今日から、水無月。
風を感じる、風待月という異名もあります。
蒸し暑い日が続くと、風が恋しくなります。
ささやかな風を待ちながら・・・。
6月は梅雨に入る季節でもありますから、ムシムシした鬱陶しさを想像しただけで、この異名の言葉に惹かれます。
梅雨の、この季節の、好きな季語。
「卯の花くたし」
卯の花は、空木(ウツギ)のことです。(写真、下、ネットでお借りしました)
でも、卯の花と聞くと、お豆腐のおからを連想する人もいるかもしれません。
空木のことを、卯の花といい、その花が腐ってしまうくらい続く、長雨のことを「卯の花くたし」といいます。
それから、この季節、聞きたくなる歌。さだまさしの「つゆのあとさき」
https://www.youtube.com/watch?v=1DIJ8ZGs5jc
(コピペして、お聴きください)
『つゆのあとさき』は、ご存知『濹東綺譚』の永井荷風の作品名です。
「つゆのあとさき」という言葉の、その美しさに惹かれ、作り上げたと思われる、別れの歌です。
彼の歌の詩は、そうした過去の名作からヒントを得て、生み出したものが多いです。
『檸檬』は、梶井基次郎の有名な名作の作品名です。ただ舞台は、京都・丸善ではなく、神保町・三省堂近くの聖橋です。
「サナトリウム」という曲は、堀辰雄の『風立ちぬ』に出てくる「サナトリウム」という言葉から連想した世界ですし、「晩鐘」はミレーの絵画。
そんな、彼の創作の手法に、30代初め、とても刺激を受けたものです。さだまさしの『時のほとりで』という新潮文庫から出た作詞集を買って読んだくらいですから。
ちなみに、もう昔のことなどで、いろいろバラしちゃいますが、さだの『時のほとりで』の次には、『中島みゆき歌集 1975~1986』(朝日文庫)も買って研究しました。
ちょうどその頃、登場してきたのが、竹田青嗣の『陽水の快楽―井上陽水論』(河出書房新社)です。
文藝評論家の竹田青嗣が、井上陽水を論じるという、新しい評論の到来に、胸をワクワクさせたものです。
陽水の、あの分裂した、ありえない言葉の連なりに、逆に、ある種、哲学性を感じたりしたものです。
「たとえば彼が描くのは、耳当たりのいい、頽落した都会のエロス的幻影だ。しかしその底には、かすかな不幸を孕んだ「めまい」が聴こえる」(陽水の快楽、より)
評論家の視点から、さだまさしは論じても面白くないが、陽水はどうにも気にかかる・・・。
そんな竹田青嗣の思いが、よくわかります。
さだまさしの、美しい日本語から選びとられた言葉とは違った、新しさがそこにはありましたから。
とはいえ、音楽です。
歌詞の、深いストーリー探しはせず、言葉の美しさとメロディーの豊かさだけに身をまかす・・・。
それが、さだまさしを聴く流儀です(笑)。
30代初め、さだまさしの、そんな、言葉のセンスが好きでした。
でもまさか、あんなおじさんになるとはね(笑)。
私も「まさか、あんなおばさんになるとはね」と言われているかもしれませんから、人のことは言えませんが(笑)。