「東洋医学は難しい」とはよく言われることである。これは専門外の人々からの声であるだけでは無しに、実際に「東洋医学」を学んでそれを役立てて実際の治療を行くことになる、行っていかねばならないはずの鍼灸学生、それどころかそれを教える立場である人々からも聞こえてくる声である。
では、この「東洋医学は難しい」という見解は正しいのであろうか?正しいとすれば「東洋医学」の何がそんなにも難しいのであろうか、また、間違っているとすれば何故に「難しい」となっていってしまうのであろうか、ということを考えてみなければならないと思う。
それに対しての自身の見解は、端的には、東洋医学の持つ歴史性=過程性を無視して学ぼう、学ばせようとするから難しいのであり、結果として現代の「東洋医学」の学びは、二重の困難性を持つこととなってしまっているから、「東洋医学は難しい」となるのだ、である。二重の困難性ということについて以下説いていきたい。
まず一つ目として、東洋医学で説かれる諸々のことは「信じることが難しい=感情的に受け入れがたい」ということがある。そこで説かれる諸々のことは現代の日本人の常識として「それは無いやろ〜」となってしまうことを信じてかからねばならない、にもかかわらず、疑問を持つことが許され無い、疑問を持ってもそれにはほとんど答えて貰えない、という現実がある。
例えば、鍼灸の治療の基本は「虚実に対しての補瀉」であると学ぶのであるが、ここまでであるなら、「足りないものを補って、余っているものを取り去る、ということか?なるほど」と分かっていけないでもないが、その具体が「迎随の補瀉」(経絡の流れに従って刺鍼するのが補で逆らって刺鍼するのが瀉)や「開闔の補瀉」(抜鍼するときに指で刺鍼部位を押さえる=閉じるのが補で押さえない=開いたままにするのが瀉)「転鍼の補瀉」(打った鍼を右回転させるのが補で左回転させるのが瀉)であるとされると、通常は「え〜〜〜〜?」となってしまうであろう。
また、「本当にそんなことが可能なの?」と疑問を持って質問しても、「私はトリガー(......アメリカ的、プラグマティズム的発想による、刺鍼・治療点を決める方法・治療の仕方、正式にはトリガーポイント(Trigger point))だから......」と逃げられるか、「補瀉の手技を疑うならば、鍼灸治療は成り立たない」と自身の不見識を責められる?という、まるで神を信じない宗教信者みたいな扱いを受けるだけであるから......。
そのような、現代日本人の常識レベルで考えればありえないことを信じてかからねばならないという、感情レベルの問題としての困難性が東洋医学には存在する。それゆえ、通常は、なかなかに真面目には学んでいけないのであり、「国試に出るから!」との殺し文句に、自身の感情を押さえ込んでの......であるのが大多数であると思う。(この大変さは、西洋医学を学ぶかたにはなかなかに分かっていただけないものと思う。西洋医学の場合はその知識が如何に膨大であったとしても、実際にあるものの知識なのであるから、そういう意味ではそこに疑いの余地は無いのであるから。哲学的素養のあるかたならば、「意思はそのものの内に理論的なものを含む」(ヘーゲル)であるから、といえば分かっていただけるだろうか……)
では、なんとか「東洋医学」で説かれる諸々の「迷信の類」としか思えないことを、なんらかの方法で、どうにか信じて?学べたとすれば、それですべてが上手くいくのか言えば、そこにはもう一つの困難性が存在する、ということになる。
それは何かといえば、「東洋医学」で説かれる諸々のことは、しばしば目に見えないものであるということである。例えば、「五臓六腑」や「経絡経穴」「気血津液」等々の目に見えない諸々のものが、人間の体を維持し、あるいは病気にし、しての目に見える患者の症状・状態があると説かれる、という困難性である。
この困難性は、西洋医学の生理・解剖の学びで考えていただければ、たやすく納得いただけると思う。どういうことかと言えば、目に見えないもの=機能=生理は、生理だけを分離して学ぶことは難しく、目に見えるもの=実体=解剖と一体のものとして学ぶと学びやすい、理解しやすいということである。
もっといえば、同じくに解剖・生理として学んでも、目に見えるもの=解剖からその生理=目に見えないものがイメージしやすい、例えば、循環器、消化器の働き=生理というものは学びやすいし、目に見えるもの=解剖と生理=目に見えないものとの繋がりがイメージし難い、脳の機能=生理は、学ぶのに苦労するし、知識としても学び難いということを考えていただければと思う。(もっとも、すべてを知識的に丸暗記していくならば、丸暗記していく能力を持ち合わせている方であれば、それは容易なのかもしれない、と思うが......)
以上、ながながと「東洋医学の学びの二重の困難性」について説いてきたが、ではその「二重の困難性」にいかに対処していけば良いというのか!?ということが問題となる、と思う。
そのことに正解レベルで答えるには、自身の実力はまだまだ不足であると思えるので、詳細には改めて説きたいが、一般的端的には、「東洋医学」を歴史性=過程性=弁証法性のあるものとして、捉え返しての学びに尽きるのではないかと思う。
より具体的には、その古代中国における誕生から現代に至る歴史性を人類の精神の歴史性と重ねて学ぶことであり、実際に自身で生理=機能=目に見えないものの学びを、解剖=実体=目に見えるものとの学びとの統一で学んでいくことで、人間の生理=機能=目に見えないもの、がしっかりとわかった上での、その運動形態をイメージできた上での、「東洋医学」の学びでなければならないのでは、と思う。(そういう意味では、西洋医学の解剖・生理の学びは、東洋医学の学びにおいても必須であろうとは思える。)
では、この「東洋医学は難しい」という見解は正しいのであろうか?正しいとすれば「東洋医学」の何がそんなにも難しいのであろうか、また、間違っているとすれば何故に「難しい」となっていってしまうのであろうか、ということを考えてみなければならないと思う。
それに対しての自身の見解は、端的には、東洋医学の持つ歴史性=過程性を無視して学ぼう、学ばせようとするから難しいのであり、結果として現代の「東洋医学」の学びは、二重の困難性を持つこととなってしまっているから、「東洋医学は難しい」となるのだ、である。二重の困難性ということについて以下説いていきたい。
まず一つ目として、東洋医学で説かれる諸々のことは「信じることが難しい=感情的に受け入れがたい」ということがある。そこで説かれる諸々のことは現代の日本人の常識として「それは無いやろ〜」となってしまうことを信じてかからねばならない、にもかかわらず、疑問を持つことが許され無い、疑問を持ってもそれにはほとんど答えて貰えない、という現実がある。
例えば、鍼灸の治療の基本は「虚実に対しての補瀉」であると学ぶのであるが、ここまでであるなら、「足りないものを補って、余っているものを取り去る、ということか?なるほど」と分かっていけないでもないが、その具体が「迎随の補瀉」(経絡の流れに従って刺鍼するのが補で逆らって刺鍼するのが瀉)や「開闔の補瀉」(抜鍼するときに指で刺鍼部位を押さえる=閉じるのが補で押さえない=開いたままにするのが瀉)「転鍼の補瀉」(打った鍼を右回転させるのが補で左回転させるのが瀉)であるとされると、通常は「え〜〜〜〜?」となってしまうであろう。
また、「本当にそんなことが可能なの?」と疑問を持って質問しても、「私はトリガー(......アメリカ的、プラグマティズム的発想による、刺鍼・治療点を決める方法・治療の仕方、正式にはトリガーポイント(Trigger point))だから......」と逃げられるか、「補瀉の手技を疑うならば、鍼灸治療は成り立たない」と自身の不見識を責められる?という、まるで神を信じない宗教信者みたいな扱いを受けるだけであるから......。
そのような、現代日本人の常識レベルで考えればありえないことを信じてかからねばならないという、感情レベルの問題としての困難性が東洋医学には存在する。それゆえ、通常は、なかなかに真面目には学んでいけないのであり、「国試に出るから!」との殺し文句に、自身の感情を押さえ込んでの......であるのが大多数であると思う。(この大変さは、西洋医学を学ぶかたにはなかなかに分かっていただけないものと思う。西洋医学の場合はその知識が如何に膨大であったとしても、実際にあるものの知識なのであるから、そういう意味ではそこに疑いの余地は無いのであるから。哲学的素養のあるかたならば、「意思はそのものの内に理論的なものを含む」(ヘーゲル)であるから、といえば分かっていただけるだろうか……)
では、なんとか「東洋医学」で説かれる諸々の「迷信の類」としか思えないことを、なんらかの方法で、どうにか信じて?学べたとすれば、それですべてが上手くいくのか言えば、そこにはもう一つの困難性が存在する、ということになる。
それは何かといえば、「東洋医学」で説かれる諸々のことは、しばしば目に見えないものであるということである。例えば、「五臓六腑」や「経絡経穴」「気血津液」等々の目に見えない諸々のものが、人間の体を維持し、あるいは病気にし、しての目に見える患者の症状・状態があると説かれる、という困難性である。
この困難性は、西洋医学の生理・解剖の学びで考えていただければ、たやすく納得いただけると思う。どういうことかと言えば、目に見えないもの=機能=生理は、生理だけを分離して学ぶことは難しく、目に見えるもの=実体=解剖と一体のものとして学ぶと学びやすい、理解しやすいということである。
もっといえば、同じくに解剖・生理として学んでも、目に見えるもの=解剖からその生理=目に見えないものがイメージしやすい、例えば、循環器、消化器の働き=生理というものは学びやすいし、目に見えるもの=解剖と生理=目に見えないものとの繋がりがイメージし難い、脳の機能=生理は、学ぶのに苦労するし、知識としても学び難いということを考えていただければと思う。(もっとも、すべてを知識的に丸暗記していくならば、丸暗記していく能力を持ち合わせている方であれば、それは容易なのかもしれない、と思うが......)
以上、ながながと「東洋医学の学びの二重の困難性」について説いてきたが、ではその「二重の困難性」にいかに対処していけば良いというのか!?ということが問題となる、と思う。
そのことに正解レベルで答えるには、自身の実力はまだまだ不足であると思えるので、詳細には改めて説きたいが、一般的端的には、「東洋医学」を歴史性=過程性=弁証法性のあるものとして、捉え返しての学びに尽きるのではないかと思う。
より具体的には、その古代中国における誕生から現代に至る歴史性を人類の精神の歴史性と重ねて学ぶことであり、実際に自身で生理=機能=目に見えないものの学びを、解剖=実体=目に見えるものとの学びとの統一で学んでいくことで、人間の生理=機能=目に見えないもの、がしっかりとわかった上での、その運動形態をイメージできた上での、「東洋医学」の学びでなければならないのでは、と思う。(そういう意味では、西洋医学の解剖・生理の学びは、東洋医学の学びにおいても必須であろうとは思える。)