現在の古典研究について。弁証法性の無さを感じる。これは、何故に古典=古代中国の時代のレベルを現代のレベルから、実際以上に高く見てはならないのか?との問題でもある。
現代においても、中国古代の古典と言われる『黄帝内経』等の書を研究している方はおられると思う。それらの方の思いは、「古代中国の神業のごとくの鍼灸を求めて」であると、以前に著名な古典研究の先生に伺ったことがある。
しかしながら、古典の時代を現代の人類のレベルから、実際以上に高く見てしまっては(古代中国という時代は、人類のレベルとしては未だ幼いレベルであった筈)鍼灸というものの、歴史性が歪められてしまう。
それは弁証法性というもののの否定でもあると思う。別言すれば、それでは現代の個体発生が系統発生を繰り返せないとい鍼灸の指導の問題でもあり、上達の問題でもある。ここは改めて説きたい。