、天から降ってくる託宣によって動くよりも、自分で考えて決めた意見にもとづいて行動するほうが確乎たる行動をとることができるからだ。

 サイモンの文章のスタイルは、事実をして語らしめる手法だ。大岡昇平ふうにいえば、「事実に歌わせる」「事実が自分で歌う」。
 主張は言葉であからさまには述べない。さまざまな事実を整理していく過程で事の本質をくっきりと浮き上がらせ、この整理の方向づけがサイモンの主張するところを示す。
 事実は、注意深く選択された言葉と文章によって簡明にされ、再構成された事実は短編小説のような強い印象を読者に残す。

 たとえば、本書のタイトルになった『ジャーナリストはなぜ疑り深いか』。
 まず冒頭で、「私も、ほかのジャーナリストに負けず劣らずの不届き者だった。人を疑いすぎる。特に政治家に対して、その傾向が強かった」と自省するかのごとき姿勢から入っていく。「ところで、これは、ジャーナリストが犯す、最大の誤ちだそうだ」
 なんだか遠慮深い。遠慮がすぎて、ダイジョウブかね、という書き出しである。
 ここで、筆は事件に移る。
 シカゴの某市会議員(あとで実名が明かされる)が郊外の住宅地で午前3時頃に駐車した。午前9時頃にさがしたときには車はもうなかった。盗難にあったのである。車の前部席の下には、現金3千ドルが、ケースにではなく、茶色のポリ袋に入っていた。
 「詮索好きで無責任な典型的リポーターだった頃の私なら、こいつはうさん臭いと思ったに違いない。(中略)だが、もう疑ったりはしない。疑惑を抱くのは、ある種の病気だと自覚しているし、マスコミは健康を取り戻さなければならないのだ」
 と、まだ謙虚な(フリをした)姿勢はくずさない。
 では、午前3時に住宅地で何をしていたのか。
 市会議員、サイモンによるインタビューに答えていわく、友人の看護婦を訪問したのだ、足をケガをしていてね、朝病院に出勤するのとき階段を降りる手助けをしてね。3千ドルは家の工事をした業者に支払うものでね。うさん臭い話だと思う人がいるのは知っている。「賄賂や、金品強要で誰も彼も起訴されているからね。しかし、私には、後ろめたい事など何もない」

 陸山会に貸し付けた土地購入代金4億円が2004~05年分の政治資金収支報告書に記載されていなくても、返済された4億円が07年分に記載されていなくても、トップに後ろめたいことは何もない。

 が、シカゴの市民は、この某市会議員の釈明にちっとも納得しなかった。釈明はつじつまが合っていない、と見た。
 つじつまの合わない釈明をすることで、かえって3千ドルが怪しい金であることを市会議員自ら暴露してしまった・・・・。

 だんだん事実が明らかなるにつれて、読者は自ずから疑いをもちはじめるに至るわけだ。隠された事実があるのではないか、と。
 書き手のサイモン自身は、最初から疑っていたのは言うまでもない。
 冒頭の「疑心をもちすぎる私は不届き者」という言葉は、身構えている読者の警戒を緩和するレトリックにすぎない。シェークスピア劇でシーザー暗殺直後、アントニウスが追悼演説で最初は暗殺者に迎合するかのようなセリフから始めたように。ただ、シェークスピア劇と異なるのは、アントニウスは演説で市民感情をひっくり返したが、サイモンはあくまで事実に即して語り、事実それ自体から読者自身に結論を導きださせるのである。

□ロジャー・サイモン(横山和子訳)『ジャーナリストはなぜ疑り深いか』(中央公論社、1988、後に中公文庫、1991)
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