大岡昇平は、1909年(明治42年)3月6日生、1988年(昭和63年)12月25日没。
埴谷雄高は、1909年(明治42年)12月19日生、1997年(平成9年)2月19日没。
二人は同時代を生きた。それぞれの生涯を回顧した対談が『二つの同時代史』である。対談は、1981年6月22日から1983年9月13日まで14回にわたって行われた。
20世紀の大部分を生きぬいた二人だから、話題は豊富だ。そして、それが自ずから時代の証言となっている。ことに作家の逸話、文壇秘話がおもしろい。
たとえば、荒正人。近代文学社発行の雑誌「近代文学」の創刊時同人の一人である。他の同人は、平野謙、本多秋五、埴谷雄高、小田切秀雄、佐々木基一、山室静だった。
埴谷雄高は荒正人を異常児と呼んでいる。
荒は、自分の気持ちにちょっとでも引っかかるところがあると、その出版社の社員に朝の3時でも4時でも電話をかけた。ある出版社の社員があまりに困ったので、埴谷が間にはいり、いっしょに荒に話に行った。荒、社員に向かっていわく、「私を日本人だと思ってはいけません。私はユダヤ人です」
埴谷はいう。「とにかく荒は生まれた瞬間から異常児なんだから」
大岡、「集英社で漱石年表をやったときでも、女社員が二人、なんかミスして、土下座であやまされたっていう話を聞いたな」
埴谷、「そうだよ。荒が喧嘩していない社はないんだよ。そして、喧嘩をすると、すぐ社長を呼べというんだ」
荒の尻ぬぐいはいっぱいあった。加藤周一や中村真一郎が荒に軽井沢コミュニストとやられて、マチネ・ポエチックの3人は全部脱退するという騒ぎになった。埴谷は荒を連れて、森有正と会った。森有正は加藤周一たちの先輩だから、その言うことを聞くだろう、というわけだ。荒には黙らせて、埴谷が森有正を説いた。「近代文学」は大同団結で、内部批判は互いにやってかまわないんだから、脱退する必要はない・・・・。
加藤周一も、エゴイストよ、門は開かれている、出て行け、などと「イン・エゴイスト」という文章を書き、荒を怒らせた。
埴谷、「本当にトラブルメーカーはいつも荒で、佐々木甚一と俺がいつもなだめ役。しかし、荒は実務派だから彼が事務局をやってなかったら、『近代文学』はあれほどつづかなかったね」
本多秋五は大人だから最後まで我慢していたが、荒が亡くなったときの彼の追悼文は「不思議な文章」であった。いかに埴谷たちが悩まされたか、ということが書いてあったのだ。追悼文に。
あるいは、石川淳。エネルギーに充ち満ちた豪放な文章の書き手だが、若いときは無頼で鳴らした。
戦後すぐ中島健蔵と野上彰が「火の会」をつくった。「近代文学」の編集室が二階にあった文化学院で、「火の会」の何回目かの集まりがあった。
当時、石川淳は酒癖がわるく、酔っぱらってみんなの酒びんを倒しまわった。中島健蔵たちはみんな、石川淳を殴った。
埴谷たちが夜の編集会議をおえて出てきたら、誰か階段に倒れている。石川淳であった。
中島健蔵が出てきて埴谷たちを説教した。「近代文学」のきみたちが石川を褒めるから、あん畜生がのさばっていけない・・・・。
石川淳は人が大勢いると目立ちたがった。芥川賞選考会でも、反対意見を出す委員に「バカヤロー」とすぐ言う。「バカヤロー」は、その頃の癖であった。言われた委員は怒り出し、選考にならない。
埴谷の家でダンスパーティが開かれたときのこと。石川淳は踊らないで、飲んでばかりいる。そのうち酔っぱらって、例の「バカヤロー」がはじまった。佐々木甚一の細君をつかまえて、「おまえは間男をする女だ」。
中薗英助がもうれつに怒って、石川淳の前に座った。
「わたしはどうですか」
石川、「おまえもバカヤローだ」
中薗英助が怒鳴った。「きさまもバカヤローだ」
石川はパッと立ち上がり、サッと玄関に出て靴を履いた。あわてて見送った安部公房、「ああ、石川さんはけんかがうまい、逃げるのが」。
埴谷からこの逸話を聞いた大岡昇平、総括していわく、「うまいね、それは。前に殴られた経験があるからだよ(笑)」。
「鉢の木会」は、戦後派の作家・評論家が歓談する集いである。1949年頃、中村光夫・吉田健一・福田恆存の3人が始め、後に大岡昇平・三島由紀夫・吉川逸治・神西清(1957年病没)が加わった。丸善が「鉢の木会」に話しを持ちこみ、大判の季刊文芸誌『聲』を刊行した。1958年から1960年まで、全10号しか続かなかったが、掲載された6編が賞を得ている。福田恆存『私の国語教室』、山本健吉『柿本人麻呂』、円地文子『なまみこ物語』、中村光夫『パリ繁昌記』、福原麟太郎『チャールズ・ラム伝』、江藤淳『小林秀雄』である。
「鉢の木会」はなぜ消滅したか。以下、ウィキペディアによれば・・・・
「一番年少の三島にとっても先輩格に当たるこれらの面々から、会の一員として迎えられたことは大きな自信になった。だがメンバーの一人吉田健一から『お前は俗物だ。あまり偉そうな顔をするな』と面罵される事件が起きた。三島は吉田から酷評された長編『鏡子の家』に続いて、有田八郎元外相をモデルにした『宴のあと』を書き、有田側からプライバシー侵害で訴えられていた。当初吉田健一は、父吉田茂元首相・外相の人脈で仲裁しようとしたが、結局三島を裏切り有田側に立つ発言を行い、二人は決別した。三島と中村はその後も共著を出す等、各個人同士での交流は在ったが、集いは自然消滅した」
しかし、大岡昇平によれば、話はだいぶ違う。
三島由紀夫が抜けたのは、文学座と福田恆存の「雲」とが分かれたからだ。「これは『雲』と杉村春子らが別れた日付ではっきりしているはず」と大岡。
また、大岡昇平が抜けたのは、福田恆存が日本文化会議を起こしたからだ。「よき思想の集まり」・・・・。大岡いわく、「おれは福田の顔を見るのがいやになっちゃったんだよ(笑)」。
要するに、二人とも福田恆存が脱会の本当の理由なのであった。
しかし、表面は吉田健一のイヒヒの笑い声ということにされた。
三島由紀夫は、新築祝いに招いた吉田健一に、なにか置物を手にとっては「おっ、これは高そうなもんでございますね、エッヘッヘッ」とか、東京会館のレストランのコックを呼んでつくらせた料理を「あっ、これはとても普段食えない」とか言われて嫌な顔をした。吉田が帰ってから、大岡昇平と中村光夫が三島を慰めた。「そのころはおれも三島と仲がよかった」
大岡、「会えば会うほど吉田の奇声には悩まされた」「モーツァルトが聞いたら発狂するだろうという調子っぱずれな声でワアワアやるんだよ」「67年に、おれは朝日の文芸時評をやってたから、あいつの小説を、あまりたいしたものじゃなかったけれど、お愛想にほめたんだよ。そうしたら次の『鉢の木会』のときに、あいつ、『大岡さん、なんか言ってましたね、イッヒッヒッ』って言いやがった。本当にしゃくにさわる(笑)。それでおれ、中村に電話して脱退したんだ」
【参考】大岡昇平/埴谷雄高『二つの同時代史』(岩波書店、1984)
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埴谷雄高は、1909年(明治42年)12月19日生、1997年(平成9年)2月19日没。
二人は同時代を生きた。それぞれの生涯を回顧した対談が『二つの同時代史』である。対談は、1981年6月22日から1983年9月13日まで14回にわたって行われた。
20世紀の大部分を生きぬいた二人だから、話題は豊富だ。そして、それが自ずから時代の証言となっている。ことに作家の逸話、文壇秘話がおもしろい。
たとえば、荒正人。近代文学社発行の雑誌「近代文学」の創刊時同人の一人である。他の同人は、平野謙、本多秋五、埴谷雄高、小田切秀雄、佐々木基一、山室静だった。
埴谷雄高は荒正人を異常児と呼んでいる。
荒は、自分の気持ちにちょっとでも引っかかるところがあると、その出版社の社員に朝の3時でも4時でも電話をかけた。ある出版社の社員があまりに困ったので、埴谷が間にはいり、いっしょに荒に話に行った。荒、社員に向かっていわく、「私を日本人だと思ってはいけません。私はユダヤ人です」
埴谷はいう。「とにかく荒は生まれた瞬間から異常児なんだから」
大岡、「集英社で漱石年表をやったときでも、女社員が二人、なんかミスして、土下座であやまされたっていう話を聞いたな」
埴谷、「そうだよ。荒が喧嘩していない社はないんだよ。そして、喧嘩をすると、すぐ社長を呼べというんだ」
荒の尻ぬぐいはいっぱいあった。加藤周一や中村真一郎が荒に軽井沢コミュニストとやられて、マチネ・ポエチックの3人は全部脱退するという騒ぎになった。埴谷は荒を連れて、森有正と会った。森有正は加藤周一たちの先輩だから、その言うことを聞くだろう、というわけだ。荒には黙らせて、埴谷が森有正を説いた。「近代文学」は大同団結で、内部批判は互いにやってかまわないんだから、脱退する必要はない・・・・。
加藤周一も、エゴイストよ、門は開かれている、出て行け、などと「イン・エゴイスト」という文章を書き、荒を怒らせた。
埴谷、「本当にトラブルメーカーはいつも荒で、佐々木甚一と俺がいつもなだめ役。しかし、荒は実務派だから彼が事務局をやってなかったら、『近代文学』はあれほどつづかなかったね」
本多秋五は大人だから最後まで我慢していたが、荒が亡くなったときの彼の追悼文は「不思議な文章」であった。いかに埴谷たちが悩まされたか、ということが書いてあったのだ。追悼文に。
あるいは、石川淳。エネルギーに充ち満ちた豪放な文章の書き手だが、若いときは無頼で鳴らした。
戦後すぐ中島健蔵と野上彰が「火の会」をつくった。「近代文学」の編集室が二階にあった文化学院で、「火の会」の何回目かの集まりがあった。
当時、石川淳は酒癖がわるく、酔っぱらってみんなの酒びんを倒しまわった。中島健蔵たちはみんな、石川淳を殴った。
埴谷たちが夜の編集会議をおえて出てきたら、誰か階段に倒れている。石川淳であった。
中島健蔵が出てきて埴谷たちを説教した。「近代文学」のきみたちが石川を褒めるから、あん畜生がのさばっていけない・・・・。
石川淳は人が大勢いると目立ちたがった。芥川賞選考会でも、反対意見を出す委員に「バカヤロー」とすぐ言う。「バカヤロー」は、その頃の癖であった。言われた委員は怒り出し、選考にならない。
埴谷の家でダンスパーティが開かれたときのこと。石川淳は踊らないで、飲んでばかりいる。そのうち酔っぱらって、例の「バカヤロー」がはじまった。佐々木甚一の細君をつかまえて、「おまえは間男をする女だ」。
中薗英助がもうれつに怒って、石川淳の前に座った。
「わたしはどうですか」
石川、「おまえもバカヤローだ」
中薗英助が怒鳴った。「きさまもバカヤローだ」
石川はパッと立ち上がり、サッと玄関に出て靴を履いた。あわてて見送った安部公房、「ああ、石川さんはけんかがうまい、逃げるのが」。
埴谷からこの逸話を聞いた大岡昇平、総括していわく、「うまいね、それは。前に殴られた経験があるからだよ(笑)」。
「鉢の木会」は、戦後派の作家・評論家が歓談する集いである。1949年頃、中村光夫・吉田健一・福田恆存の3人が始め、後に大岡昇平・三島由紀夫・吉川逸治・神西清(1957年病没)が加わった。丸善が「鉢の木会」に話しを持ちこみ、大判の季刊文芸誌『聲』を刊行した。1958年から1960年まで、全10号しか続かなかったが、掲載された6編が賞を得ている。福田恆存『私の国語教室』、山本健吉『柿本人麻呂』、円地文子『なまみこ物語』、中村光夫『パリ繁昌記』、福原麟太郎『チャールズ・ラム伝』、江藤淳『小林秀雄』である。
「鉢の木会」はなぜ消滅したか。以下、ウィキペディアによれば・・・・
「一番年少の三島にとっても先輩格に当たるこれらの面々から、会の一員として迎えられたことは大きな自信になった。だがメンバーの一人吉田健一から『お前は俗物だ。あまり偉そうな顔をするな』と面罵される事件が起きた。三島は吉田から酷評された長編『鏡子の家』に続いて、有田八郎元外相をモデルにした『宴のあと』を書き、有田側からプライバシー侵害で訴えられていた。当初吉田健一は、父吉田茂元首相・外相の人脈で仲裁しようとしたが、結局三島を裏切り有田側に立つ発言を行い、二人は決別した。三島と中村はその後も共著を出す等、各個人同士での交流は在ったが、集いは自然消滅した」
しかし、大岡昇平によれば、話はだいぶ違う。
三島由紀夫が抜けたのは、文学座と福田恆存の「雲」とが分かれたからだ。「これは『雲』と杉村春子らが別れた日付ではっきりしているはず」と大岡。
また、大岡昇平が抜けたのは、福田恆存が日本文化会議を起こしたからだ。「よき思想の集まり」・・・・。大岡いわく、「おれは福田の顔を見るのがいやになっちゃったんだよ(笑)」。
要するに、二人とも福田恆存が脱会の本当の理由なのであった。
しかし、表面は吉田健一のイヒヒの笑い声ということにされた。
三島由紀夫は、新築祝いに招いた吉田健一に、なにか置物を手にとっては「おっ、これは高そうなもんでございますね、エッヘッヘッ」とか、東京会館のレストランのコックを呼んでつくらせた料理を「あっ、これはとても普段食えない」とか言われて嫌な顔をした。吉田が帰ってから、大岡昇平と中村光夫が三島を慰めた。「そのころはおれも三島と仲がよかった」
大岡、「会えば会うほど吉田の奇声には悩まされた」「モーツァルトが聞いたら発狂するだろうという調子っぱずれな声でワアワアやるんだよ」「67年に、おれは朝日の文芸時評をやってたから、あいつの小説を、あまりたいしたものじゃなかったけれど、お愛想にほめたんだよ。そうしたら次の『鉢の木会』のときに、あいつ、『大岡さん、なんか言ってましたね、イッヒッヒッ』って言いやがった。本当にしゃくにさわる(笑)。それでおれ、中村に電話して脱退したんだ」
【参考】大岡昇平/埴谷雄高『二つの同時代史』(岩波書店、1984)
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