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今を生きるアイヌのリアルな一面を描く映画『アイヌモシㇼ』 監督が明かす誕生秘話(2/2)

2021-02-07 | アイヌ民族関連
ヤフーニュース 2/6(土) 11:28

(写真提供/(C)AINU MOSIR LLC/Booster Project)
 アイヌがアイヌ役で主要キャストを務める史上初の映画『アイヌモシㇼ』。舞台は阿寒湖にほど近いアイヌの集落、アイヌコタン。そこで実際に生活するアイヌ住民による全面協力。それを可能にしたのは、脚本も手がけた北海道出身の福永壮志監督の熱意によるものだった。
 先住民族アイヌの誇り、伝統文化、今を生きるアイヌのリアルな一面を描く作品は、トライベッカ映画祭で審査員特別賞を受賞するなど、高い評価を受けている。劇中では、アイヌにとって最も重要な伝統儀式の一つ、イオマンテを取り上げ、カムイ(神)への感謝を忘れず、歌や踊りでまつる饗宴のシーンも。今回、アイヌコタンにて、出演者、住民の方々に周辺取材をさせていただいた上で、福永監督の思いを聞いた。前半(1/2)の続き。
―― 今回の映画制作以前にもアイヌの勉強をずっとされていて、どういう勉強の仕方をされたんですか。
福永 まず最初は、記事を読んだり本を読んだりして。だけどそういうのは限られていて。例えば書いた人が和人(わじん、日本人)でその人の特別の見方があったのかもしれないし、今現実に生きている皆さんから直接会って話を聞いて学びたいと思ったので。映画を作りたいと考えているんですけどとは言いながらも、別に何かを聞き出そうという目的を持ってというよりは、まずは話を聞かせてくださいと。それで学ばせてくださいというので、いろんな人に会うところから始めました。
―― じゃあ勉強し過ぎて、頭でっかちで行ったわけじゃないんですね。
福永 そうじゃないですね。僕は学者でもないですし、人として皆さんのことを学びたいということで、もちろん歴史とか最低限必要な知識はあると思いますけれども、人を知りいと思って行っているんで。
海外で生活していたからこそ日本を俯瞰で見られた
―― 福永監督自身がアイヌの方で、アイヌとしてのアイデンティティで映画を撮っているのではと誤解されませんか。福永監督はアイヌの方ではないけれども、だからこそ、客観性を保たれているのかなと。
福永 それはやっぱりそうですね。自分は和人という立場で、アイヌの映画を皆さんと一緒に撮るんだというのはすごく大事なことだと思っていたんですね。だから、いろんな描き方に気を付けることができたという。
アイヌがアイヌ役を自然に演じられることを大事にした福永監督(撮影/Masato Moriyama(TRIVAL))
―― どういうことに気を付けました?
福永 いろいろありますけれども、まずはアイヌの皆さんに実際出演してもらうというのがその一つだし。例えばイメージで脚本を書いて、想像の人物を和人の俳優に演じてもらっていたら、絶対に現実から離れた先入観が映画に出ちゃうわけですよね。それはやってはいけないと思ったし、作る意味がない。それをやらないために、いろんな方法で現実に寄り添ったというか。
―― しかも当時はニューヨークに在住されているということもあって、俯瞰(ふかん)で離れた地点で見られていたじゃないですか。
福永 そうですね。確かにアイヌのことに関心が起きたり、アイヌの映画を撮りたいと思ったのは、やっぱり日本を出て外から日本を見返したからだとは思います。
―― 最初にミネソタ州でネイティブアメリカンの方と関わられて、先住民のスピリットは、似通うものはありますか。
福永 共通しているところは、自然の中に神様を見出したりであるとか、いろいろとありますが、とはいえ別の民族ですし。
スタッフが少人数、アメリカ人のカメラマンにしたわけは
―― 今回、撮影はスタッフが15人くらいだったと聞きました。
福永 はい。すごく少ない人数で行きました。
―― それは人数を絞ったというか、大人数で来ることによって大ごとになったら、自然な演技ができないということですか。
福永 それもあります。
―― そこに気を使われたのかなと思いました。それが功を奏していて、すごく少ない人数で来ているから、助けようという気持ちになったと皆さん言うんですよ。
福永 やっぱり人選も、技術、才能があるだけじゃなくて、人柄でも選んでいるというか。例えば、威圧的な人がいたりすると、ピリピリしちゃって、自然な演技の環境がどんどんなくなっていく。そういうことも意識しました。
―― ですよね。そうかなと思って。で、カメラマンの方がアメリカ人だったとお聞きしたんですけれども、それは何か意図があるんですか。
福永 それもちゃんとあって。彼自身はとても才能があって、すごく被写体の人間味あふれる映像を撮るということに定評があるというか、僕はそういうカメラマンだと見ていて。そこが一番描きたいことの大事なところだったので。あとはアメリカ人ということで、彼はこの映画に関わるまではアイヌという存在自体を知らなかった。先入観がなかったんです。
―― 日本語も通じないんですか。
福永 はい。なので、偏見や先入観が全く無くて、そういう人に撮影監督はお願いしたかった。それが日本人の方で、本人が意識していなくてもそういうのが少しでもあると、遠慮につながったりするので。カメラを回していないときの距離感も結局は映像に絶対に出るから、自然な彼らのそのままの人となりを映像に落とし込むといったところから、離れていっちゃうわけですね。
春夏秋冬のそれぞれの景色が魅力的なアイヌコタン(撮影/佐藤智子)
―― なるほど。わかります。どれくらいの撮影期間だったんですか。
福永 計30日くらいですかね。夏、秋、冬と撮っているんですけれども。
―― じゃあ、結構コミュニケーションも取れて。皆さんと仲良くなったという感じですか。
福永 関係性は撮り続けるうちに出てきますし。
いくら大事なメッセージを掲げても映画として面白くなかったら
―― この映画を企画されて、実際にオファーに行って、承諾してもらって、協力してもらって、出来上がったというところでもすごいのに、評価をされてどうですか。世の中に浸透していく感じというのは。福永監督としては、今、世の中に必要なテーマだと考えられて。
福永 そうですね。もっと言えば、本当はもっと早く作られているべきだったと思うんですけれども、それが無かったので、自分が頑張って作りました。
―― すごい。
福永 作品として評価されるのはやっぱり単純にうれしいし、協力してもらった出演者の皆さんに喜んでもらえるのは、すごく大事なことで。たとえ映画祭で賞を貰えても、皆さんが出てよかったと思えなかったら、わだかまりが自分の中で残ってしまったと思うんで。一方で、いくら大事なメッセージや大義名分を掲げていても、映画として面白くなかったら、そのメッセージは伝わらないと思うんですよ。作品としてちゃんと成り立っているのが前提で、それがあるからその奥にあるメッセージが通じるんだと思うんです。
―― 出演者の方々も最初は違和感があったけれど、完成した映画を見てすごく感動した、客観的に涙が出たとおっしゃっていたんですが、それを聞いてどう思われましたか。
福永 本当にうれしかったです。編集が終わった段階の2019年阿寒にまず最初に行って、皆さんに試写を見てもらって。世に出るものだから、ここはカットしてほしいというのがあったら聞き入れなきゃいけないことなので、最終OKを貰いに行きました。自分もドキドキしながら、アイヌコタンの生活館の大部屋での試写だったんですよね。皆さんがいつもいる環境で、しかも普段の顔見知りと一緒に見ると、どうしても映画として見るのが難しかったと思うんです。それが1年たって、映画館で観客の皆さんと見ることで、やっと映画として見ることができたと思うんですよ。
―― 2019年のときは、ちょっとこれはカットしてほしいというのはなかったんですか。
福永 なかったですね。
―― その辺がすごいですね、手放し方がね。違和感があったとしても、もうちょっとこうしてほしいじゃなくて、福永監督の作品として、任せますよということだったんでしょうね。
福永 そうかと思います。ですし、もちろん内容は事前に知っているし、自分の話したことも自然の形で出しているから恥ずかしいか恥ずかしくないかの違いみたいなもので、たぶんウソではないから。
監督として作品を作ったけれど、もらったもののほうがすごく大きいと思う
―― どれだけ関わっていたかというのを感じますし、信頼されているんだなと。
福永 最初に見てもらったときは映画との距離が近過ぎたんだと思います。それはそうですよね(笑)。
―― この映画は、アイヌの方とファミリーみたいな感じで作ったということですか。
福永 ファミリーとは簡単に僕は言わないですけれども、関係性も出来たし、僕はこれからもお付き合いしていきたいと思っています。けれども、知った気になってはいけないなと。そう思うと、いろんなおごりが出てしまうと思うし、そうではなく常に学び続ける姿勢でいたいと思います。
―― たぶんそういう謙虚さがアイヌの方たちの信頼を得たと思うんです。いろんな方がアイヌコタンに来て、ものすごく調べてきて、力説される人もいるというんですね。でも、やっぱり福永監督の謙虚さが心に染みたんじゃないでしょうか。たくさんのオファーがある中で選ばれたというか、認められたということに関しては、どうですか。
福永 それはもちろんすごくうれしいですし、何というか、幸運だなと思います。
―― 責任も感じますよね。
福永 そうですね。いろいろと受け入れてもらったのはうれしいし、自分も誠意を尽くして、向き合って接しましたけれども、いろんなタイミングが重なってできたことだと思うので本当に一歩間違えれば完成しなかったという局面はいろいろとあったので、それは本当に、感謝の気持ちが強いですね。僕がやりたいと言い出して、みんなを集めて映画を作って、監督として作ってはいるんですけれども、その一方で、もらったもののほうがすごく大きいと思っていて。だから、自分の作品だという感覚は、正直あまりないです。
アイヌコタンの周りには美しい景色が広がる(撮影/佐藤智子)
―― 今回俳優じゃない方たちがほとんど出演されているにもかかわらず、すごく説得力、存在感があるんですけれども、それは福永監督から見て、監督として新たな発見というか、へえーと思うことはありました? 映画作りということで、任せるというか、元々、福永監督のスタイルなのかもしれないですけれども。
福永 実は次に撮ろうとしているものはもっとフィクションに振り切ったものなんです。俳優さんじゃない人たちと一緒に作ることで出るリアリティはあるんですけれども、自然、自然といっても、もちろんカメラがあっての自然だし、カメラが無い現実とは違うわけですよね。なので、そこから浮かび上がる真実、そういう核心にどうやって近づくかが大事。それが俳優さんが演技をしていようが俳優さんじゃない人がしていようが、どれだけ説得力、真実味があるかだと思うんですよ。
排他的な社会をもっと多様性に寛容な社会に
―― この映画を見た方から、どういう感想をもらいますか。
福永 アイヌの話というより普遍的な人間の話として見てくれるのが一番うれしくて、自分もそういうつもりで描いたし。もちろんアイヌというのは題材の中で大きいんですけれども、人を描く、描きたいと思ってやっているし、そういうふうに感じ取ってもらえたら、共感を持って映画を見ることができると思うんですね。共感を持って見ることができるということは、相手の立場になって考えるということで、思いやりの気持ちにもつながると思うんですよ。そういうことが、アイヌという対象だけじゃなくて、排他的な社会をもっと多様性に寛容な社会へと歩みを進めるきっかけになると思うんですよね。
―― 実際にそういう流れになっていますね。個性が認められるというか。
福永 多様性、多様性とたくさん言われてはいますけれども、本当の意味で、お互いがお互いを尊重して理解を示そうとしているかというと、そうじゃないと思うんですよ。それこそコロナで明るみに出ましたけれども、どうしてもいろんな社会的なプレッシャーだったり、村社会的なメンタリティだったりで、排他的な日本人の気質というのが今回すごく出たじゃないですか。だからこそ思いやりを促す映画の価値は大きいと思います。
公開から2ヶ月で1万5千人を動員した(写真提供/(C)AINU MOSIR LLC/Booster Project)
―― 今回、2020年10月17日の公開というのは、決まっていたことなんですか。それとも、延期してそうなったんですか。
福永 春ぐらいの公開が延期で、もう2~3回延期になって、やっとです。
―― まさか世の中がこんなことになると思ってないじゃないですか。でも逆に、こういう世の中になったからこその公開、これは偶然ではない気がしますが。
福永 アイヌを題材に扱ったけれども、共感を持って見てもらえたからこうやって広がっていると思うんですけれども。それというのは、コロナ禍で排他的な気質が出た社会にとってもきっといい影響はあったのかな、あってほしいと願って。
アイヌを美化しすぎないで、できるだけ意識して現実を入れた
―― アイヌのことをなんにも知らないけど、例えばアイヌの文様を見て、好きという方もいっぱいいて。
福永 はいはい。
―― 例えば、映画の中でも儀式で祝詞が言えなくてメモを読みながらやるとか、「アイヌの人って日本語上手ですね」と観光客に言われるシーンとか。ああいうのは、すごいリアルな感じがして。現実的な話としてサラリと映画に入っていて。だから、逆に考えさせられるものがあったと思います。
福永 そうですね。過剰に説明したりしないで、だけど現実をできるだけいろんな形で映画の中に入れるというのは、すごく意識したところで。どうしてもアイヌを題材に今まで作られたものには、すごくアイヌを美化しているものとか、たくさんあって。それをやってはいけないなと思っていて。だから、例えば今おっしゃったその祝詞のシーンで台本を読んでいる部分とかは、普通の現代人としての姿をちゃんと見せて、美化させ過ぎないでバランスをとるために大事でした。
―― 青年だったのを少年に変えたというのも、よかったですね。
福永 いやあ、本当によかったです。振り返るとやっぱり幹人くんとその友達が主軸にいるおかげで、それがすごく思春期の少年同士の話になって、誰しも共感できるものにさらになったと思う。
―― 母親と思春期の息子の関係性も。中学生ぐらいだと、これからどういう進路を選ぶのか、というのはどこの家庭にもあると思うし。
アイヌの映画を撮る夢が実現して、自分が変わったこと
―― トライベッカの映画賞を取られたときに、どういうところが評価されたと言われましたか。
福永 先住民の話とか、そのコミュニティで生きる人たちの葛藤だったりとか、そういうことに対する何か問題意識とかはいろんな国でそれぞれあるし。さらに、思春期の成長の話、アイデンティティを見つめ直す少年の話ということで、言葉を超えて共感を持って見てもらえたのかなと思います。あとは何よりも、出演者の皆さんが素晴らしかった。
思春期の少年の葛藤も描かれている(写真提供/(C)AINU MOSIR LLC/Booster Project)
―― 最後に、随分前からアイヌがテーマの映画を撮りたいと思われて、実際に撮られて映画として完成して、何か福永監督の中で変わったことというのはありますか。本当にアイヌの方と接して作って、自分が変わったことはありますか。
福永 まずはアイヌのことで言うと、やっぱり自分も意識はしていなかったけれども、いろんな先入観だったり勘違いしていたことがあったんだなというのは、いろいろと気付かされました。アイヌだアイヌじゃないとか、和人とかということじゃなくて、何と言いますか、思い返すとつい目頭が熱くなるものもあるんですけれども、やっぱり人として成長させてもらったなと思っています。それは、出演者の皆さんが人として魅力的で、そこから学ぶべきところがたくさんあって。この後の映画作りということだけじゃなくて、自分の人生においてすごく特別な経験だったと思っています。
主人公の幹人くんの新人賞ノミネートは自分の賞よりうれしい
―― 幹人くんが毎日映画コンクールで新人賞にノミネートされましたね。何かメッセージはありますか。
福永 幹人くんは、高校に通っていてバンドをやっていて、彼の一番の情熱は音楽で。ただ、演技も機会があれば、また挑戦してみたいという気持ちなので、友達として、おじさんですけれども、応援できることはずっとしていきたいと思うし、映画を作って終わりじゃなくてね。見てくれた人に、すごく幹人くんがいいと言ってもらったり、新人賞のノミネートという記録に残ったというのは、僕にとっても本当にうれしいことで。評価や賞が全てじゃないし、ゴールでもないんですけれども、それがあることで広がる可能性というのはたくさんありますから。
―― そうですね。
映画の役と同様に実際の幹人くんも音楽活動に夢中(写真提供/(C)AINU MOSIR LLC/Booster Project)
福永 彼がこの後、ミュージシャンになろうが俳優になろうが、そういう表現活動をやっていく中で、絶対にいろんな可能性が、これをきっかけに広がると思うんですよ。はっきり言って自分の賞よりうれしいですね。
次の世代に繋ぐメッセージとしても
―― 主人公を青年から少年に変えたことで、次の世代に受け継ぐメッセージにもなったじゃないですか。伝統的なことだけじゃなくて、今のアイヌの若い人はどう考えているのかというのが。アイヌの年配の方とお話をすると、もう先があまり長くないから今なら語れる、みたいな話になったんですけれども、若い世代が出るというのも意味があるなと思いました。
福永 映画の中での幹人は、自分のルーツとか父親の死だったりとかに向き合いますけれども、別にこうじゃなきゃいけないというのはなくて。向き合った上でどんな歩みを進めるかはその人次第だし、頭ごなしに何かを言うのではなくて、もうちょっとやわらかく、一人一人が違った受け取り方ができるような映画にしたというか、終わり方も含め、そこから自分のことに置き換えて何かを受け取ってもらえたらうれしいなと思います。
―― 素晴らしいです。今日お話を聞いて、福永監督だったからこの映画が出来たんだなと改めて思いました。やっぱり福永監督じゃなかったら、心を動かせていないから。
福永 ありがとうございます。
―― すごく魅力があるんだと思います。純粋さとか。だからなんだなと分かりました。
福永 どうやって説得したのかというのは、確かに何回か聞かれたんですけれども、あまりこれという答えが毎回出なかったんですよね。
―― オファーといってもぐいぐい来ないし、かと言ってすぐ諦めるでもない。3ヶ月に1回ぐらい何だかんだで来ちゃうんだよなというのが、放っておけない感じだったりとか、一緒に何か協力したいというふうに思ったと皆さん言われていました。
福永 ぐいぐい行かないけど、諦めないというのは確かにそうかもしれませんね。ありがたいです。
https://news.yahoo.co.jp/byline/satoutomoko/20210206-00221282/

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今を生きるアイヌのリアルな一面を描く映画『アイヌモシㇼ』 監督が明かす誕生秘話(1/2)

2021-02-07 | アイヌ民族関連
ヤフーニュース 2/6(土) 11:26

 アイヌがアイヌ役で主要キャストを務める史上初の映画『アイヌモシㇼ』。舞台は阿寒湖にほど近いアイヌの集落、アイヌコタン。そこで実際に生活するアイヌ住民による全面協力。それを可能にしたのは、脚本も手がけた北海道出身の福永壮志監督の熱意によるものだった。
 先住民族アイヌの誇り、伝統文化、今を生きるアイヌのリアルな一面を描く作品は、トライベッカ映画祭で審査員特別賞を受賞するなど、高い評価を受けている。劇中では、アイヌにとって最も重要な伝統儀式の一つ、イオマンテを取り上げ、カムイ(神)への感謝を忘れず、歌や踊りでまつる饗宴のシーンも。今回、アイヌコタンにて、出演者、住民の方々に周辺取材をさせていただいた上で、福永監督の思いを聞いた。
これはドキュメンタリーではなくて、フィクション
―― 2020年10月17日の公開から2ヶ月で、1万5,000人の動員数と50館の公開拡大と聞きましたが、すごいですね。

福永 素直にとてもうれしいです。アイヌという題材で、俳優さんじゃない人たちと作っている映画なんで、どうしても宣伝が難しいんですけれども、多くの人に見てもらっているというのは、出演者をはじめ協力してくれた皆さんのおかげで、それがきっと人の心に届いているのかな、と受け止めています。

―― アイヌの方が全面協力して、しかも主要キャストで出るという映画は、史上初だと聞いたんですが。

福永 他にもアイヌの方が出演されている映画はありますが、今回のようにアイヌが題材で、主演を含め、出演者のほとんどが実際のアイヌの方々というフィクションの映画は今までなかったと思います。

―― それがすごいなあと。ドキュメンタリー映画かと思うくらいリアルなので。

福永 いや、この映画は脚本があるフィクションです。出演者の方ほとんどに本人役で出演してもらっていてドキュメンタリー要素が強いアプローチをとってはいますけれども。

ネイティブアメリカンに出会って、ハッとして
―― なぜアイヌをテーマに映画を撮ろうと思われたんですか。

福永 自分は北海道の伊達市で育ったんですが、高校卒業までちゃんとしたアイヌの教育は学校の中でされていなかったし、アイヌのことを知れる機会を持てなかったんですよね。高校を卒業して間もなくアメリカに行って、2019年の夏に帰国するまで住んでいたんですけれども。

―― ニューヨークにおられたんですよね。

福永 最初はミネソタ州に2年いて、その後にニューヨークに行きました。ミネソタ州はネイティブアメリカンが多く、彼らの文化に興味を持ち出しました。ヨーロッパからの移民が先住民の土地を奪ってアメリカという国が成り立っている歴史的な事実を再認識したりするうちに、初めてやっと自分の生まれ育った北海道にも先住民族のアイヌがいて、そのことを何も知らないで自分はきてしまったということで、ハッとして。まずアイヌのことをもっと知りたいと思ったし、知るべきだと思ったんです。

―― 北海道に生まれ育ったということで。

福永 はい。差別、偏見というのは、僕が育った中では感じなかったですけれども、やっぱり過去にそういう歴史があるから、アイヌのルーツを隠す人も中にはいるし、健全な議論もなかなかされないし。アメリカに行ってからやっとアイヌのことに意識を向けるようになって、映画制作を勉強する中で、いつかアイヌの映画が撮れたらなという思いがあったんです。

土産店、飲食店などが集まるアイヌコタン(撮影/佐藤智子)
―― それは何年前ぐらいですか。

福永 ぼんやり思い出したのは、大学を卒業して数年してからだと思います。

―― 福永監督は今、お幾つなんですか。

福永 38歳です。

―― では、10年くらい前からということですよね。

福永 そうですね。具体的に動き出せたのは5年前。フィールドリサーチで博物館へ行き出したのは、2010年代に入ってからのことです。北海道に帰るタイミングで行っていました。自分の1本目の映画の仕上げに入っているときに、次はアイヌの映画に取り掛かろうと決めていて。今まで、アイヌを題材にした映画の数は少ないんです。特に、フィクションとなると。その作り方としても、どうしても和人(わじん、日本人)の俳優さんがアイヌ役を演じてきたという歴史があって。そんな中アイヌの方にアイヌ役をお願いして映画を撮るということに、すごく意味があると思ったんです。

何度も何度もオファーに行ったアイヌコタン
―― 今回その出演者の方々に取材させてもらったときに、皆さんがおっしゃるのは、福永監督が何度も通ってきたんだよと。アイヌに興味のある方が、映画を撮りたい、テレビを撮りたいというお話はいっぱいくるらしいんですね。だけど大体断るし、強めの断り方をするらしいんですよ。相当冷たくしたんだけど、しつこいぐらいに来たと。もちろん愛を込めて言われていますが。何回ぐらい現場に行かれたんですか。

福永 何回だろう。撮影へ入る前に4~5回は行っていると思いますけれども。

―― そのときは、ニューヨークから行かれているんですよね。

福永 そうですね。

―― 結構きつめに断ったと言われてましたが、どうして諦めなかったんですか。

福永 うーん。きつめに断られたという印象もそんなにないんですけれども(笑)。今までアイヌの皆さんと近い距離で一緒に作っている映画はなかったし、ちゃんとした描き方というか、アイヌ役はアイヌの方にお願いして、一緒に映画を作ることが、偏見だったりを薄めるのにもいい影響があるんじゃないかと思ったんです。

アイヌコタンは観光スポットしても有名(撮影/佐藤智子)
―― 福永監督としては、アイヌをテーマにした映画を作るけれども、それはアイヌの方に出演していただくということが、ベースにあったということですね。

福永 はい。

―― それをお願いしに行ったと。

福永 そうです。

―― いろんな人からオファーがある中で、なぜ福永監督の作品には協力しようと思ったんですかと聞いたら、やっぱりへこたれずに何度も通ったということと、すごく情熱があったんだとおっしゃっていたんですが。その思いをどう言葉で伝えたんですか。

福永 ただ美しいですね、素晴らしいですねと過剰に美化したような見方をしたりせず、できるだけ真っ直ぐに思いを伝えました。余計なお世話と言われてしまえばそれまでなんですが、たぶん諦めなかったのも、自分がやりたいという気持ちだけじゃなくて、その先にもっと大きな価値があると思えたので。もちろんこれはアイヌの全てでは決してないんですけれども、実際この映画が今たくさんの人にとってアイヌのことを知るきっかけにもきっとなっていると思うんです。

自分のフィルターを通さずに描きたかった
―― 何回か通っているときに、最初はけんもほろろだったのが、いつから協力してもいいよみたいな話になったんですか。

福永 最初から賛同してくれたわけじゃないですけれども、中には面白そうだねと言ってくれた人もいましたし。まず俳優じゃない人に出演してもらって映画を撮ること自体が、日本では一般的になじみがないじゃないですか。

―― ないですね。

福永 それを説明したときにも、それで映画になるの? という疑問を持たれることはすごくあって。それでしょぼいものは作りたくないし、たぶんイメージが湧かなかったと思うんですよ。けれども、僕は1本目でも俳優じゃない人と一緒に映画を作っているので、それを踏まえて、こういうものを作りたいんだと説明して、徐々に分かってもらって。少しずつ信頼してくれたんだと思います。

少年を通して、今を生きるアイヌの人々の思いを感じられる映画(撮影/佐藤智子)
―― こういうものを作りたいというのは、どういうことを言ったんですか。例えば、日常生活を撮りたいとか。

福永 何よりも、主人公の幹人(かんと)くんをはじめ皆さんの人となりを、できるだけ自分のフィルターを通さずに描きたかった。偏見を助長するものじゃなくて、なくしたいと思って映画を作っているから、皆さんの人としての魅力が出る映画を作りたかった。もちろんフィクションの映画なのでドラマは作らなきゃいけないんですが。

主人公は青年と設定していたのを少年に変えて
―― 何人ぐらいにお話されたんですか。

福永 数えてはないんですけれども、結構みんなにしましたよ。キャスティングを念頭に入れて、皆さんにお願いをしているので、この人はこういう立ち位置で出てもらえるんじゃないだろうかとか。

―― この人だったらこのキャラクターだなと、キャスティングを考えながらお話もしていたということですね。

福永 そうですね。フィクションの物語の中で本人役で演じてもらっているので、どういうキャラクターにするかというよりは、映画の中でそれぞれがどういう立ち位置かとか、実際のみなさんの人柄などを念頭に置いて物語を作っていきました。

―― その中で、今回幹人くんを主役にするということで。いやもう圧倒的な存在感で、最後のワンショットの顔だけでもう涙が止まらなくなっちゃうぐらいの。幹人くんを主人公にしようと思ったのは、いつ頃の話なんですか。

福永 いや、実は最初に僕は青年の話で考えていて。青年は、もちろんアイヌキャスト、架空の人物で、そこに合うアイヌの方をいろんなところで探していたんですよ。ですが、阿寒のアイヌコタンには年配の方が多くて。だから他の場所で探さなきゃいけないなと思っていたんですが、どうしても見つからなかったんです。ただ、阿寒で撮るというのは決めていたんですよね。なので考え方を変えて、主役も阿寒で見つけようということで、それまで書いていた脚本を白紙に戻して、少年の話にしようと決めたんです。阿寒には高校がないので、中学生以下で誰か適役を探しはじめたときに、すぐに幹人くんのことが頭に浮かびました。

本人役を演じる主演の幹人(かんと)くんの演技が評判を呼んでいる(写真提供/(C)AINU MOSIR LLC/Booster Project)
―― そのときには会っていたんですね。

福永 はい、何回か会っていて。ただ、出演をお願いするとは思っていなかったので。阿寒に行く度にお世話になっていた下倉絵美さんの実際の息子さんだったので、接する機会はあったんですね。

―― そうなんですね。

福永 少年の話にしようと決めたのが、撮影に入る年で、2018年の年明けだったんですよ。絵美さんに相談して、幹人くんは出演に興味ありますかね、みたいなことを言っていたときに、あると思うよという話になって、電話で本人に聞いたら興味ありますと言ってくれたんです。すぐに2月初めに阿寒に飛んで行って、あらためて話をして、出演の意思を確認しました。

―― そのときは、幹人くんは12、3歳ですよね。

福永 13歳かな。

―― 青年役にしようと思ったときは、18、9歳の人を探していたんですか。

福永 いや、20代後半から30代前半ぐらいと思ってたんで。

なぜ、阿寒のアイヌコタンを舞台にしようと思ったのか
―― ちょっと話が前後しちゃうんですけれども、そもそもなぜ阿寒で撮ろうと思ったんですか。日高とか白老とかあるじゃないですか。

福永 他の町ももちろん行ったんですけれども、阿寒は地理的なものもあって、コミュニティがすごくしっかりあるなと思って。それはとても大事なことだったので。映画を撮るのに制作体制、協力を得ることでも大切だし、主要人物の個人の話でももちろんあるんですけれども、しっかりしたコミュニティが物語を作る上で必要でした。それが阿寒にはあったんです。

―― 阿寒はコミュニティが出来上がっている。そして、アイヌコタンは、歌を歌ったり踊りを子どものときからやっているから、芸能に慣れているというか。そうです。それもすごく大きな理由で。本格的な演技をしたことがないとは言え、いきなりスタッフが何人もいてカメラを向けられて、はいどうぞと言われて演技ができるというのは、簡単なことではないんですね。だけど阿寒の皆さんならば、観光を通して、芸能文化に携わってきているから、そういう表現の下地が。

―― 出来ているということですね。

福永 はい。

脚本は見せたけれど、セリフは覚えなくていいとお願いして
―― 実際に幹人くんの演技を見たときに、どんな感じがしました?

福永 素晴らしいなと思いました。僕は綿密なリハーサルも、演技指導もしていなくて、もっと自然にこういうふうにお願いしますとか、ちょっとしたニュアンスのことだったりとか、すでに皆さんが持っているものをどうやって映画という形に落とし込むか、橋渡しみたいな役割をしたと思っています。

アイヌコタンの住民たちの自然な演技が魅力(写真提供/ (C)AINU MOSIR LLC/Booster Project)
―― 脚本は読んでもらって、話の流れみたいなのは、説明したんですか。

福永 脚本を書いている途中に、こういうのはどう思いますかという意見を聞くために何回か見せているし。最終的に出来上がったものも、内容を分かってもらうために読んでもらってはいるんだけど、実際に撮影するときには、セリフを覚えないでくださいと言って。

―― ええ〜。

福永 実際に撮影に入るときに、リハーサルというか段取りみたいな感じで、流れを説明しました。あとは、話を構成する上で絶対に言わなきゃいけないセリフが幾つかあるわけで。ただ、その内容のことだけで、言い方はこう言ってくださいというのは基本的には言わずに。そうすることで、映画を現実に寄せて、出演者のみなさんができるだけ自然に演じられるようにしました。

―― じゃあ、一応脚本はあるけれども、その言い回しや言い方はアドリブで。

福永 はい。言い回しも自由ですし。普段からみんな知っている仲だから、会話の中で自然にぽろっとアドリブも出るんですね。そういう言葉はどんどん言ってくださいとお願いしていたし。とてもいいセリフが出ると、それを繰り返すようにお願いして、テイクを重ねるうちにだんだん固まっていくというやり方でした。

自然でいられる環境を作るのが僕の役割
―― 監督としては怖くなかったですか。全くの素人に任せちゃったら話がどうなるか分からないし、不安はなかったですか。

福永 それはもちろん。だから話を成り立たせるために絶対言わなきゃいけないセリフというのはあるわけで。だからシーンの中で、大体ここで始まって、ここで終わりましょう、みたいなのはある。でも、セリフの言い方は自由だし、その間も自由だしという形で。要するに、俳優じゃない人にお願いする以上は、自然な演技が出せないと成立しないわけですよね。

―― そうですね。

福永 それを出すために自分は、指導じゃなくて、自然にいられる環境を作ったんです。共演者もみんな人となりを知っているわけだし、普段自分のいる場所で撮っているし、セリフも覚えないで自分の言葉で言えるという環境を作った。

―― いやあ、それがあまりにも自然だから。脚本があって、覚えてあれを言ったんだったら、それはそれですごく自然過ぎる。かといって、脚本が何もなかったら、あまりにもドラマチックじゃないですか。だから、えっ? と思いました。その中間ということだったんですね。ちゃんと軸はあるけれども、自然な感じになるようにしたと。

福永 はい、そうですね。

アイヌの真髄、イオマンテを題材にしたのは
―― 今回、イオマンテ(熊送りの儀式)というテーマになったのは、どういう経緯だったんですか。アイヌの方に聞くと、イオマンテというのはアイヌの真髄だから、すごいところをついてきたねという印象だったらしいんですが。

福永 イオマンテを題材にするというアイデアは、僕が各地でアイヌの方々からお話を聞いているうちに、少しずつ具体化してきて。阿寒に行ったときには、すでに言っていたと思うんですけれども、最終的にやるかどうかは、皆さんの話を聞いて決めようと思っていました。

―― 何が響いたんでしょうか。

福永 元々アイヌの文化、精神世界の集大成だったわけですね。それが時がたって、いろんな理由で現代は行われなくなってしまった。その中で復活させたい、やりたいという人もいれば、もうやらなくていいという人もいるし、その理由も本当にさまざま。イオマンテをやるかやらないかという会議のシーンがあるじゃないですか。あれは本当に賛成派の人は賛成。反対の人は本当に反対で、その理由も、彼らがあそこで言っているとおりなんですね。

―― そのままなんですね。

福永 過去と現在のギャップだったり、それぞれが持っている考え方だったり、文化との向き合い方の違いだったり、イオマンテを通してアイヌの中にある多様性が描けると思ったんです。

アイヌの伝統儀式、イオマンテをテーマに(写真提供/(C)AINU MOSIR LLC/Booster Project)
―― イオマンテというものの、監督なりの概念を教えてもらいたいんですが。アイヌにとってどういう意味があるのか。例えば、育てた熊を殺して霊を送るということだけじゃなくて、アイヌは自然と共生していると思うから、動物とも植物とも。だから、カムイ(神)が人間にも降りてきて動物にも降りてきてという、全てのものに霊が宿っているという考え方じゃないですか。それをどういうふうに思われているかなと。

福永 儀式の考え方自体は、そういうことですね。熊の中に神様がいて、全部の神様の中でもとても位の高い神様で、子熊を持ち帰って育てるというのは、神様と一緒に時間を過ごすということで。殺すというのは、神の世界に送り返すということ。育てている間は大事に大事にたくさんいい時間を過ごすから、その熊の中に宿っていた神様が神様の国に帰ったときに、他の神様みんなに、人間の国というのは本当にいいところだと、土産話を話してくれることで、神様がまた熊の肉体とかいろんなものに宿って、また戻ってくる。だからその恵みをまた貰えるという。そのサイクルの中核をなして人間と神様の関係性を築く儀式がイオマンテだったんですけれども。今は生活スタイルも変わったし、いろんな理由でずっとやられていないわけですよね。

―― そうですね。動物愛護の問題とかでも。

福永 そうです。ただ動物愛護というのも、それはそれで一つの主張だけど、アイヌの元々あった考え方や精神世界というものを無視した一方的な意見なわけじゃないですか。良い悪い、その是か非かを決める権利があるのはアイヌ自身だけだと僕は思っていて。現実的な問題で、今を生きる現代の人間として、観光があって、その仕事が無くなったら元も子もないんだし、そんなことをしても意味がないという人もいるし。それぞれいろんな理由がある。

―― いろんな意見がある。

福永 はい。だからその多様性を、一つの凝り固まったイメージじゃなくて、考え方だったり声みたいなものを、イオマンテというものを通して描けると思ったんです。あとは、イオマンテ自体が、アイヌの元々ある文化とか精神世界の集大成なので。

これがアイヌの全てではないけれどもきっかけになれたら
―― アイヌをテーマにするときに、イオマンテは代表的な伝統儀式だし、やっぱりウポポイ(北海道白老郡白老町にあるアイヌ文化の復興・発展を目的とした文化施設)とかでも、イオマンテの儀式の踊りを舞台でやられていますよね。

福永 そうですね。

―― 文化もだし、芸能的なものもそうだし、継承していっていることじゃないですか。

アイヌの若い方々もイオマンテは見たことはないけれども、その儀式の踊りはみんな踊れるとおっしゃっていたから。ただ、私がこの映画を見て思ったのは、アイヌの文化についてもいろんな考え方がある。結局、人間誰しもそれぞれの考えがあるじゃないですか。一つにアイヌはこう考えるということではなくて、いろんな人がいるという。それがすごく腑に落ちる。だから、あえてイオマンテとはどういうものだというのを映画の中で、説明されてないじゃないですか。

福永 そうです。詳しくは説明してもいないし、僕は賛成とか反対とかいうような主張をしたつもりでもないし。そこを通して、思いだったり考え方だったり、そこにある文化だったり、精神世界だったりを描きましたけれども、だからと言って、イオマンテをやりましょうなんていうことは一言も言っていない。

歌、踊りの伝統文化が息づいているアイヌコタン(写真提供/(C)AINU MOSIR LLC/Booster Project)
―― 福永監督としては、何かアイヌのこれを知ってくれとかいうようなことじゃなくて、本当にきっかけになればいいと。だから説明しすぎてないんですね。

福永 そうですね。本当にそう思っています。これは阿寒に今住んでいる皆さんの一つの姿であって、彼らの全てではないし、ましてやアイヌの全てでは決してなくて。ただどうしても固まったイメージを持っている人がまだまだいるので。それか全く知らないか。この映画が、アイヌに対してのきちんとした理解につながる一歩になればいいなと思っています。決して知った気にならないで、一人一人が理解を深め、もっといろんな問題を身近に考えるようになってくれたらと思っています。

後半(2/2)に続く
https://news.yahoo.co.jp/byline/satoutomoko/20210206-00221264/

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「ゴールデンカムイ」の“隠れ聖地” 企業城下町にアイヌの宝物 

2021-02-07 | アイヌ民族関連
産経新聞 2021.2.6 09:00
 アニメにもなった人気コミック「ゴールデンカムイ」(集英社)に北海道・苫小牧市美術博物館が所蔵するアイヌのたばこ入れや矢毒入れが登場し、「聖地巡礼」とみられるファンが同館を訪れている。同館は知る人ぞ知るアイヌ関係コレクションの宝庫だが、巡礼のモデルコースともいえる公的機関主催のスタンプラリーに採用されていない“隠れ聖地”。所蔵品のコミック登場を機に、聖地入りはかなうのか。
作者の色紙も
 「ゴールデンカムイ」は、日露戦争後の北海道を舞台に元兵士らがアイヌの金塊争奪戦を繰り広げる人気コミック。狩猟や料理といったアイヌの習俗・文化も描かれ、克明に描写された道具類が物語の世界にリアリティーを与えている。
 たばこ入れは昭和56年に同館が購入した。コミックの22巻で砂金堀り師が身に着け、物語が展開する上でのキーアイテムとして23巻にも登場。鮭を担いで歩くヒグマが彫られ、印象的なデザインだ。
 「新型コロナウイルスの影響で今は下火になっているが、たばこ入れが作品に登場したことが伝わった昨年夏から、毎日のように本州から来館者が訪れた」。同館の学芸員がこう話す。
 作者直筆の色紙とともに常設展示され、入館時に申請すれば撮影もできる。同館によると、申請書にたばこ入れを記入する例が本州からの来館者に多くみられた。北海道の“空の玄関口”新千歳空港から、昨年夏に開業した国立アイヌ文化復興拠点ウポポイ(白老町)へ向かう途中に立ち寄る来館者が目立ったという。
充実展示2つの理由
 別の区画に展示されている矢毒入れも木製で、コミックではアイヌの少女が狩りの準備をする場面でクローズアップされている。
 「実際に使われ、毒が残っている。アイヌ関連資料を数多く展示しているので、『ウポポイのついでに来たが、2時間じっくり見た』などの感想が寄せられている」と学芸員。
 交易などに使われたアイヌの丸木舟が5艘もまとめて見られるのは同館だけ。河川用と海用が並び、迫力満点だ。女性が儀礼で身に着ける首飾り(タマサイ)は質、量とも国内有数のコレクションで、世代を超えて受け継がれた宝物(イコロ)の繊細な輝きが存在感を放っている。
 アイヌ関連資料の充実ぶりには、歴史的な理由がある。丸木舟は昭和41年に市内で発掘され、放射性炭素年代測定の結果から鎌倉末期から室町初期のものと推定されている。近代の苫小牧市は企業城下町として発展したが、かつては太平洋岸から川をさかのぼり、一部陸路を経て日本海側に至る交通路の起点だったからだ。
 充実している理由はもう一つある。アイヌ関連資料の購入時期だ。同館によると、苫小牧市では昭和20年代後半から30年代初頭にかけ、博物館建造を目指して多くのアイヌ資料を収集していた。明治時代から外国人や古美術商の収集対象となっており、まとまって購入できた最後の時代だったという。
“聖地”入りへ働きかけ
 北海道では、自治体や観光関係団体でつくる北海道観光振興機構が平成30年度から毎年度、アニメ「ゴールデンカムイ」ゆかりの地を巡るスタンプラリーを実施。「博物館 網走監獄」(網走市)や「北海道開拓の村」(札幌市)など道内各地の博物館をチェックポイントとしている。
 たばこ入れなどがコミックに登場して間もない苫小牧市美術博物館は、ラリーに含まれていない。このため、同館は機構に採用を働きかけている。だが、新型コロナの感染状況が落ち着かない中、機構が次年度もラリーを実施できるかは未定。コロナ禍の先行きは不透明だ。(寺田理恵)
https://www.sankei.com/premium/news/210206/prm2102060006-n1.html

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災害乗り越えたアイヌの人々の生活学ぶ 仙台で特別講座

2021-02-07 | アイヌ民族関連
河北新報2021年02月07日 06:00
 仙台市太白区の地底の森ミュージアムで6日、全2回の特別講座「ミュージアムと災害」が始まった。初回は「二度の噴火・津波で被災したアイヌコタン」と題し、東北芸工大芸術学部歴史遺産学科の青野友哉准教授が講演した。
 青野氏は、17世紀の北海道伊達市有珠地区に暮らしたアイヌの人々の生活に言及。同地区は1640年に対岸の駒ケ岳が、63年に有珠山が噴火し、津波の被害を受けた。遺跡発掘の結果、二つの噴火の間の地層から貝塚や住居跡などが見つかり、63年以降の地層でも貝塚が発見された。
 「大きな被害を受けても元の場所に戻り、再び生活を始めている。生活の場から見える風景を大事にするアイヌの人々の強い思いが感じられる」と話した。
 2回目は3月20日に開かれる。同ミュージアムは例年、考古学講座を開いているが、今年は東日本大震災から10年を迎えるため、災害に特化した講座を企画した。
https://kahoku.news/articles/20210206khn000059.html

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