東京神田の御茶ノ水に、聖橋という橋がある。
大正12年の関東大震災後、復興事業の一つとして架けられた橋で、震災によって壊れた橋の復旧ではなく、新たに作られた橋である。
その名の由来は、神田川を挟んで建てられているニコライ聖堂と湯島聖堂という、東西両洋の聖堂を結んでいることによるという。
設計者は山田守。
東京帝国大学建築学科を卒業した、橋の完成時27歳の、若き建築家である。
水面にかかった虹のように、きれいなアーチを描くコンクリート橋は、震災復興のシンボルともなった。
それから山田は多くの建築物を設計し、建築家としての地位を確固たるものにしていく。
1966年に亡くなった山田は、しかし、最晩年の1964年、大問題作を世に出すことになる。
それは、その土地の景観を乱すものとして、大きな批判を浴びた。
来年竣工から50年の節目を迎えるその建物は、今も現存している。
この、京都に。
その名を京都タワーという。
今ではすっかり京都駅周辺の景色になじみ、何なら、東寺の五重塔を押しのけて、京都の玄関口のシンボルぐらいの扱いになっている。
一体、竣工当初の批判は何だったのだろうか、とも思う。
いやしかし、嘆くことなかれ、そんなことは、この京都では何度となく繰り返されてきたことなのだ。
今の京都駅だって、あの仰々しいような威容が、設計当初から批判されていた。
しかし今では、誰もそれを悪しということもない。
某ホテルが建った時だって、ずいぶんと批判されたものだが、今では国内外のVIP御用達となっている。
かつて今の平安神宮辺りにあった法勝寺という寺には、八角九重塔があったという。
八十メートルもの高さを誇る塔を見て、庶民は何を思ったか。
バベルの塔よろしく、神に近づこうという愚かな所業、いずれバチがあたるに違いないないと、虞を抱いた者もあったに違いない。
かようにして、新しいものが圧倒的な批判にさらされるのが、京都である。
そして、出来てしまえば案外馴染むのが早いのも、京都であったりする。
慣れてしまえば大丈夫。
だから、良くも悪くも、町には古今東西の様式を問わない風景が同居している。
京都の町歩きでは、それを楽しむのも良いものだ。
さて、その山田守が、京都タワーの少し前に設計した建物が、東京にある。
上から見ると八角形である法隆寺の夢殿をイメージしたというその建物こそ、日本武道館である。
京都タワーと日本武道館って、同じ人が設計したんだな。
”あいらんど”