黄昏叔父さんの独り言

 アマチュア無線と何でも有りのブログ

今日の実績とアンテナ修理部品が到着 (2015/07/25)

2015年07月25日 | アマチュア無線


 今朝は03時前に目覚め4~5日目位だろうか?早朝から無線機の前に座った。現在14MHz帯のアンテナはトラップ部分の接触不良か?此処2年前からの時々の動作不良に悩まされ(CWモードの運用時は問題無いのだがSSBモードの場合は接触不良の様子)先日から輻射器を下ろして点検して居たが思い切って14MHzのトラップエレメントを外しメーカーに点検に出して居るので14MHz帯は運用する事が出来ない。此の時間では21~24MHz帯は全く聞えないので7MHz帯の逆Vアンテナで7MHz帯のCWを聞いて居たがバンドノイズが低いので弱いながらも十分に聞えて居た。


 例に寄って7MHz帯で聞える局は片っ端から呼掛けたが全く電波は届いて居ない様で大半の局が応答なし、交信出来たのは03:38JSTのJT3USAと04:55JSTのRI0NZのみJAからは近距離の海外だけが如何にか交信する事が出来た。其の後に05:45JST位に7.003MHz辺りにA61QAが出て来て目敏く見付けたJA各局が呼び倒して嫌気がさしたのか突然電波が止まった。2分間程沈黙が続いたので其の周波数を諦めて少し上に上がり掛けたら4kHz上でA61QAのCQが聞きえて「あれ?」と躊躇した分だけ呼び遅れて2番目に成ったが599-599で交信する事が出来た。


 今日は土曜日と言う事も有り50MHz帯で10時頃から待受け受信に入ったが10時15分頃から8エリアが開け始め富良野市の斉藤さん(JA8IIF)苫小牧市の清水さん(JH8CGU)北見市の菊池さん(JR8NSD)札幌市手稲区の大和田さん(JA8KGG)と其々30分間程のユックリとした会話を楽しんだが最後まで他のエリアの局とは一局も交信する事は出来なかった。其の後24MHz帯にQSYしたら埼玉県越谷市の小沢さん(JK1NAF)東京都立川市の斉藤さん(JA1WOB)と交信して13時前にQRTした。


 遅めの食事をしていたら宅急便の係りの人から電話が入り「荷物が着払いで来て居ますが今から良いですか?」との事、「何ですか?」と聞いたら「アンテナ部品の様です」との事、そんなに早く届くと思って居なかったので驚いたが10分程したら到着して現物を受け取る事が出来た。私の予想では早くて1週間後と思って居たが見積もりの電話が掛かったのが確か昨日と?思ったのだが「幾ら掛かっても直す。」と言ったので直ぐ対応してくれたのだろう。

 

 結構良い値段であっと言う間に1万円札が2枚近く飛んで行ったが早く対応してくれたので満足している。此処のブログにも何回か書き込んで居るがトラップ部分の給電部側の方にトラップの円筒部分の金属がリベットでエレメントに接続されて居るのだが此の部分のアルミが金属疲労で破断していたので2mmφ程度の銅線で代用したのだが表皮効果なのだろうか?リベット加工の面接触と違い点接触に近い処置が悪いのか?良く解らないがCWの様なキャリアの時は症状が出ないのだがSSBの場合だと送信中の信号が断続的に成って居るリポートを時々貰って居たので(SWRは1.2が1.5~2.0に変化する)給電側のエレメントとアルミの円筒間が電気的にオープンに成る為にトラップコイルと円筒の間のC(容量が変化)結果的にトラップ内の設計された共振周波数がずれる様なのだが足掛け2年以上彼是と何回も自分でアマチュア的に対応していたが辛抱が出来なく成ったので今回思い切ってメーカーで一部新しい部材に交換して貰った。出来るだけ早い段階で対応して状況を確認したいと思って居る。

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 我家のルーツ (其の一)

2015年07月25日 | その他


 最近はブログの題材にも困るように成って来た。つい最近までは他人のブログを覗くと成るとアマチュア無線関係のブログだったが私自身のブログもアマチュア無線に拘らず「何でも有り」に変えた事も有って最近は色んなジャンルのブログを参考の為に覗く様に成ったが 或る日ある方のブログを見て育った時代や周りの環境などに多くの共通点を感じ無性に懐かしく感じて私が幼かった頃の事を思い出して書いてみる事にした。


 私は昭和23年8月12日(1948年)に徳島県那賀郡羽ノ浦町(現在の阿南市羽ノ浦町)の片田舎で産声を上げた。上には兄が二人と姉が2人いて5人兄弟の末っ子として生まれたのに何故か?名前は家の長男名の「太郎」と名付けられた。長男が晴久、長女がクニエ、次男が「忍」次女が「環(タマキ)」である。次男と次女の名前は当時としては可也、斬新な名付け、此の辺に親父の真骨頂を感じる。長女の名前だけは少し歪(イビツ)な感じがするが此れは親父が戦争前に支那(今の中国)の北支鉄道に勤務して内地に居なかったので私の祖父が名付けたもの、何せ明治生まれなので此の時代の女性はカタカナ名が多かった事の名残か?上の姉から直接に聞いた事は無いが此の名前には姉自身には少し不満が有った様だ。


 私の生家は農家で耕作面積では近所の大地主に次いで2番目だったが戦後の農地解放で農地を得た小作人、其の当時、何処の家を見ても生活は楽では無かった様だが我家は5人兄弟の子沢山、家族が一番多い時には11人家族で隣近所と比較すると経済的には少し劣って居た様に思う。私の家の初代の曾祖父は「質素倹約を」旨とし可也の小金を貯めて居て孫である私の父には「お前が嫁を貰う時には此の辺で一番の家を建てれるお金を用意してあるから安心せぇ~」と常々言って居たらしいが其の曽祖父が若くして逝くと20歳の前半で後を継いだ祖父は有頂天に成ったのだろう?飲む、打つ、・・・?に夢中に成り数年で其れを使い果たした様だ。


 祖父は明治の初めの生まれだが頭を七三に分けて当時に頭にポマードを付けて芸者集を携えて豪遊する伊達男だったらしいが?私の知る爺さんは酒の飲み過ぎで中風に成った其処辺の唯の爺さんだったが少し違って居たのは貧農の爺さんが地元新聞と産業経済新聞とを朝から全て目を通し其れが終われば昼寝をし、起きると近所の銭湯の一番風呂に入り、帰り掛けに一杯飲み屋でキューと遣っていた。若い頃は近所でも指折りの働き者だったらしいが反動か?私が物心付いた時は既に仕事は全くしていなかった。親父の話では散財した金額は当時で4000円、当時、近所で一番立派な家が「1000円普請」と言われ近在の人が手弁当を持って見学に来る程で有ったそうな・・・・そりゃ豪遊出来る筈だ!ただ祖父の名誉の為に書いて置くが祖父が買った田畑や山が現在でも財産としては残って居る事と博識で親父とは違い私達孫には実に寛大な彼是言わぬ物分かりの良い爺さんで有ったし此の時代はこの様な事は良く有ったらしい。


 前にも書いたが其の飛ばっちりを受けたのは私の父親で若い頃は美術大学を目指して居たらしく将来は画家に成る事が夢だったと言う。父親の祖父は事の外、孫である長男の父を可愛がって居た様なので其の様な夢を持てたのだろうが?家が傾きかけては夢を諦めるしか無かったらしい。私は父親が描いた絵は子供の頃に一度だけ見た事が有ったが非常に上手だったが無念の思いか?父は其の後、筆は握らないと決心した事を母親から聞かされた事がある。


 それ以外では矢張り書の才能だろうか?絵と書は共通点が多いが絵を描く事と違い文字を書く事は実社会に直接繋がって居るし父親の字を見る機会は多かった。何か影響を受けたのだろうか?私も成人してから書道に興味を持ち書家に成る事を夢見て20年近く頑張った時代が有り其れ成りに精進したので親父の書いた字をある程度、正確に評価出来ると思うのだが其の経験の中で感じるのだが私が師と仰いだ東京の先生以外で楷書部門で父親を凌ぐ人は見当らなかった。正確に言うと父親の字は書道では無く、どしらかと言えば習字に近い存在では有るが単なる習字其の物では無い。


 習字は読んで字の如く限り無く御手本に忠実に写生して書く事だが書道と「道」が入ると其の世界はガラリと変わる。其処には芸術性が無ければ成らない。私流に平たく言えば「其の作品に魂の存在と其の躍動が字から感じ取れるか如何か?」と言う事と理解して居るのだが?しかし書道も基本は習字からスタートしているので其の存在は大きい。父親の作品としての字を見た事が無いので残されているのは普通の毛筆で書いた誰もが読める楷書の文字だが此れは田舎の爺さんが書いた字とはとても思えない。其処には俄仕立ての成人から修行した者と物心が付いて毛筆で文字を書き始めた世代の鍛錬の差だと思うのだが?とにかく楷書では私が遠く及ばない親父の存在があった。


 親父は酒もタバコも飲まない堅物で有ったがそれ故に何事も正面から取組む性格で物事の白黒をハッキリさせる性格で有った為に若い頃は世間から随分と尖った性格の様に思われて居たし事実、子供の私から見ても其の様に思えた。取分け子供の躾には厳しく近所の子供達には「原爆親父」と恐れられていた。従って自分の子供に対して遠慮する事は無く私も竹箒で叩かれた事も何回も有ったし親父の原爆と呼ばれるカミナリが落ちると便所に逃げ込みトイレ用の紙を入れた丈夫な箱を横向きにして腰掛けてカミナリが治まるのを只管待った経験が何度かある。流石に厳しい親父でも便所までは追い駆けて来なかったので子供心に其処は最後の避難場所であった。


 日頃の生活態度もしかり箸の上げ下げから他所で食事を御馳走に成る時は絶対に好き嫌いを言わず残すな!特に厳しかったのは魚の煮物や焼き物が出た時には箸捌きをどのようにして骨だけにして食べるか?特に私には「お前は何時かは家を出て行く身、何処へ行っても作法で恥をかかぬ様に」と厳しく教えられた。


 然し私に対する親父の対応は序の口で長男の兄に対する躾は其れ処では無く当時農家の副収入で有った「筵(ムシロ)」を編むために親父は縄を編み母親は筵を織って居たと言うか編んで居た横で兄は親父の言った漢字を毎晩、両親が夜なべをしている横の納屋の板に書かされたらしい。私と兄は8歳違いなので其の情景は私には記憶に全く無いが可也厳しかったらしく父親が亡くなった時に兄から思い出話で其の事を聞かされたが其の文字の跡はその納屋が取り壊されるまで残って居た。


 其の当時、其の内職が如何ほどの収入が有ったのか?今の私には知るべしも無いが今から60年前に60Wの裸電球一灯の元で両親が何を思い夕食後から22時頃まで毎晩、夜なべをして居たのか?と思う時、自然に目頭が熱く成って来る。親父は「何事も人に負けるな!」等とは生前一言も言わなかったが傾き掛けた家を建て直すのは子供への出来るだけの教育しか無いと思ったのだろう。自分の遣りたい事も諦めて其の後ろ姿で私達子供を導いてくれた様に思う。其の家の浮沈は三代目に掛かっていると良く言われるが親父は正に其の三代目、苦労の末に四代目の兄に引き継がれたが果たして? 次に続く

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