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アイヌ古式舞踊の動画を公開

2021-02-13 | アイヌ民族関連
NHK 02月12日 20時36分
東京オリンピック・パラリンピックでアイヌ文化の発信を目指して、古式舞踊を受け継ぐ踊り手のグループが舞台の動画を制作し、ホームページで公開しました。
北海道アイヌ協会と道は東京オリンピック・パラリンピックのイベントなどでアイヌ文化を発信しようと、6年前から国に要望しています。
こうした中、道内各地でアイヌの古式舞踊を受け継ぐ踊り手のグループが歌や踊りを披露する舞台の動画を制作し、今月8日からホームページで公開しています。
舞台のタイトル「ウポポヤン リムセヤン」はアイヌ語で「歌いましょう 踊りましょう」という意味で、旭川や帯広に伝わる古式舞踊や伝統楽器のムックリの演奏など13の演目が30分にまとめられています。
監督を務めた釧路市の舞台演出家、秋辺デボさんは「オリンピックはアイヌの存在を知ってもらう絶好の機会だ。真剣に取り組む姿や伝統的に受け継いできたメッセージを伝えたい」と話しています。
このグループは引き続き道内各地で古式舞踊の練習会を開くとともに、オリンピックでの披露を目指しPRを続けたいとしています。
https://www3.nhk.or.jp/sapporo-news/20210212/7000030560.html

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アイヌ語が由来、北海道の激ムズ地名「重蘭窮」どうやって読む?

2021-02-13 | アイヌ民族関連
東洋経済 2/12(金) 18:01
北海道にはさまざまな難読地名が存在します。その由来となったのはアイヌ語ですが、それではアイヌ語の地名はどのような意味を持っているかご存じでしょうか?  野田サトル氏による累計発行部数1500万部超の大ヒット冒険活劇漫画「ゴールデンカムイ」のアイヌ語監修で、千葉大学文学部教授の中川裕氏が上梓した『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』を一部抜粋・再構成し、北海道のアイヌ語地名が持つ意味について解説します。
 文字を持たない人々の言葉であっても、その話し手がいなくなった後に痕跡を残すことがあります。その1つが地名です。
 かつて東北地方の少なくとも北半分にアイヌ語を話す人々が住んでいたと断言できるのは、そこに北海道と同じ、アイヌ語だと思われる地名が数多く残されているからです。
 「北海道と同じ」とわざわざ言うのは、アイヌ語のように音の構造の比較的簡単な言語は、この制限を外すと語呂合わせのような感じで、いくらでも「アイヌ語地名」が認定できてしまうからです。
 たとえば100年以上前から富士山のフジはアイヌ語だとか、阿蘇山(あそさん)のアソはアイヌ語だということが言われてきました。それに対するいちばん簡単な反論は、北海道にも火山はあちこちにあるが、1つもフジだとかアソだとかという山はないということです。
■アイヌ語の地名は地形の説明
 アイヌ語の地名というのは基本的に地形の説明です。襟裳岬(えりもみさき)の襟裳はエンルㇺというアイヌ語がもとで、「みさき」という意味です。知床岬(しれとこみさき)の知床も、シㇼ「大地」エトコ「~の先端」というのが語源で、要するに山の稜線が張り出しているところ。海の沖のほうまで張り出して半島になっているのが知床半島ですが、実は北海道の内陸地域にもシレトコと呼ばれる場所は何箇所かあります。
 また幌内(ほろない)という地名は、石狩にも北見にも釧路(くしろ)にもありますが、ポロ「大きな」ナイ「川」ということで、「(周辺の川と比較して)大きな川」ということ。樺太の多来加湾(たらいかわん)(※テルペニヤ湾)に面した敷香(しすか)と呼ばれていた町は、現在ポロナイスクという名前になっていますが、このポロナイも同じ由来の名前。
 1990年に私が行った時には、もうすでにアイヌは誰も住んでいないという話でしたが、ポロナイの名のとおり、大きな川が水をたたえて流れていました。 
 このように、同じ地形にはだいたい同じような名前がつけられるので、そうした地形と名前の組み合わせが見られれば、アイヌ語地名である可能性が高くなってくるわけです。
 アイヌ語の地名はまた、そこの植生や土地の人たちがその場所をどのように利用していたかを表す場合もありました。9巻86話あたりでアシㇼパ一行が訪れる樺戸は、「ゴールデンカムイ」の中では新撰組副長の土方歳三が収監されていたことになっている監獄のあったところですが、カパト「コウホネ」という植物の名前から来ています。
 コウホネにはレンコンのような根があり、これを掘り出して食べたところだと言われています。また、石狩地方に鬼斗牛、釧路に来止臥、十勝に喜登牛というところがありますが、全部読み方は同じでキトウシ。キトというのは、2巻14話にでてきたプクサと同じもので、ギョウジャニンニクという山菜のこと。それが生えているところというのが、ウシの意味です。
■人名と地名はつけ方が異なる
 ということは、人名と地名はつけ方が全然違うということですね。人名は他人と同じ名前をつけてはいけないというのが原則ですが、地名のほうは同じ地形や同じような環境のところには同じ名前をつけるのが原則です。
 早い話が「裏の山」とか「湧き水の出ているところ」というような感じで、土地の人間ならばどこのことを言っているかすぐわかるような言い方で呼んでいるだけなので、もともとは固有名詞とすら言い難いものだったのです。
 こんなふうに、もとのアイヌ語がわかれば、そこがどんなところだったのかがすぐわかるのですが、それを探るのを面倒にしているのが、そこに当てられた漢字です。
 来止臥(きとうし)もそうですが、昔の「知識人」が自分の教養をひけらかすために、わざと難しい読みの漢字を当てたのではないかという地名がたくさんあります。
 石狩に留辺蘂、胆振(いぶり)に累標という場所があって、どちらも私たちには読めやしませんが、ルベシベと読みます。ル「道」ペㇱ「沿って下る」ぺ「もの=川」の意味で、峠を越える道に沿って流れる川を指します。
 漢字を見ると恐ろしげですが、アイヌ語自体で言えばなんということはない普通の名前です。難読漢字の代表としてときどきテレビのクイズ番組にも出るのが、釧路の重蘭窮。知らないかぎり絶対に読めない地名ナンバーワンで、これでチプランケウシと読みます。
 チㇷ゚「舟」のㇷ゚は日本語話者には聞こえないような音なので、それをチウのように聞いて重の字を当て、ランには蘭を当てたのだと思いますが、残りのケウシになぜ窮という字を当てたのかは不明です。一方、アイヌ語の解釈は明瞭で、ランケは「下ろす」、ウシは「いつもするところ」で、チㇷ゚・ランケ・ウシは「いつも舟を下ろすところ」。山で作った丸木舟を海に下ろすところという意味でしょう。
 東北地方にアイヌ語が話されていた証拠としての地名という話も、このような北海道のはっきりとアイヌ語とわかっている地名のルールと照らし合わせたうえで考えられているものです。
 ただアイヌ語で解釈できるからという理由だけでアイヌ語地名だと言えるわけではありません。この点についていちばん勉強になるのは、山田秀三さんという人の著作です。
 実は東北北部のアイヌ語地名の多い地域というのも、山田さんが膨大な現地調査のうえで導き出した結論です。たとえば、「内」という漢字を当てられることの多い、ナイ「川」のついた地名は、アイヌ語地名の代表のようなもので、北海道にも東北にもたくさんありますが、山田さんはナイがついているからただちにアイヌ語地名だ、という判断の仕方はしません。
 彼の「サンナイ地名の謎」(註1)という論考を読むと、それがよくわかります。サンナイというのは青森県の三内丸山遺跡の三内がその1つですが、山田さんは最初それがアイヌ語地名だとは思っていなかったそうです。
■山内丸山遺跡の山内はアイヌ語なのか
 しかしアイヌ語として考えてみたらどうかと思ったとき、たちはだかったのは、サン「下る」ナイ「川」という、ただアイヌ語の単語を日本語に置き換えただけの一般的な語釈でした。
 何が下るのか?  水が下るのは、川ですから当たり前ですね。何か特徴的なものが下るのでないかぎり、そんな名前がつくわけはありません。それを解決しないとサンナイがアイヌ語だとは言い切れません。
 考えあぐねた山田さんは、釧路の奥にサンケナイ「下ろす・川」という地名を見つけ、土地の古老にその意味を尋ねてみました。そうすると「大雨でも降ると、急にどっと水が出る川だからそういうのだ」という説明でした。そこで、彼は北海道天塩(てしお)地方の三毛別(さんけべつ)(ベツはペッのことでやはり「川」の意味)、後志(しりべし)地方の珊内(さんない)、秋田県の三内と山内、そして青森県の三内に実際に行ってみて、そこで土地の人たちへの聞き取りを行い、すべての地点が洪水や鉄砲水の名所であるということをつきとめました。
 そこでやっと、サンナイというのは「(増水が)流れ出る・川」だという結論に達しました。つまり三内丸山の三内はアイヌ語地名だということをつきとめたのです。
 東北地方の北部を強調しましたが、アイヌ語地名はそこにしかないということではありません。ただ、それより南に行くと、それらしい地名の数ががくっと減るので、本当にアイヌ語地名かどうか確かめるのが難しくなるということなのです。山田さん自身は新潟県に特徴的な「五十嵐(いがらし)」という地名について、アイヌ語かもしれないと言っています(註2)。
 山田さんは新潟県内の3カ所の「五十嵐」「五十辺(いがらべ)」を実地検分して、インカルシにふさわしいところを見つけてきました。北海道のインカルシという地名は、インカㇻ「見る」ウシ「いつもするところ」という意味。
■地名をなくすことは歴史を消すこと
 小高い丘の上にあって眺望がきくところにつけられていて、そこで敵の軍勢とか魚の到来を見張ったところだと言われ、北海道北見の遠軽(えんがる)の語源もこれだとされています。
 そうです。何か遠くのほうからやってくるかもしれないものを「見る」ところということで、インカㇻマッのインカㇻと同じ言葉です。そんな言葉が新潟県の丘の上に、さりげなくつけられていたのかもしれないのです。
 近年、アイヌ語地名の復権が強く叫ばれるようになってきましたが、地名はそこに住んでいた人たちの存在の証であり、地名をなくすことはその人たちの歴史を消すことです。ひいては人々の心の中からアイヌという存在を消し去ることにつながります。そういった意味で、アイヌ語地名についての関心がもっと高まるように努力したいと思います。
 (参考文献)
 注1:山田秀三『東北・アイヌ語地名の研究』草風館(1993年)
 注2:山田秀三「インカラ(眺める)地名物語」『東北・アイヌ語地名の研究』草風館(1993年)
中川 裕 :千葉大学文学部教授
https://news.yahoo.co.jp/articles/da3a7cdb5a517abbfe0babf8437e46a61459ae22

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米連邦議会にカンガルー肉と皮革の輸入禁止法案

2021-02-13 | アイヌ民族関連
日豪プレス 2021年2月12日
すでに禁止法のあるカリフォルニア州選出議員ら
 アメリカでオーストラリアのカンガルーの皮革と肉の輸入を禁止する法案が連邦議会下院に提出された。
 ABC放送(電子版)が伝えた。
 カンガルー皮は、アメリカでは「k-leather」の名称でフットボール用革靴などに用いられているが、カリフォルニア州選出のサルド・カーバジャル民主党議員とペンシルバニア州選出のブライアン・フィツパトリック共和党議員の共同提出した「カンガルー保護法」が成立すればオーストラリアはカンガルー製品のアメリカへの輸出ができなくなる。カーバジャル議員のカリフォルニア州では2016年以来カンガルー製品の輸入が禁止されている。
 NSW州議会のマーク・ピアソン動物正義党議員は、「アメリカで法案が成立すればカンガルー貿易に大きな影響がある。オーストラリアがカンガルーを殺処分して肉や皮革を海外に輸出するというのは国際的な恥さらしだ。結局、外国がオーストラリアの動物の扱いに道義的決定を下さなければならなくない」と語っている。
 さらに、「カンガルーはオーストラリアの象徴。国の紋章にも採用されているが、カンガルー産業は陸上動物世界でも最大の屠畜を行っている。オーストラリアの裏庭でこういうことを続けることはできない。ブッシュファイアで何十億という数の動物が死滅したばかりではないか」と語っている。
 一方、カンガルー産業業者団体「Kangaroo Industry Association of Australia」のデニス・キングCEOは、「米議会法案は誤解している。カンガルー類でも希少種は殺処分していないし、カンガルーを皮革のために狩ることもしていない。皮革はカンガルー肉を人間やペットの食用に加工する過程で出る副産物に過ぎない。オーストラリアのカンガルーは50種にものぼり、狩猟が認められているのはそのうち頭数の多い6種だけだ。カンガルー産業は年商約2億ドルで3,000人ほどが従事しており、そのほとんどが遠隔地や農業地帯の先住民族だ。米議会で法案が通ればオーストラリアのカンガルー産業は壊滅的な打撃を受ける。カンガルーの肉や皮を商品化できなくなれば、殺処分したカンガルーをそのまま放置して腐らせることになる」と語っている。
 また、「全国農業連合会(NFF)や連邦貿易相とも協議し、米議会の法案を通さないよう働きかけたい」と語っている。
■ソース
US Congress to consider ban on kangaroo skin and meat, putting Australian industry at risk
https://nichigopress.jp/ausnews/203472/

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ラムサール条約からちょうど50年、先住民が暮らすフィリピンの湿地に見るその現状と未来

2021-02-13 | 先住民族関連
ナショナルジオグラフィック 2/12(金) 9:11
 フィリピン諸島の南端、ミンダナオ島の内陸に位置するアグサン湿地では、深い茂みの間をカヌーで通り抜け、湖で泳ぐ子どもたちの姿が見られる。
湿地は、子どもの遊び場になるだけではない。そこに住む人々に食料をもたらし、災害から暮らしを守り、文化を支えている。水に浮かべた家は、雨期になると水位とともに上がったり下がったりする。
 過去数百年間、狩りや漁をして暮らしてきた先住民マノボ族にとって、豊かな生態系を持つアグサン湿地はまさに地上の楽園だった。面積400平方キロメートルの湿地は、200種近い鳥類をはじめ、哺乳類、爬虫類、魚類たちのすみかでもある。
 暴風からの保護、食料の安全保障、生物多様性、炭素貯留など、湿地がもたらす恩恵は計り知れない。しかしその一方で、アグサン湿地は今大きな脅威に直面している。
 上流での汚染、気候変動、生息地の破壊により、神聖な湿地の生態系が脅かされているのだ。採掘事業やパーム油のプランテーションによって水が汚染され、炭素を豊富に含んだ泥炭地は、水が抜かれ、燃やされて、ヤシの木、米、トウモロコシを育てる農地に変えられた。
 今から50年前の1971年2月2日、世界18カ国の代表がイランの都市ラムサールに集まり、世界中の湿地保護を目的とした「ラムサール条約(特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約)」を採択した。現在は、171カ国が加入している。ところが1971年以降、都市開発や農業のために汚染され、舗装され、さらに海面上昇によって失われた世界の湿地は35%を超えている。
湿地とは何か、その多様な役割とは
 湿地は、永続的、あるいは定期的に冠水し、多様な生態系を支えている土地のことを言う。沿岸近くの草地やマングローブ林に多く見られるが、内陸部でも水が集まって湿地林や泥炭湿原が形成される。また、川が流れ込んでいることが多く、湖を含むこともある。
 淡水のアグサン湿地は、湿地林、泥炭地、川、59の湖に囲まれている。
「湿地には、泥と虫に覆われているだけで何の価値もないという悪いイメージが付きまとっていると思います。けれど最近では、これほど生産的で、環境保護や気候変動対策になってくれる生態系は、他ではなかなか見つけられないということがわかってきています」。環境保護団体「コンサベーションインターナショナル」で、ブルーカーボン(海に貯留される炭素)プログラムの責任者を務めるジェニファー・ハワード氏は、こう指摘する。
 世界では、10億人近くが農業、漁業、観光業、交通など何らかの形で湿地に生活を依存していると推測されている。また、生物のおよそ40%の種が、湿地で繁殖・子育てをしている。
 沿岸にある湿地は、台風やハリケーンから町を守る防潮堤の役割を担っている。高潮を防いで洪水を調整し、強風による影響を軽減する。2008年7月に学術誌「Ambio」に発表された研究では、米国では沿岸の湿地が1ヘクタール消えると、大規模な嵐による損害が平均して3万3000ドル増えると推測された。
 酸素を排出する森林は「地球の肺」と形容されることが多いが、湿地は上流の汚染を除去してくれるため、老廃物を濾過する腎臓に例えられている。
 上流から流されてきた汚染物や堆積物は、下流にある湿地で受け止められ、そこに堆積される。その湿地が失われると、「汚染物はそのまま海へ流れ込み、サンゴ礁を窒息させてしまいます」と、ハワード氏は説明する。
 また、気候変動対策にも、湿地が果たす役割は大きい。気候変動の影響を軽減するには、二酸化炭素の排出量を削減させるだけでは足りないと、科学者は警告している。広大な森林、草地、湿地を保護すれば、炭素が植物の根に吸収され、土壌に貯留される。世界では、年間数百万トンの炭素が湿地に吸収され、貯留されている。
 湿地とは、「傷つけられると、超効率的な炭素吸収源から炭素排出源へ転じてしまう数少ない生態系のひとつです」と、ハワード氏はいう。湿地は、陸上の土およびバイオマスに含まれている二酸化炭素の3分の1を貯留していると推定される。もし湿地が消滅すれば、その炭素が一気に大気に放出されるだろう。
アグサンが抱える問題
 フィリピンは、1996年に広さ400平方キロを超えるアグサン湿地を野生生物保護区に指定した。国際的にも、ラムサール条約で「国際的に重要な湿地」に認定され、さらにASEAN遺産公園にも指定されている。
 しかし、2020年に行われた最新のアジア水鳥調査では、1年間で水鳥が11%減少したことが判明した。2019年には72種2万羽以上いた水鳥が、2020年には1万7780羽にまで減少していた。2014年の調査開始以来、調査員を増やし、新しい監視ステーションを追加したこともあって、水鳥の数は上昇傾向にあった。ところが2019年の干ばつで、水鳥のエサ場が減少したと考えられている。
 保護区の責任者であるエミリー・イボニア氏は、もっと技術資源と人材が必要だと主張する。干ばつや農業開発は、森林火災の原因にもなっている。2019年と2020年には推定1平方キロの泥炭地と湿地林が焼失したが、保護区には消火用の設備すら整っていないという。
アグサンと世界の湿地への解決策
 ハワード氏は、保護の最大の障壁となっている人々の考えを変える必要があると指摘する。
 例えば、海を臨む広大な泥の沼を開発してホテルを建てるか、それとも手つかずのまま残しておくかの選択を与えられたら、後者を選択するよう説得するのは難しい。
 だが最近では、カーボンオフセット・プログラムの一環として、湿地の生態系保護への関心が高まっている。このプログラムは、企業が炭素を排出する代わりに別の場所での炭素吸収・削減に貢献する取り組みのことだ。
「民間部門からのカーボンオフセットの需要は、供給を大きく上回っています。これに投資する価値があるということに、人々が気付き始めているのです」
 ラムサール条約事務局長のマーサ・ロジャス・ウレゴ氏は、1971年以降湿地は縮小しているものの、世界が今その価値を改めて見直す転換期に来ていると考えている。新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)で、自然の重要性に対する意識は高まっている。科学者は、野生生物の重要な生息地が破壊され、今後も新型コロナのような新しいウイルスは増えるだろうと警告する。
「人間は自然と密接に関係しているということに、多くの人が気付き始めています。今の状況は大変悲しむべきことですが、同時に人間が自然に対して行ったことがいずれ私たち自身に跳ね返ってくるのだということを示しています」
文=SARAH GIBBENS/訳=ルーバー荒井ハンナ
https://news.yahoo.co.jp/articles/2b751b6269941387944708d984afc7115bbca319

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人気漫画ゴールデンカムイで登場した「くじら汁」を深掘りMasaaki SasakiPublished 11 JAPAN Forward February 12,

2021-02-13 | アイヌ民族関連
2021By Masaaki Sasaki

極寒の地、サハリン島(樺太)北部沿岸。白銀の世界でアイヌの少女アシリパがお椀に入れたオハウを口に入れ、「ヒンナヒンナ」とつぶやく。
明治時代後期、北の大地・北海道や樺太を舞台にした人気漫画「ゴールデンカムイ」(集英社・野田サトル著)17巻の一コマだ。オハウはアイヌ語で「温かい汁物」を意味し、ヒンナは食べ物への感謝の意を示す。
アシリパの一行は樺太の現住民ニブフ族の船に乗り、オホーツク海に生息する1頭のシロイルカ(ベルーガ)の狩猟に成功する。流木を集めて火を焚き、大鍋にシロイルカの生肉を放り込んで、ぐつぐつと煮込む。ジャガイモ、干したギョウジャニンニク、ニリンソウを添えた栄養バランスの取れた食材。少女アシリパは、一緒に冒険をする日露戦争の英雄、杉元佐一が残した味噌を「曲げわっぱ箱」に入れて持ち歩いており、味噌で味付けをする。ほかほかにできあがった和風「くじら汁」は、寒空の下で食を取る一行の胃袋を満たし、登場人物たちが「ヒンナヒンナ」と言い合うのだ。
コミックスの巻末にはまるで学術論文に用いられるような、アイヌ文化関係の参考文献がずらりと並ぶ。作者の野田さんは綿密な取材に基づき、一コマ一コマを丹念に描いており、作品が2018年に第22回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞した際のインタビューでも「アイヌ文化に対して謙虚な気持ちで、知ったかぶりはせず可能な限り専門家にこまめに確認」して、創作活動に打ち込んでいることを明かしている。
ゴールデンカムイの漫画では、アシリパが北海道の野生動物を狩猟したり、野草を採取したりして、自然の恵みをオハウにして食べるシーンがたびたび登場する。「くじら汁」も数あるメニューの一つ。クジラはアイヌ語で「フンぺ」といい、アイヌ民族も日本人と同様、クジラを余すことなく生活の中に取り入れてきた。
北方民族と捕鯨の関係に詳しい北海道立北方民族博物館(網走市)の元学芸員、渡部裕さんによれば、アイヌ民族は海岸に漂着した「寄り鯨」の肉や脂肪を食料として利用し、栄養源としてきたという。もちろん食用以外でも、クジラのヒゲはアイヌの海船である板つづり船の結束材として使ったり、脊柱周辺の筋腱を糸や紐、弓の弦に用いたりして、重宝した。
北海道アイヌは鯨肉を乾燥させて保存食とすることもあったが、渡部さんは「北方地域の民族では概して鯨肉は焼くのではなくて煮て、調理することが普通だった」と語る。
さらに、20世紀前半のロシア人研究者の聞き取り調査により、樺太や間宮海峡をはさんでユーラシア大陸の沿岸に住むニブフ族もオホーツク海の一部に生息するシロイルカの脂肪や肉を好んで食べていたことも記録として残っている。
日本鯨類研究所で長年にわたって調査捕鯨に携わり、クジラの生態に詳しい獣医師、石川創さんは「北極圏を中心にシロイルカの生息範囲は広い。狩猟は比較的簡単で、北方民族の食糧としては現代でも大きな割合を占めている。ビタミンCが豊富に含まれる脂皮は、当時でも珍重されたはずだ」と解説する。
こうして専門家の話を聞くと、アシリパたちが食べたくじら汁は狩猟の実態も調理方法も限りなく史実に基づいて作られた料理だったことがわかる。海洋を勇壮に泳ぐクジラが自然環境の厳しい北方民族のスタミナ源になってきたことを考えると、歴史のロマンをかきたてられる。
北海道北広島市出身の野田さんは2014年に週刊ヤングジャンプでゴールデンカムイの連載を開始した。北の大地を旅しながら、埋蔵金を探しあてるストーリーは人気を博し、24巻まで創刊されたコミックスはシリーズ累計1500万部を突破(2021年1月時点)。テレビアニメも放映され、北海道にゴールデンカムイの聖地めぐりをする観光者も増えた。
アイヌ民族だけでなくニブフ族やロシア人らが食していた家庭料理が次々に紹介されるのもこの漫画の魅力の一つで、読みながらついついそのメニューを食べたくなってしまう。
アイヌ民族については、昨年7月、歴史や伝統文化を学べる民族共生象徴空間「ウポポイ」の施設も北海道白老町にオープン。アイヌの暮らしぶりや文化芸術を知ろうとする人々の関心は高まっている。このブームに合わせ、昨夏、味の素グループの関係会社「北海道味の素」(札幌市)がアイヌ文化の継承を食を通じて貢献したいと考え、味の素の「ほんだし」で作る現代風オハウのメニュー開発を行った。アイヌの伝統料理を家庭で手軽に作ってみませんか、というわけだ。
アレンジしたのは8メニュー。そのうちの一つ、くじらオハウのレシピは、なじみのある竜田揚げとけんちん汁を参考に作られた。一昨年に商業捕鯨が再開。新たな形で鯨肉が市場に流通し始めたこともあり、「若い世代に鯨肉を使った簡単な調理方法も提示したかった」(同社管理栄養士)との狙いもあった。
レシピに基づき、取材班でもさっそく調理してみた。食材はすべてスーパーで手に入る。用意したのは商業捕鯨で捕れたニタリクジラの背肉。薄切りにして料理酒をふって、しょうゆやショウガをもみこんで、片栗粉をまぶす。そして、両面焼き色がつくまでじっくりと焼く。次に、いちょう切りにしてさっと炒めた大根、にんじん、ごぼうを煮て、ほんだしで味付け。最後に調理した鯨肉を汁に入れて、「くじら肉のかんたんオハウ」ができあがった。
いただきます!外出から戻り、冷え切った身体に鯨肉の温かいエキスが染み入る。「ヒンナヒンナ」―。食卓でみんなの笑顔が広がった。食材や調理法は違うがきっとアイヌやニブフの民たちも、寒さ厳しい真冬にこうしてパワーをつけたに違いない。
ヒゲクジラは半年をえさ場で、残りの半年をほぼ絶食状態で子育てをし、数千キロも不眠で泳ぎ続ける。このパワーの源が赤肉に多く含まれる「バレニン」と呼ばれる成分だ。近年の研究で、このバレニンが人間の疲労感を解消することに役立つことがわかってきた。
さらに最新研究では、バレニンが認知症の予防に効果をもたらす可能性があるという調査結果も発表された。2018年夏に、星薬科大先端生命科学研究所ペプチド創薬研究室の塩田清二特任教授らが実験データから導き出したもので、バレニンを含む鯨肉抽出物の摂取はストレスを軽減し、認知症の進行を抑制、改善する可能性が高いのだという。
「実験により、バレニンの摂取はアルツハイマー病モデルマウスにおける記憶力低下を抑制した。さらに、抗うつ状態や仕事作業効率の改善や集中力増加などにも効果をもたらすことが分かった。さらなる詳細な解析を行うためには、規模を大きくして臨床実験を行うことも必要である」と塩田特任教授。今後、バレニン摂取による免疫効果の研究を進めることも明らかにした。
精神的ストレスや肉体疲労が蓄積する現代社会において、心と身体の健康は活力ある明日を迎えるために何よりも重要だ。1~3月は進学のための入試シーズンでもある。受験生にとってパワーをつけるために、鯨肉はもってこいの食材と言えるだろう。
ゴールデンカムイで、アイヌの少女アシリパと杉元佐一の冒険はまだまだ続く。今度はどんなシーンでアシリパが「ヒンナヒンナ」とつぶやくのだろう。ストーリー展開ももちろんだが、食欲をそそる料理の紹介も楽しみに待ちたい。
筆者:佐々木正明(産経新聞)
提供:一般財団法人日本鯨類研究所
くじら総合サイト「くじらタウン」
この記事の英文記事を読む
https://japan-forward.com/japanese/%e4%ba%ba%e6%b0%97%e6%bc%ab%e7%94%bb%e3%82%b4%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%83%87%e3%83%b3%e3%82%ab%e3%83%a0%e3%82%a4%e3%81%a7%e7%99%bb%e5%a0%b4%e3%81%97%e3%81%9f%e3%80%8c%e3%81%8f%e3%81%98%e3%82%89%e6%b1%81/

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アップルが先住民族の言語アプリを「不正で詐欺的」として削除したことを謝罪 一方で本当の詐欺アプリは野放しに…

2021-02-13 | 先住民族関連
Engadget 02/12
アップルが先住民族の言語を継承するためのアプリを「不正で詐欺的」だとしてApp Storeから誤って削除したことを、謝罪したと報じられています。
Tsmsyenファーストネーション(カナダの先住民族)コミュニティに属するブレンダン・エシュム氏は、昨年(2020年)7月にGoogle PlayとApp Storeに「Sm'algyax Word」なる自作アプリを公開。このアプリはFirstVoices.com(先住民族の言語と文化の教育とアーカイブを支援するWebプロジェクト)からアーカイブされたSm'algyax (ツィムシアン語。カナダのブリティッシュコロンビア州北西部やアラスカ州南東部に居住する人々の言語)のフレーズや単語の辞書として機能し、次の世代に言語を受け継ぐことを意図したものです。
本アプリはおよそ600ダウンロードされ、教育カテゴリーのトップチャートに浮上。まさにそのとき、App Storeから削除されてしまいました。エシュム氏は、アップルから規約に反する「不誠実で詐欺的な」行為により開発者アカウントが終了すると知らせる自動メールが送られてきたと語っています。
エシュム氏はアップルに理由の説明を求めようとしたものの、上手く行かなかったと述べています。そこで最終的にはカナダのニュースメディアGlobal Newsの一部門であり、消費者を代表して企業に質問するConsumer Mattersに連絡を取り、アップルに回答を求めました。
これに対しアップルはConsumer Mattersへ声明を出し、エシュム氏の開発者アカウントを終了させたのは間違いであり、彼のアプリが「文化的理解を深めるために技術がどのように使えるか」を示した素晴らしい例だと称賛。その上でエシュム氏に謝罪するとともに、このようなことが二度と起こらないようにプロセスを改善することを約束しています。
ちょうど今週、まさにApp Storeで「不誠実で詐欺的な」アプリがはびこっていると話題になったばかりです。Apple Watch向けのキーボードアプリ「FlickType」を開発したコスタ・エレフテリオウ氏は、機能もしないアプリが削除もされず莫大な収益を上げていることを告発していました。
なんの罪もないアプリが濡れ衣で削除された一方で、複数の詐欺アプリを送り出した開発者アカウントは健在なまま。アップルはApp Storeへの信頼を取り戻せるよう、いっそう審査の厳格化やプロセスの透明性が求められることになりそうです。
Source:Global News
via:MacRumors
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植村直己:時代を超えた不世出の冒険家

2021-02-13 | 先住民族関連
ニッポンコム 2/12(金) 15:58
五大陸の最高峰登頂に世界で初めて成功、前人未到の犬ぞりによる北極圏1万2000キロ走破などを成し遂げた植村直己は、人間の極限に挑んだ冒険家だ。生誕80年を迎えた今年、その破天荒な人生を紹介する。
2021年は、多くの功績を残した冒険家、植村直己の生誕80年の年に当たる。1984年、冬のアラスカ山脈デナリ(旧称マッキンリー)で消息を絶ったのが43歳。その短い生涯を思うと、改めて失ったものの大きさを考えずにはいられない。
4年5カ月にも及んだ世界放浪の旅
植村は1941年2月12日、兵庫県城崎郡国府村(現・豊岡市)に農家の7人兄弟の末っ子として生を受けた。小学校時代は近くの円山川周辺で自家の但馬牛に草を食(は)ませるのが日課だったという。中学に入っても川遊びに熱中するごく普通の少年だった。兵庫県北部の但馬地方は豊かな自然環境に恵まれた風光明媚(ふうこうめいび)な土地柄だが、気候は日本海型で、冬はシベリアから吹く北西季節風の影響をまともに受けて降雪量が多い。冬が厳しいこの地域の人びとは、独特の気質を育んできた。粘り強く、努力を惜しまない反面、武骨で機知に欠ける。行動は万事控えめだが、実行力に富む。こうした気質のいくつかは、植村にもぴったり当てはまるものが多かった。同時に負けん気が強く、人目を引こうとする自意識の強さも持ち合わせていた。
そんな少年が明治大学に進学後、山岳部に入り、さらにその気質に磨きがかかった。それまで大した登山経験のなかった植村は、新歓合宿の白馬岳登山で最初に動けなくなった悔しさをバネに独自のトレーニング法を編み出し、年間120日から130日山に入って鍛え、山岳部で指導的立場にまでなった。海外の山岳書に没頭してアルプスへの思いを募らせ、さらに仲のよい同期生がアラスカでの氷河行を体験したことで、抑えがたい焦燥感にとらわれる。そこに64年の貿易自由化による外貨枠の制限が外されたことで、海外渡航への夢が現実のものとなった。
卒業後は定職にもつかず、所持金110ドルだけを持って移民船に乗り、米国のロサンゼルスへ。いくつかのアルバイトで資金をためながら、米国からフランスに渡り、スキー場での資金稼ぎに明け暮れた。途中、明治大学のヒマラヤ山脈ゴジュンバ・カン登山隊に現地から参加して登頂、アマゾン川いかだ下り6000キロを単独で達成、モンブラン、キリマンジャロ、アコンカグアなど世界の高峰への登頂や極地での冒険を繰り返しながら、放浪の旅は実に4年5カ月にも及んだ。
組織登山から単独登山へ
植村直己が五大陸最高峰を登頂した年
帰国から間もない1970年5月、植村は日本山岳会のエベレスト登山隊に参加して、日本人初、世界で24人目の登頂者となる。わずか3カ月後の8月にはデナリにも単独で登頂し、世界で初めての五大陸最高峰登頂者となった。
しかし1971年1月、厳冬期のモンブラン山群グランド・ジョラス北壁登攀(とうはん)に誘われて、登頂には成功するものの嵐につかまり、仲間5人で合わせて21本もの指を凍傷で失ってしまう。2月には国際エベレスト隊に参加して献身的に荷揚げに励んだが、各国隊員らのエゴから隊は空中分解してしまう不運にも見舞われた。
「やっぱり、何かが違う」
植村はそう思ったはずだ。明治大学のゴジュンバ・カン登山隊、日本山岳会のエベレスト登山隊や国際エベレスト隊も、いずれも組織で挑む登山だった。植村は仲間と一緒の山登りを楽しんでさえいたし、それほど強い単独行へのこだわりはなかった。しかし、指を失った仲間に対する負い目と国際隊の身勝手な行動に違和感を覚え、この2つの登山を契機に植村は単独行への思いを強くする。特別、組織による登山隊を敬遠していたわけではないのだが、人の良さが行動にブレーキをかけてしまう自分が嫌だった。
あのデナリ単独登頂の爽快感が、やがて南極大陸の単独横断に意識を向かわせることになる。行動の軸を山岳から極地に移し、まだ萌芽(ほうが)状態だった南極横断の夢を大切に育て上げて、やがて究極の目標としてイメージするようになる。組織で行う登山にいささか辟易(へきえき)し、単独で挑戦できる痛快さを敏感に感じ取っていたはずだ。好むと好まざるとにかかわらず、組織への献身、他者への気遣い、そして控え目な行動、こうした植村のプラス特性が阻害されることなく、単独で行動することで自らに内包された呪縛からも解き放たれると考えたのだろう。「南極」と「単独行」への志向が明確に重なって意識され、かつて放浪していた時と同じような解放感が、甘美な高揚感を伴って蘇(よみがえ)ってきたに違いない。
北極圏1万2000キロを犬ぞりで走破し、「世界のウエムラ」に
南極大陸単独横断を夢想していたまさにその時から、植村は同時に北極圏への旅も具体化させようとしていた。北極圏には先住民族であるエスキモーが暮らし、独自の文化を育んでいた。植村の天性の一つに、異文化に馴染(なじ)んで現地の人の中に溶け込んでいけるという、しなやかさがあった。1972年、植村は北極圏グリーンランド最北の村シオラパルクでエスキモーと一緒に暮らしながら、現地の習慣や言葉を学び、極地での生活技術や犬ぞりの扱い方を習得していった。
こうして準備を重ねた上で、植村はまず73年4月にグリーンランド北西岸3000キロを単独犬ぞりで往復することに成功する。そして74年12月から76年5月にかけて、グリーンランドからカナダ、アラスカまで北極圏1万2000キロを単独犬ぞりで走破し、「世界のウエムラ」の名を不動のものにした。
この植村の旅に関して、私には懐かしい思い出がある。6年ほど前、彼が著した『北極圏1万2000キロ』を文庫本として編集する際、読み進みながらのその描写に引き込まれてしまうことがたびたびあった。出発した直後、犬たちに逃げられてしまい途方に暮れる植村の姿や、シロクマに遭遇した恐怖感など、その時の情景がありありと目に浮かんできた。そうした記述に、まるで植村と一緒に1万2000キロを旅したような感慨に捉われてしまった。
そんな植村の足跡を実際に訪ねてみたいと思った私は、彼が10カ月間暮らしてトレーニングしたシオラパルクに、極夜が明けた2015年3月、1カ月ほど滞在したことがある。そこにはまだ植村の痕跡が至る所に残り、どの住民からも彼の話を聞くことができた。
「私が8歳か9歳、ナオミにエスキモー語を教えていたんだよ。覚えが早くて、驚いたね」
1人の村人はそう言って、目を細めた。彼の心に深く強く植村の記憶は刻まれていたのである。
植村は独特の粘り強さと強靭(きょうじん)な精神力を発揮して、北極圏1万2000キロを犬ぞりで走破した後、2年後の1978年4月に北極点到達、8月にグリーンランド縦断も単独で成し遂げている。
厳しい自然と謙虚に向きあった不世出の冒険家
植村は北極探検の間に南極大陸横断の夢をふくらませ続け、まさに実現の兆しが見えた1982年1月、アルゼンチン経由で南極へ出発する。南極半島のアルゼンチン軍基地まで行っていよいよ最終の準備にとりかかっていた矢先、同年4月にフォークランド紛争が勃発。10年以上かけて紡いできた夢が、戦争という外的な事情で頓挫してしまった。自分の情熱だけではいかんともしがたい現実に直面して、植村の無念さはいかばかりであったか…。
そして84年2月、思いも新たに挑んだ冬のデナリで、植村はちょうど43歳の誕生日に単独登頂には成功したものの、その翌日、下山途中に消息を絶ってしまったのである。
植村は本当にいい時代を生きたと思う。大学に入学した60年から消息を絶った84年までの約20年は、時代そのものが日本の高揚期だった。60年の安保闘争を乗り越え、一気に高度経済成長に突き進んでいった時代。海外渡航が自由化されたその年、植村は世界放浪の旅に出ている。右肩上がりの「時代のうねり」が感じられ、時代そのものが躍動していた。彼はその兆候を敏感に感じ取り、独自のアイデアと持ち前の粘り強さで、夢を夢で終わらせることなく、実現させる力があった。しかも、辺境と呼ばれる広大な未知の領域が世界の至る所に残っている時代だった。
2014年の6月、私は北極圏1万2000キロの旅の終着地、アラスカ北部の村コツビューを訪ねた。小型飛行機は高速で飛んでいるのに、眼下に広がるツンドラと蛇行する大河は、何分も何十分も動いているようには見えなかった。えんえんと続く氷河の美しさとデナリの神秘的な輝きは、言葉を失うほど美しかった。そして辺境の地に暮らす人々は、厳しい極地であるがゆえにその自然を畏れ、どこまでもつつましく謙虚だった。
こうした人びとの自然観は植村と通じるところがある。彼は自然を畏怖しながらも、その厳しさと常に対峙(たいじ)していった。植村が訪れた辺境の地に暮らす人びととその自然に触れて、彼が時代を超えた冒険家として長く記憶される理由が少しだけ理解できたような気がした。
【Profile】
神長 幹雄 KAMINAGA Mikio
編集者。1950年、東京生まれ。信州大学人文学部卒業。在学中に休学して、米国に2年間滞在。山と溪谷社入社。『山と溪谷』編集長。その後は多数の山岳図書の編集を担当。海外取材の経験も多く、個人的にも60カ国以上を旅する。日本山岳会会員。著書に『未完の巡礼』(山と溪谷社、2018年)、『運命の雪稜』(同、1999年)、『豊饒のとき』(私家版)など。
https://news.yahoo.co.jp/articles/2911fd33873f9d484489a1a5ae9e4af342a555ab?page=1

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