日本で自然エネルギー発電が進まなかった原因は、
(a)最大の原因は、電力会社の独占体制だ。電力会社は、その独占体制が見直されないよう、政治や国民の考え方の汚染を進めてきた。
(b)経産省も、大規模集中型の電力で日本のエネルギーを賄っていくという方針に立つ。
(c)その周りを御用学者が取り巻いている。日本の御用学者はろくに勉強していないから、本当の意味での知性ではなく、電力会社や国に対してタイコ持ちをするための、あざとい知性しか持っていない。
(d)しかも、それを伝えるメディアも、電力会社の潤沢な広告費によって汚染されている。電力会社は、メディアを通して、「原発は安全・安心・クリーン」だと、国民をどんよりした不透明な空気で覆ってきた。
今回の原発事故で、原子力安全委員会や原子力安全・保安院の中に、原発の安全性を真剣に考えていた専門家がいなかったことが証明された。
彼らの中に、原発の安全性を科学的・合理的に評価する人がある程度存在していたら、状況は違っていたはずだ。原子力の推進や将来についてきちんと考えていたのなら、一度深刻な事故が起きれば日本の原子力立国路線は致命的な打撃をうける、というところまで想像が及ぶはずだ。ところが、その思考力すら失われていた。研究者の独立した意志に基づいて、安全性を第一として必要な検証・措置をする、その行動すら抑えつける重苦しい空気というものがあるのだ。
こうした機関の外部でも、日本には「政策知の進化」が起きなかった。
北欧諸国では、政策知の進化と積み重ねがしっかりある。
スウェーデンでは、スリーマイル島の原発事故(1979年)を契機として、当時の与党、社会民主党が長らく拒否していた原発国民投票にゴーサインが出て、1980年、ついに国民投票が行われた。この国民投票には、結果よりプロセスにかなり意味があった。当時の18歳以上の成人が、1年間にわたて原子力とエネルギーと環境、また自分たちの社会の未来について徹底的に考え抜いて1票を投じた。選択肢として、イエスかノーではなくて、全面的推進・部分的推進・撤退の3つがあった。投票の結果は、全面的推進が20%以下、その他2つがほぼ同数だった。全面的・部分的推進をとれば原発推進がマジョリティで、部分的推進・撤退をとれば消極派がマジョリティになるという、非常に議論の余地のある結果になった。ただ、そのプロセスがスウェーデン国民のある種のカタルシスとなり、彼らはその結果を受け入れた。
当時、スウェーデンでは6基の原発が動いていて、6基が建設中だった。当座はその6基を建設するが、2010年までにはすべてを廃止する、という矛盾の塊のような結論になった。そうした矛盾を含めて、スウェーデンの政治文化は、ある種ステージアップした。
スウェーデンのエネルギー政策においては、1970年代は原発推進か反対かの二項対立だった。二項対立は、ディベートで論破すればよい、勝つか負けるかの政治文化だ。そうした政治モードから、マルチステークスホルダーが協力して問題を解決していこう、という実務的な政治文化へと変化していった。原子力の安全性を高めるのも、核廃棄物の扱いについても、自然エネルギーを生み出すにしても、ディベートして相手の穴を見つけたところで結論は出ない。具体的にどう改善していくのか、という知恵に結びつけていくための政治に変わった。政治面でのエコロジー的近代化だ。
原発反対のデモ行進が、そういう知の進化を生んでいった。
それがベースとなって、スウェーデンでは1980年代から、地方自治体ベースで、熱利用でバイオマスを膨らませる取り組みが始まった。
デンマークでは、風力発電協同組合という形で、風力発電を普及させる最初の試みが始まった。
それが、1990年代のドイツのフィードインタリフ(エネルギーの固定価格買い取り制度)や電力自由化、環境税という政策に繋がっていった。
国際社会では、これまでトップダウン的体制のもとで進められていた環境政策が次々に改められているのに、日本は、とにかく見直しを求める議論を徹頭徹尾、異論として退けてきた。そして、排除する側は、中身がからっぽだから、何も生み出さない。壮大なる空洞と、外側から異論を入れさせない鉄壁の守りという構造が、ずっと続いてきた。
以上、インタビュイー:飯田哲也(NPO法人環境エネルギー政策研究所長)/インタビュアー:川辺美希「原子力発電というのは、国際社会ではもう終わっているものなんですね」(『私たちは原発を止めるには日本を変えなければならないと思っています。』、ロッキング・オン、2011)に拠る。ます」(『私たちは原発を止めるには日本を変えなければならないと思っています。』、ロッキング・オン、2011)に拠る。
↓クリック、プリーズ。↓
(a)最大の原因は、電力会社の独占体制だ。電力会社は、その独占体制が見直されないよう、政治や国民の考え方の汚染を進めてきた。
(b)経産省も、大規模集中型の電力で日本のエネルギーを賄っていくという方針に立つ。
(c)その周りを御用学者が取り巻いている。日本の御用学者はろくに勉強していないから、本当の意味での知性ではなく、電力会社や国に対してタイコ持ちをするための、あざとい知性しか持っていない。
(d)しかも、それを伝えるメディアも、電力会社の潤沢な広告費によって汚染されている。電力会社は、メディアを通して、「原発は安全・安心・クリーン」だと、国民をどんよりした不透明な空気で覆ってきた。
今回の原発事故で、原子力安全委員会や原子力安全・保安院の中に、原発の安全性を真剣に考えていた専門家がいなかったことが証明された。
彼らの中に、原発の安全性を科学的・合理的に評価する人がある程度存在していたら、状況は違っていたはずだ。原子力の推進や将来についてきちんと考えていたのなら、一度深刻な事故が起きれば日本の原子力立国路線は致命的な打撃をうける、というところまで想像が及ぶはずだ。ところが、その思考力すら失われていた。研究者の独立した意志に基づいて、安全性を第一として必要な検証・措置をする、その行動すら抑えつける重苦しい空気というものがあるのだ。
こうした機関の外部でも、日本には「政策知の進化」が起きなかった。
北欧諸国では、政策知の進化と積み重ねがしっかりある。
スウェーデンでは、スリーマイル島の原発事故(1979年)を契機として、当時の与党、社会民主党が長らく拒否していた原発国民投票にゴーサインが出て、1980年、ついに国民投票が行われた。この国民投票には、結果よりプロセスにかなり意味があった。当時の18歳以上の成人が、1年間にわたて原子力とエネルギーと環境、また自分たちの社会の未来について徹底的に考え抜いて1票を投じた。選択肢として、イエスかノーではなくて、全面的推進・部分的推進・撤退の3つがあった。投票の結果は、全面的推進が20%以下、その他2つがほぼ同数だった。全面的・部分的推進をとれば原発推進がマジョリティで、部分的推進・撤退をとれば消極派がマジョリティになるという、非常に議論の余地のある結果になった。ただ、そのプロセスがスウェーデン国民のある種のカタルシスとなり、彼らはその結果を受け入れた。
当時、スウェーデンでは6基の原発が動いていて、6基が建設中だった。当座はその6基を建設するが、2010年までにはすべてを廃止する、という矛盾の塊のような結論になった。そうした矛盾を含めて、スウェーデンの政治文化は、ある種ステージアップした。
スウェーデンのエネルギー政策においては、1970年代は原発推進か反対かの二項対立だった。二項対立は、ディベートで論破すればよい、勝つか負けるかの政治文化だ。そうした政治モードから、マルチステークスホルダーが協力して問題を解決していこう、という実務的な政治文化へと変化していった。原子力の安全性を高めるのも、核廃棄物の扱いについても、自然エネルギーを生み出すにしても、ディベートして相手の穴を見つけたところで結論は出ない。具体的にどう改善していくのか、という知恵に結びつけていくための政治に変わった。政治面でのエコロジー的近代化だ。
原発反対のデモ行進が、そういう知の進化を生んでいった。
それがベースとなって、スウェーデンでは1980年代から、地方自治体ベースで、熱利用でバイオマスを膨らませる取り組みが始まった。
デンマークでは、風力発電協同組合という形で、風力発電を普及させる最初の試みが始まった。
それが、1990年代のドイツのフィードインタリフ(エネルギーの固定価格買い取り制度)や電力自由化、環境税という政策に繋がっていった。
国際社会では、これまでトップダウン的体制のもとで進められていた環境政策が次々に改められているのに、日本は、とにかく見直しを求める議論を徹頭徹尾、異論として退けてきた。そして、排除する側は、中身がからっぽだから、何も生み出さない。壮大なる空洞と、外側から異論を入れさせない鉄壁の守りという構造が、ずっと続いてきた。
以上、インタビュイー:飯田哲也(NPO法人環境エネルギー政策研究所長)/インタビュアー:川辺美希「原子力発電というのは、国際社会ではもう終わっているものなんですね」(『私たちは原発を止めるには日本を変えなければならないと思っています。』、ロッキング・オン、2011)に拠る。ます」(『私たちは原発を止めるには日本を変えなければならないと思っています。』、ロッキング・オン、2011)に拠る。
↓クリック、プリーズ。↓