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母に捨てられ、薬物依存ホームレスだったカナダ先住民の若者がベストセラー作家になるまで

2021-02-08 | 先住民族関連
COURRiER Japon 2/7(日) 13:00

ジェシーは10年以上ドラッグ中毒のホームレスとして不安定な暮らしをしていた Photo: Jesse Thistle / Facebook
カナダでの先住民族に対する差別は度々話題になるが、不安定な子供時代を過ごし、差別を受けたトラウマから薬物依存ホームレスになった先住民の若者がいる。一旦刑務所に入った彼は、出所後に必死に勉強し、今ではカナダの大学教員・ベストセラー作家になったという。
不安定な子供時代、差別で負った傷
カナダのヨーク大学で先住民族の歴史について教える准教授のジェシー・ティソルは、19歳で祖父母の家を追い出され、20代を薬物依存のホームレスとして過ごした過去を持つ。
英「BBC」によると、先住民族の母親と薬物中毒の父親との間に生まれたジェシーの育ちは非常に不安定だった。暴力を振るう夫に耐えかねた母親は3人の息子を連れて家を出たが、追いかけてきた父親が母を騙して3兄弟は一時的に父親に引き取られた。しかし、父親からは物乞いと万引きの仕方を教わっただけで、ネグレクトされた。
そんな状況が児童相談所に通報され、ジェシーたちは養護施設でしばらく過ごした後、ジェシーが4歳のときに父方の祖父母の元に送られた。
当時は先住民族への差別が今よりも激しく、母親に対しては通知もされなかった。1950年代終わりから80年代までの間に、カナダでは約20万人の先住民族の子供たちが親から取り上げられ、その多くが白人の家庭に引き渡されるという施策が取られた。ジェシーたち兄弟もその被害に遭った子供たちだった。厳しかった父方の祖父母もまた先住民族に差別的で、母親が息子たちに会うことを長く許さなかった。
ジェシーは学校でも「インディアン」として差別され、近所の家庭も自分たちと子供たちを遊ばせたがらなかった。周囲にも先住民族としてのルーツを否定され、いつしかジェシーは自らの文化、そして自分自身をも憎むようになった。さらに、側にいない母親に対しても、自分たちを捨てたのだと考え、憤りを覚えるようになった。
そんな苦しみからジェシーは喧嘩ばかりして、学校でも成績は最低。高校に入るとギャングとつるむようになり、アルコールとドラッグを手放せなくなった。そして次第にギャングであることが自分のアイデンティティになっていった。
自己破壊的なホームレス生活
19歳のある日、コカインを所持しているのを祖父母に見つかり、そのまま家を追い出された。長兄の元に転がり込んだが、やはりドラッグを吸っているのを見つかって追い出され、20歳でホームレスになった。
それからはトロントで物乞いをしてお金を集め、ドラッグを買い、レイブパーティーに出かけた。カナダメディア「ユニバーシティ・アフェアーズ」に対して、当時を自己破壊的だったとジェシーは振り返る。いつも何かを恐れ、逃げてばかりいた。
その後、23歳の時に殺人犯に騙されたことがきっかけで、ジェシーが殺人犯を助けたと噂され、後ろ指を指されるようになり、道端で動けなくなるまで殴られたこともあった。絶望したジェシーは、大量の鎮痛剤を盗み、一気に飲んだものの、死ねなかった。
その後、次兄のアパートから締め出されたジェシーは、再びそのアパートへの侵入を試みたところで3階の高さから落ちた。ジェシーはそれでも死ななかったが、両足に大怪我を負った。ドラッグを吸って痛みを和らげていたが、その後足の指は黒く変色し、爪が抜け落ちた。足の肉が腐っていたのだ。医師には足を切断しなければならない可能性、そして感染が心臓や脳に広がることで死にかねないと告げられた。
それを聞いてパニックに陥ったジェシーは、全てから逃げ出したくなった。
そして、刑務所に行こうと思いついた。刑務所なら安全で、食べ物や薬も手に入るだろうと。それから犯したのはコンビニエンス強盗。しかし、そこで奪えたのはたった40カナダドル以下で、逮捕されるのが目的だったのに現場からも逃げてしまった。数週間後、警察に自ら出頭した。
イチからの学び直し
2006年、30歳の頃に入った刑務所では想定通り足の治療を受けることができ、足はすぐに快方に向かった。しかし、15年間悩まされた薬物中毒には何の処置もされず、独房でひどい中毒症状に襲われた。
一方、不思議と刑務所で学び直したいという気持ちを覚え、読み書きをやり直した。出所後にも更生施設に入り、そこで再学習を始めた。それまで失っていた時間を取り戻すかのように、毎晩遅くまで必死に勉強した。規律ある暮らし、マナー、コミュニケーションの仕方などについて学び、久しぶりに自分に自信を持てるようになった。
そんな折、自分を捨てたと思っていた母から連絡を受けた。愛に飢えていたジェシーは、一度の会話をするのに電話を何度も切らなくてはいけないほど感極まってしまった。
その直後には、家を出て以来連絡が途絶えていた祖母が危篤状態にあるという連絡を受け、すぐに祖母に会いに行った。
祖母からは「あなたには本当に失望している」と言われたものの、「勉強を続け、大学に行きなさい、そしていけるところまで行きなさい」という言葉を最後にかけてもらった。
二度目のチャンス
2009年に更生プログラムを終え、ジェシーはその後付き合い始めた女性と一緒に住むようになった。自分を信じてくれる人を得たことで、ジェシーも期待に応えるべく、熱心にレストランで働き始めた。
30代半ばで高校卒業試験に合格し、2012年にはトロントのヨーク大学に入学。歴史を学び始めた。
大学で2年次に、家族の歴史について調査する課題を出され、サスカチュワンで先住民族の歴史について調べている叔母に連絡を取ったことが転機となった。メティス民族の先祖と彼らが戦ったカナダ政府への抵抗蜂起についてまとめて提出したところ、それが先住民族の歴史を専門とする教授の目に止まり、そのまま研究助手として採用されることとなった。
2015年にトップで学部を卒業後も研究を続け、翌年修士も終え、その研究に対して数々の賞も受賞している。現在は博士課程で研究を続けながら、大学で教える。
ホームレスだった過去について書いた著書『灰の中から─メティス、ホームレスである私が自分の道を見つけるまで』(未邦訳)はカナダで2019年のベストセラーになった。
カナダの「CBC」ニュースによると、ジェシーが専門とするのは先住民族のホームレス、薬物依存、そして幾世代にも渡るトラウマだ。ホームレス時代に、多くのホームレスもまた先住民族でそのほとんどが薬物依存だったのを目の当たりにした。ジェシー自身がかつて自己破壊的な行動を取っていたのは、自分自身が負った心の傷に加え、世代を超えて受け継いだトラウマに起因するという。
ジェシーは語る。「私の先住民族らしさを取り戻してくれたのが大学だったというのは不思議です。それまでの教育機関は私から先住民らしさを奪っていきました。当時は周囲と同様に行動することを強いられたものの、当初は先住民族にロールモデルを見出していて、自分もそういう風になれるのだと感じていたことを思い出しました」
「私達は勇敢な闘士であるという歴史を持っています。かつて私がそうだったように、みんながアルコール依存症やホームレス、犯罪者というわけではないのです」
https://news.yahoo.co.jp/articles/4d0b97785a807b1f4d82125f375a634b06f089d8

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2月6日はサーミの日!北極圏先住民族サーミの事を知ろう!

2021-02-08 | 先住民族関連
Lifte 2021-2-6

ラップランド地方、いわゆるノルウェー、スウェーデン、フィンランドの北部とロシアのコラ半島でトナカイを飼い、共に暮らし、独自の言語を持つ先住民族"サーミ"の人々。
サーミ族の歴史は古く、紐解くと1万年以上前からスカンジナビア半島に存在していたと言われ、現在欧州連合(EU)諸国で唯一存在する先住民でもあります。
毎年2月6日はサーミの日
1917年2月6日から9日まで、サーミ人初となる議会がノルウェーのトロンハイムで開催されたことから、2月6日は"サーミのナショナルデー"となり、毎年2月6日には、フィンランド、スウェーデン、ノルウェーではサーミの国旗が掲げられます。
ただ1917年以降、北欧各国の近代化に伴い、日本に置ける先住民アイヌ族同様、サーミ族も差別や偏見を受ける時代もありました。
その後1980年代以降、各国がサーミ族の文化を残すために法制度を整え、現在ではさらにその後の世代にサーミ文化を継承しようという試みも活発に行われています。
色々ある!サーミ族の歴史や、暮らし、文化などを知ることができる作品!
長い歴史をもつサーミ族が、どんな歴史があったのか、どんな暮らしをし、どんな文化があるのかを知ることができる作品をいくつかご紹介します。
2016年に公開された映画『サーミの血』の舞台は、1930年代スウェーデン北部のラップランド。サーミ語を禁じられた寄宿学校に通う、サーミ族の少女エレ・マリャの物語。
本作品は、東京映画祭、ヴェネチア映画祭など各国の映画祭で絶賛され、スウェーデン版アカデミー賞と言われる「ゴールデン・ビートル賞」で、「脚本賞」「編集賞」「観客賞」「主演女優賞」を受賞しました。
彼女が恋に落ちる青年がサーミではないスウェーデン人ということで、彼女がどのような選択をするのかという心がヒリヒリする作品。
サーミ族への偏見、そして差別がどのように行われていたのかも本作品を通じてよく分かります。決して軽い映画ではありませんが、観る価値がある作品です。
【絵本】 サーミ族の暮らし、文化が丁寧に描かれた「巨人の花よめ」
サーミ族は、トナカイと共に暮らし、伝統衣装を着ることでも知られています。
この絵本は、主人公のサーミ族チャルミを通して、サーミ族にとって大事なトナカイはもちろん、幸せを運んでくると言われるククサ(白樺のこぶから作られるカップ)、テント、そして民族衣装などの彼らの暮らしを知ることができます。
絵も可愛らしく読みやすいので、お子様と一緒に読んでみるのもオススメです。
【音楽】 サーミ族の伝統"ヨイク"を現代的にアレンジ ノルウェージャズユニット「ARVVAS」
サーミ族は、自然を大切にしこよなく愛し、そして自然とともに生きています。彼らは自然には霊が存在すると考えていて、自然界の声を聞くために"ヨイク"と呼ばれ歌唱を代々伝承しています。
ヨイクは、基本的に無伴奏で行われてきましたが、現代では打楽器などの伴奏が付くこともあります。
映画『アナと雪の女王』のオープニングでも、このヨイクをベースにした曲が使用され、ヨイク独特の歌唱が注目を浴びました。
ヨイクを現代風にアレンジし、ジャズと融合させたのがこちらのノルウェーのバンド「ARVVAS」です。
ヨイクを歌う女性シンガーの"Sara Marielle Gaup"と、ダブルベース兼ヴォーカル"Steinar Raknes"のユニット。
男性の太いヴォーカルと、喉を震わせているような不思議な感覚になるヨイクが重なり、心地よいアンサンブルが生まれます。
言葉を後世に残すためヒット映画をサーミ語の吹き替えで製作する試みも!
サーミ族自身が後世に自分たちの文化を伝えて行こうという試みで近年行われているのは、ヒット映画にサーミ語の吹き替えを版を製作するというもの。
これは、ノルウェーにある「International Sami Film Institute(国際サーミ映画研究所)」が主体となって行なっています。
過去には、ディズニー映画の『穴と雪の女王』なども製作され、2020年1月には、日本を代表するジブリの『千と千尋の神隠し』が、北サーミ語の吹き替え版が制作され、2020年1月16日のトロムソ国際映画祭で上映されました。
サーミの文化を後世に残していくための試みは様々な形で行われていますが、このような映画を含めた分かりやすい文芸作品に落とし込むのはとても分かりやすい試みです。
※国際サーミ映画研究所のディレクターにインタビューした記事はこちら
長い歴史の中で、差別や偏見に晒されたサーミ族ですが、現在各国の法制度整備、そして文化をしっかり後世に残そうという試み、そして"ククサ"などの手作りで作られる伝統的な民芸品も世界から注目を浴びるようになりました。
この後世に文化を伝えて行こうという姿勢は、これからも変わることなく、より多くの方にサーミ族という存在が少しずつ知れ渡るはずです。
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青森で「氷の家」作り体験会 カナダ・イヌイットのイグルー

2021-02-08 | 先住民族関連
北國新聞 2021/2/6 20:44

「イグルー」を作る体験会で、雪のブロックを積み上げる参加者ら=6日午後、青森市内
 観光資源としての雪を活用しようと、青森大学観光文化研究センターは6日、カナダ北部の先住民族イヌイットが狩猟時に建てる「イグルー」を作る体験会を青森市内で開いた。6人が協力し、約1時間半かけて直径2・5m、高さ1・5mの「氷の家」を完成させた。
 雪質によって工程が変わるといい、センター長の佐々木豊志教授や観光事業者らが「雪との『対話』がポイント」と“建築方法”を指導。参加者は踏み固めた後、雪用のこぎりでブロック状に切り出し、丁寧に積み上げていった。参加した青森市の女性(44)は「だんだん形が見えてきておもしろかった。雪への見方が変わった」と笑顔を見せた。
https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/325560

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学芸員と回る「世界」 リトルワールドで特別解説

2021-02-08 | 先住民族関連
中日新聞 2021/02/07 05:00

密を避けながら宮里さん(右端)の話を聞く人たち=犬山市今井のリトルワールド内「台湾 農家」で
 犬山市今井の野外民族博物館リトルワールドは6、7両日、「学芸員といく! 冬のリトルワールドジャーニー」と題し、展示施設の特別解説を開いている。 (三田村泰和)
 六日は五施設を一時間で回り、主任学芸員・宮里孝生さん(51)が建物の特徴を紹介した。アイヌ民族の家では「この家には寒い北海道で命をつなぐ知恵が詰まっている。故・萱野茂さん(アイヌで初の国会議員)の監修で建て、日本最南端のアイヌのコタン(集落)と呼ばれている」といった具合。
 「アラスカ トリンギットの家」ではトーテムポール頂上にワタリガラスが刻まれていることにちなみ、暗黒だった世界にワタリガラスが光をもたらした神話へと話題を広げた。
 「北アメリカ ナバホの家」では邪気から家を守るため玄関に破魔矢が掲げられていること、「台湾 農家」では風水思想が反映されていること、「ペルー 大農園領主の家」では立志伝中の日本人移民・岡田幾松(いくまつ)の現地の家を細部まで再現していることを紹介した。
 いずれも知る人ぞ知る話で、江南市と大口町から来た二十代の女性会社員三人組は「建物解説かなとたまたま参加したら、民族の文化や死生観まで聞けて予想以上だった」と喜んでいた。
 七日は午前十一時から「ネパール 仏教寺院」を起点に「タイ ランナータイの家」などを解説する。入園料のみで参加できる。(問)リトルワールド=0568(62)5611
https://news.goo.ne.jp/article/chuplus/region/chuplus-198250.html

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神戸にもあったビリケンさん…「福の神」のルーツは?

2021-02-08 | 先住民族関連
読売新聞 2021/02/07 19:45

米俵に座り、打ち出の小づちを手にする松尾稲荷神社のビリケンさん(神戸市兵庫区で)=八木良樹撮影 【読売新聞社】
 「ビリケンさん」と聞けば、大阪・新世界の通天閣にまします福の神を、関西人の多くは思うだろう。実は神戸市内の神社にも鎮座しているらしい。調べてみると、名称の由来は、米大統領がかかわっているとの説もあるのだとか。福の神になった大統領? 確かに日本には八百万やおよろずの神々がいるとは言うが……。ルーツを探った。(伊藤孝則)
大黒天?
 早速、ビリケン像があるという神戸市兵庫区の松尾稲荷神社を訪れた。
 宮司の長山竹之さん(63)に案内され、本殿の奥に進む。道すがら、氏子らから奉納されたお稲荷さんがずらり。その一角を見やり、思わずにやりとしてしまった。
 横に大きく広がった特徴的な口に、上向き加減の鼻の穴、大きく前につきだした両足。通天閣のそれとは少し違うが、まさしくビリケン像だった。
 木製で高さは約60センチ。神社では「松福まつふく様」と呼ばれているという。
 気になるのは、祭神の稲荷大明神とどんな関係があるのか、ということだ。長山さんによると、こういういきさつがあったらしい。
 大正初期、神戸・元町にあった洋食店の主人が、異国の水兵が持っていたビリケン人形をまねて作らせた。それを店頭に置いたところ、商売にならないほど見物人が殺到し、商売繁盛の御利益がある同神社が譲り受けることになった。
 よく見ると、打ち出の小づちを手に、米俵の上に座っている。それが水兵の人形に由来するのか、作者のイメージかは分からない。確かなのは、七福神の大黒天を想起させるということだ。
夢のお告げ?
 松福様には、病気平癒、学業向上の御利益があるらしい。
 長山さんに「よく見てみてください」と促されるまま、像に顔を近づけると、額あたりの漆が少しはげていた。あまたの参拝者が「我が子の頭が良くなるように」と頭をなでた跡だという。
 病人が患部と同じ部分をさすると、癒えるとされる「撫なで仏」のような、民間信仰の対象だったのだろう。
 「霊験あらたかな福の神がお見えになったらしい」とのうわさがあったのかは定かではない。ただ当時、ビリケンさんは、海の向こうからやって来た福の神として、国内で大ブームだったようだ。
 「ビリケン! かう言つただけで人はもう笑ひ顔をする、ビリケンはそれ程までに擴ひろまりそれ程までにオカシがられる」
 1912年(明治45年)2月8日付の読売新聞はこう書き出し、ブームの様子を伝えている。
 記事によると、ビリケンは1908年、米国の女性美術家の夢に現れ、「俺様の像を作ればお前の名声は世界に轟とどろく」と告げた神様という。女性は像を作り、シカゴの展覧会に出品したところ、幸運のマスコットとして大評判になり、海を越えて日本にも伝わった、と。
 ちなみに当時、足指をくすぐるとビリケンが笑うとの説明書があり、客を求める芸者らがビリケンの「頬の落ちるまで」くすぐったらしい。
大統領の愛称?
 「ビリケンさんの手は短く、足に届かないでしょう? だから代わりにくすぐってあげ、笑ってもらうことで福を授かるんです」
 そう教えてくれたのは、通天閣観光の西上雅章会長(70)だ。
 通天閣にビリケン像が初めてお目見えしたのも、先に紹介したブームまっただ中の1912年のこと。新世界にオープンした遊園地に、異国の神様としてまつられたのが始まりらしい。
 最後までひっかかった名称の由来について、西上会長に聞いた。
 結論は「諸説ある」とのこと。1908年の選挙で圧勝したウィリアム・タフト第27代米大統領の愛称「ビリー」にちなんだとも、カナダ北部の先住民族に伝わる「ベリケン」と呼ばれる人形だとも言われているそうだ。
 100年以上も前に米国人の夢枕に立ち、今も神戸の人々に親しまれているビリケンさん。コロナ禍の今はなかなか触ることもできないが、「タッチできる日が来るまで、変わらずに見守ってくれるはずです」と西上会長は話す。
https://news.goo.ne.jp/article/yomiuri/nation/20210207-567-OYT1T50075.html

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カカオ農園の隣に学校設立!チョコレート生産者が目指す「真の幸せ」

2021-02-08 | 先住民族関連
現代ビジネス 2/7(日) 8:02
 コロンビアの自社農園で採れるカカオ豆からつくられる生チョコレートの製造・販売を行う「MAISON CACAO(メゾンカカオ)」。良質なカカオならではの風味、水分量を限界まで高めたとろけるような舌ざわりなど、製品の魅力はさることながら、「MAISON CACAO」の魅力を語る核となる部分に「Farm to Customer」という理念がある。
 創始者・石原紳伍さんの心を突き動かしたのは、コロンビアで食べたもぎたての生カカオだった。そこからはじまったコロンビアのカカオ農園を舞台に繰り広げられる“生産者と生活者をつなぐ”ドラマ。芳醇な生カカオの風味を文字に乗せてお届けしよう。
日本が世界に誇るチョコレート文化をつくりたい
 遡ること7年前の秋。もともと旅好きで一年の3分の1を海外で過ごしていた石原さんは、ひょんなきっかけでコロンビアに降り立った。そこは、町全体がチョコレートの香りに包まれたマニサレスという、カカオを収穫するトラクターとチョコレートドリンクを飲む人々が行き交うにぎやかな町だったという。この地ではじめて生のカカオを食べ、そのおいしさに衝撃を受けた石原さんは、チョコレートが日常的に存在するその光景に心を奪われた。
「僕はもともと偏頭痛持ちで、チョコレート(100円台で買える砂糖が大量に使われているもの)を食べると、血糖値が急に上がってめまいを起こすことがあり、ずっとチョコレートが苦手でした。でも、コロンビアで生のカカオを食べてチョコレートの概念が変わりましたね。原料となるカカオが、こんなにもおいしいフルーツだったなんて、知りませんでしたから」
 「チョコレートが日常にある文化をつくって、世界に発信したい」
 カカオが暮らしに溶け込んだ町の光景を目の当たりにし、そんな思いが沸き起こった。
 帰国後、早速チョコレートブランドを立ち上げる準備を始めた石原さんが取り掛かったのは、コロンビアにカカオ農園をつくること。カカオ豆の生産から発酵、乾燥、ロースト、コンチング(かくはん機で滑らかにする作業のこと)までのプロセスをすべてコロンビアで行い、そこでつくられたクーベルチュール(チョコレートの原料)を日本に運び、自社工場で製品にする。つまり、カカオ豆をコロンビアから輸入し、日本で製造・販売を行うビーントゥバーではなく、種を撒いてカカオ豆を栽培するところから自分たちで行うというのだ。
 「せっかくなら二世代、三世代と、世代を超えて100年続くブランドにしたい。“文化をつくる”というのは、そういうことですよね。現地のパートナー企業と自社農園をコロンビアに保有し、生産者とともにものづくりを行うことで、彼らの生活環境を整えながら長く続く形を目指していけたらと考えました。『自社農園を保有したい』というよりは、カカオの良質なクオリティと理想的なパートナーシップを築くには必然でした」
 本店となる一号店を鎌倉にオープンした当初は、まだ自社農園を持たず、コロンビアの農家さんがつくったクーベルチュールを日本に運び、店の厨房で製造を行っていた。ブランドコンセプトに「Farm to Customer(生産者と生活者をつなぐ)」を掲げた理由のひとつに、ある農家さんから聞かされた悲痛な声があったと話す。
 「農家さんの中には、カカオ豆を買いに現地の農園を訪れ、いい話を持ちかけといてその後一向に来ないとか、ブランディングのためだけに自社農園をつくる外国人が多く、真の部分で長く付き合っていけるパートナーを見つけるのが難しいと嘆く人もいた」
 それならばと立ち上がった石原さんは、現地の農家さんの信頼を勝ち取った。その証として、自社農園を保有するだけでなく、現在2000近い現地の農家さんのカカオを使用している。汗をかきながら生産者と心を通わす石原さんの姿を想像する。一体その溢れ出る情熱はどこから湧いて出てくるのだろうか。
自社農園の近くにつくった学校は、生徒数500を超える
隣町から片道3時間かかけて通う生徒もいるため、オンライン授業ができるよう対策を考えていると話す Photo by MAISON CACAO
 石原さんの情熱は、チョコレートづくりだけにとどまらなかった。一号店をオープンさせた翌年にあたる2016年、現地のパートナー企業とともに学校建設プロジェクトを始動。自社農園の近くに学校をつくったのだ。生徒の数が増え規模が拡大するにつれ、子どもの親たちの間で農家をはじめる人が急増。契約農家が2000を超えたのも、学校が大きく関係していると話す。
 「コロンビアは麻薬大国で有名な国のひとつ。劣悪な環境下で、自閉症や言語障害を患ったり、暴力などによる虐待を受けて暮らす子どもたちを、僕はたくさん見てきました。麻薬の原料となるコカの木がなる土地は、カカオもよく育つんです。なので、カカオが育つと雇用が生まれ治安もよくなる」
 まともな教育どころか生活すらままならない子どもたちに向け、はじめは宿舎を持たず30人程度の生徒を集め、算数や国語、鶏の飼育などを教えていた。「小さな青空学校のようなものだった」とはいえ、噂が広まるにはそう時間がかからなかった。生徒の数はみるみる増え2018年には新校舎を設立。あっという間に生徒500人を超えるマンモス校となった。
 「現在は3歳から17歳の子どもたちが通っており、昨年はじめての卒業生が誕生しました。授業の内容は、第一言語であるスペイン語と英語の読み書きから水の濾過の仕方、自主性を磨くために自らがプレゼンテーションを行う科目など多岐に渡ります。歴史の授業では、麻薬の一種でもあるコカの木は、先住民族の時代は煎ってお茶として飲んだり、つらい労働を緩和させるためガムのように噛んだりと、コカの木そのものが悪いわけじゃないことなど、コロンビアで起こった出来事を正しく伝えていきたい」
 麻薬被害を受けた子どもも少なくはなく、はじめはまったく話してくれなかった生徒が、3年目にしてダンスを披露してくれるようになったりと、どんどん変化していく子どもたちの姿を見るのが楽しみのひとつでもあるという。将来、ショコラティエやアーティストにないたいという子どもたちの中には、「日本に行ってみたい」という声も多く、今後は日本との交換留学制度も視野に入れている。
誰かが窮地に陥ったら、ともにもがき苦しむ
 「新たなチョコレート文化」をつくるべく邁進する中、未曾有の事態が襲った。未だ不安な状況が続く新型コロナウイルスによるパンデミックは、チョコレート業界にも大きなダメージを与えた。けれど、石原さんは歩みを止めなかった。
 「イギリスやアメリカのメーカーにもカカオ豆を卸している契約農家さんは、多くの取り引きがストップされてしまったので、かわりに僕らが通常の倍量を仕入れています。彼らの生活を守って行きたい、そう願ってます」
 かくいう石原さんも、海外のメーカーと同じく打撃は受けているはずだ。それなのに、自分たち以外に原料を使ってもらえるメーカーを探す橋渡しもしている。昨年のクリスマスシーズンでは、セブンイレブン限定でクリスマスケーキを販売。4730円というコンビニではなかなか目にすることのないプライスにも関わらず、約30,000個の在庫が完売した。きっと膨大な量のカカオを要しただろう。
 すべてはコロンビアの生産者のため。誰かが窮地に陥ったときは、一緒になってもがき苦しむ。これが石原さんのスタイルだ。
 「この不安定な情勢の中で、キャッシュを減らすことは、あまり良い判断ではありません。けれど、僕らはビジネスではなく文化をつくろうとしているので、消費よりも価値を残していかなければならない。誰かが苦しいときは、一緒にもがいて耐え抜くことが、とても大事なことだと思います」
 なんと「MAISON CACAO」は、このコロナ禍の中、新店を3店舗もオープンさせた。さらに、雇用も減らすどころか増やしているという。逆境に強い人とは、石原さんのような人のことだ。「正しい経営判断ではないかもしれませんけどね」と笑いながら、こう続けた。
 「今僕らが動かないと、困っているたちを守ってはいけません。そして、こういう時だからこそ、自宅でチョコレートを食べたい人はいますよね。そんな方たちに向けても、当然ながらリスクはありますが、少しずつチャレンジを重ねていきたいと思います」
 かつてヨーロッパのお酒として日本に入ってきたウイスキーも、山崎や竹鶴のように日本人の舌にあうウイスキーが海外で賞賛されるようになったように、チョコレートも同じ流れが作れるのではないかと語る。
 現在「MAISON CACAO」の直営店は、本店を鎌倉に構え、横浜、大船、新宿、東京、名古屋のほかに、お茶とチョコレートをコンセプトにした「カカオハナレ」、チョコレートアートやカカオのフルコースが楽しめる「チョコレートバンク」など8店舗におよぶ。「チョコレートが日常にある文化」への第一歩となった一号店に鎌倉を選んだ理由について、こう語る。
 「武家政権が生まれた土地として、長い長い歴史がある鎌倉は、100年先も時代を切り開いていく都市だと感じています。また、鎌倉といえば僕の大好きな川端康成さんが長年暮らしていた町。『一輪の花は百輪の花よりもはなやかさを思わせるのです』という彼の名言がありますが、そんな日本の美意識が宿る鎌倉で、文化をつくっていきたいと思ったからです」
 設立当初、社名は「ca ca o」だった。創始者である石原さんの名前が入っているわけでなければ、由来を問うまでもない。直球かつシンプルなネーミングだが、caの後に設けたスペースに、生産者と生活者それぞれを表し、しっかりと「Farm to Customer(生産者と生活者をつなぐ)」という理念がつまっている。その思いをさらに100年続けていくために、昨年の春「MAISON CACAO」に改名した。
 「パリの一等地には、フランス生まれのショップがたくさんありますよね。けれど、銀座や表参道には、パリをはじめ海外のショップが立ち並んでいる。日本は職人文化が長く根付いているし、各都道府県いろんな魅力があるのになぜなのか。ひとつの文化をつくることは、日本の文化を守り、それを世界に発信していくこと。僕たちは鎌倉生まれのブランドとして、100年後もみんなにとっての『MAISON』であり続けたいと思っています」
 最後に、生産者と生活者をつなぐ架け橋として、サプライチェーンにおける世界の動向を見つめてきた石原さんに、今後の課題について聞いてみた。
 「チョコレートの場合だと、昔から途上国が農業を、先進国が製造をする縮図があり、ヨーロッパでつくられたチョコレートを他国が買うという歴史的背景があります。けれど、途上国の生産者たちも、チョコレートのおいしさや製造法を知るべきですし、途上国、先進国関係なく、チョコレートづくりに関わるみんながカカオの可能性を信じ、ともにものづくりをすることが、結果的に良いものを絶やさずつくることに繋がるのではないでしょうか。地球温暖化や貧困など課題は尽きませんが、ともにものづくりをする仲間たちとWin-Winの関係を築いていきたい」
 世界に誇る日本のチョコレート文化をつくるーー。1日で1000本以上を売り上げた「生ガトーショコラ」と定番人気の「アロマ生チョコレート」は、2019年に執り行われた「即位の礼」に参列した各国元首への機内手土産に選ばれた。石原さんの挑戦から、何事も“良質なものを持続させる”には、生産者も生活者も、誰もがみな平等かつ幸せであることが不可欠なのだと教えてもらった。
 取材・文/大森奈奈
https://news.yahoo.co.jp/articles/bb65c4b28d956b0f39923446c0d2153b2e7e7319

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