黄昏叔父さんの独り言

 アマチュア無線と何でも有りのブログ

 子供時代の暮らし向きと食生活

2015年07月30日 | その他


  


  私の生家は茅葺屋根で私が物心が付いた頃には周囲には茅葺屋根の家は殆ど見る事は無かった。近所は全てが農家で有ったが我家の前後の家は人手を雇いガラス戸の本体や障子戸の切り組をする木工所を経営して居り裕福な生活をしていた。我家と同じ専業農家は一軒あったが其の家は昔からの大地主で町内でも指折りの田畑を持って居て農地解放に遭ったとはいえ矢張り近所では一番の資産家であった。戦後のベビーブームの時代で其々の家には同級生や余り歳が違わない子供が沢山居たので其々の家に遊びに行き天気が良ければ外で遊ぶのだが時には座敷に上がらせて貰い遊ばせて貰う事が有ると幼い子供心にも其々の家の経済力や暮らし向きが良く解って来るのだが矢張り我家が暮らし向きは一番劣っている様に思えた。

 

 そして何より茅葺屋根の家が貧乏臭く見えて嫌いだったが其の家は私が結婚するまで住んで居て我家を現在の場所に立てる時に生家も鉄筋コンクリート建てに新築された。百姓中では妙な競争心が有り、我が家が隣近所では一番貧乏だったので我家が何か遣ると「其れ」とばかりに其れ以上の事をする風習があった。例えば新しい農機具に変えれば其れとばかりに直ぐ買い換えるし?此の事を親達が何か有ると話していたので最初の内は我家の親達の「僻み根性」と思って居たが我家が家を建て替えると1年もしない内に近所の家が必要も無いのに3軒ほど家を建て替えられたが現在は世代が代わり住む人も居ない状態に成って居る。


 この当時は戦後の大変な時期で今とは違い周りは何処も質素な生活をして居たが農家は未だ良い方で非農家の人達は我家以上に大変だった様で食べるにも困る時代で我家にも良く米泥棒が入って居た。勿論盗まれる様なお金も無いのでお米を1~2升(今の空腹を如何にか満たす程度の量)を失敬して行く程度の可愛らしい物であったが私が小学校に上がる少し前まで続いた。

 

 余談だが一番上の兄や姉が修学旅行に行く時にはお米を持参して居たらしい。其れだけ今と違いお米、其の物に価値が有ったのだろう。まあ農家に生まれた事により「ひもじい」思いだけはする事無く日々生活出来たので有難かったが逆にサラリーマンの家庭とは違い定期的な収入が無い我家は日々の決まったお小遣いを貰えなかったので毎日、昼過ぎに定期的に乳母車で巡回してくる駄菓子屋のおばさんや紙芝居の叔父さんが来た時には小遣いが無い時は其の場に居られないので一旦家に戻り適当に時間を置いて再度遊びに参加するのは子供心に感じる物があった。


 毎日食べる御飯にしても、あれだけお米が有るのに毎日の御飯は3(麦)対7(米)の割合の御飯は麦により炊き上がりの色が悪く成り子供心に「何時に成ったら毎日真白い御飯が食べられるのだろうか?」等と思って居たが此れは中学に入る前まで続き漸く真白い御飯が毎日食べられる様に成った時は、お米の値打ちの終焉であった。この頃から戦後の不景気な時代は終わり未曾有の経済発展の入り口に差し掛かり米の値打ちが下がり収入が増えない農業に対して近所のサラリーマンの人達の収入はドンドン増えたので生活面での立場は逆転し「土地を持ち米作りが最高!」と思って居た中途半端な専業農家の良き時代は終わった。


 私達には決まった日々の小遣いが無かった為に親父は屋敷周りに沢山の実の成る木々が植えて有った。無花果や大きい琵琶の木が2本、渋柿の木が4本、甘柿が2本、金柑の木、桃の木、ぐゆみの木、さくらんめの木、家周りの石垣には自生するイチゴ、そして屋敷の西側には柿木に劣らぬ馬鹿でかい山桃の木が植わって居た。勿論、柿や山桃は曽祖父の時代に植えられた物だろうが?此れ等の木の背丈は何処の家にも負けない物であった。畑ではトマト、瓜、スイカ等も自家用として栽培していたし、春には山に竹の子が秋には松茸の季節に成ると松茸御飯も食する事が出来たし(子供の頃には贅沢な物とは全く思って居なかった)今思うと旬の物を嫌程食べる事が出来て幸せで有ったが当時は竹の子の時期には毎日、竹の子を食わされ、サツマイモの時期に成ると茹で上げられたイモが おやつ代わりで、ソラマメの時期が来ると大鍋で茹でられた豆のおかずが連日続く(1週間以上)と本当に嫌に成って居た。


 今でも竹の子が食卓に時々上がるが私は見るのも嫌で「こんな物、竹で無いか?100年食わんでも良いわ!」と良く言うのだが家内は大好物「貴方は子供の頃、幸せな食生活を送って居たのね 私の様な町人の家庭では全てお金を出して買って居たので滅多に食べれなかったわ 本当に美味しいし幸せだわ」と嫌味たらしく言って4~5日掛けて平らげている。其の他にはサツマイモの茹でた物、ソラマメの茹でた物等が同列だが食卓に上がる其の度に「又、出た貴方の100年食べなくても良い物節、心配しなくても後百年は生きられないから私が全部頂きます。」と此れ又、嫌味タップリに言われる。家内はサラリーマンの家庭で育ったので毎日決まったお小遣いを貰って居たらしく子供の頃に今日は何のお菓子にするか?其れを諦めて貸本の漫画を読むか?子供心にバラ銭を手に握り締めて近所の店で葛藤して居たらしい。其の頃は1日の小遣いでサツマイモの茹でた一切れを買うと小遣いは無く成るので嫌に成る程、食べた事が無いので私の子供時代は贅沢だった言う。


 矢張り其々の育った家庭環境に寄り思いは其々に違うのだなと実感する。私は自分が家庭を持った時に、自分が子供の頃に感じた事だけは子供に味合わせたく無いと思い、子供が在る程度大きく成り自由に買い物が出来る歳頃に成ると小遣い制を導入したが其の時には可也生活様式が変り子供達のおやつ等は母親が日々の買い物の中で与えて居たので其の大半はゲームのソフトや玩具に変わり其れも親が同伴で行くので私達が日々の買い物の中で感じ取った心ときめく楽しみを知らない様に思えて成らない。

 

 従って私の息子等は買い物が非常に下手だし、お金を持って居ても物を欲しがらない。今日は私の幼少の頃の食生活を書いてみたが確かに私は農家で作る自給自足の旬の物は多く食べられたが?反面、加工した美味しい食べ物等は余り買わない質素な食生活だったので恥ずかしい話だが私の小学校低学年の頃の食に対する秘かな望みは「いた天」当時1枚が10円程度だったろうか?此れを腹一杯食べられたらどんなた幸せだろうな?と思って居た程で今言ったらきっと笑い飛ばされるに違いない。


 家の写真は兄のJA5CHQのホーム・ページから頂いて来た。右手のポールと左のポールは私が学生時代と同じだが私が使用して居た頃は左側の竹を利用したポールは赤白に塗り分けて居なかったので年代的には私が大阪の会社に就職している時代の1968~1969年頃と思われる。右側の建物の窓が開いているが此の部屋が私の寝ていた部屋で下は牛小屋に成って居て牛と同居していた。右の写真は現在の実家の写真、古い写真の田んぼを潰して新しい家を建てた為に屋敷地の面積は約倍の400坪に成って居る。結構沢山のアンテナが写って居るが現在は使用する人は居ない。今年の1月に兄は天国に召された。ホーム・ページには私とは違った切り口で色々書いて居るので興味の有る人は一読を、身内が言うのも可笑しいですが面白いです。(検索はJA5CHQで直ぐに見付かります)



















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