20階の窓辺から

児童文学作家 加藤純子のblog
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『短歌の友人』(穂村弘著 河出書房新社刊)

2009年06月14日 | Weblog
 昨日はとうとう肩こり・首凝りがピークに達して、30分おきに「鍼灸院に治療にいってこようかな」「いや、1時間かけて施術してもらっても解消されるのはいっときだし」「やっぱり、いってこようかな」と、ぐずぐずとそんな逡巡のくりかえし。
 結局とうとう行かずじまいで、CDを聴きながらソファにごろんと横になって、本を読んで過ごしていました。

 今週の木曜日に句会があるのです。
「スランプですぅ」と言い訳をしながら、ここ数年、ろくな俳句も作れない不肖の弟子を嘆き、心配して下さった宗匠が雑誌『俳句αあるふぁ』(毎日新聞社)を貸して下さったのです。
 その研究をしていました。
 なんと、そこに某氏のお名前を発見。
「αあるふぁ俳壇予選通過句」に載っていたのです。
 もう30年近く前、「季節風」でご一緒だった小学校の先生です。
「ああ、彼はいま、俳句を作っていらしゃるんだわ」
 と、そんなことに気を散らせつつ、「スランプに陥ったら先人から学び、脱出の糧にしよう」という言葉に触発され、やはり何事もたくさん読み勉強しなければ前へ進むことはできないのだ。とたくさんの俳句に触れながら句をひねっていました。

 たくさんの俳句の言葉に触れながら、ふと思いだしたのが、穂村弘の『短歌の友人』(筑摩書房刊)と言う本です。
 穂村弘は、歌人ですが、私は彼の「批評することば」の感性にたいへん興味を持っています。批評のジャンルは違いますが加藤典洋か、三浦雅士か、穂村弘かくらいに・・・。
 ですから気を散らせついでに書棚から本を引っ張り出すと読み始めてしまいました。
 その本のなかで「実感の表現」について書かれたくだりがあります。

 気がつくと短歌の世界は「実感の表現」への動きに充ちている。 (中略)
 近代短歌の伝統的な写実リアリズムに対する意識やスタンスはばらばらであるにも拘わらず、私が魅力を感じる作者の多くが「実感の表現」というモチーフを巡って作品世界を展開していることに改めて驚きと怖ろしさを感じる。
  そこに例としてあげられた東直子の短歌。

 所在なき訪問客と海を見るもろもろペンキはがれる手すり

「もろもろペンキはがれる」という具体的で小さな違和感のバリエーション。本当にあったことだ、という感覚を補強するために必須と思えばこそ、短い文型のなかでその描写に文字数が費やされているのだろう・・・。
 そして当然のことながら、そこで表現される現代のリアリティも変容している。 
 いつしか私はうなずきながら、自分の思考が俳句から短歌へそして物語へと移行していることに気づきました。
 
 そんなわけで、肝心の俳句。
 まだ出来ておりません・・・。(宗匠、ごめんなさい。今月こそ!・・・)
コメント (2)
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