庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

塩屋の順風

2012-10-28 22:22:00 | 海と風

今日の塩屋海岸には、安定した腰の強い西寄りの風が入っていた。火曜日以来5日ぶりの順風だ。私の海通いは、多くの愛好家が楽しんでいる散歩やジョギングと同じで、午後の日課になっている。3日も海風を吸わないと、なんだか身体や頭の中に良からぬガスが溜まったような気分になる。

もう何年も前から、午前中は頭を使い、午後は身体を使い、夜はできるだけ何も使わないでボケーとすることを、生活パターンにしたいと計画し、それなりに実践してはいるが、もちろん計画通りにいかないことがあるのは、いい加減な人間の宿命として仕方のないことである。
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昼過ぎに到着した時点で6~7m。私のラムエア19㎡ちょうど良い風だ。若干南西よりから寄せ来る波の様子では、上がっても8m余りだろうから、10mまでは何とか使える19㎡の許容範囲だが15㎡でも充分走れる。私は大体ゆったり跳びたい時は大きいサイズを、少しクイックな回転技やトランジション(方向転換)をしたい時は小さいサイズを選択する。

私の風読みの仕方が、ウィンド・サーフィンの時代と違うのは、海面をなめるように吹き渡る風の強弱によって、色の濃淡や波高・波質を変える海面の様子だけでなく、上空の雲の様子や、頬をなでる時々の風の質の変化にも注意を向けるようになった、ということだ。 

これは長い空の生活で身に付いた習慣で、カイトサーフィンでは、人間はほとんど海の上を走ってはいるが、カイトウィングは飛行翼として空中を走っている。半ば以上はスカイスメ[ツの一分なのだ。 

この海岸にまともな西寄りの風が入ると、時によってはヘッドに近い波が入る。いくらか遠浅になっているので、沖ではそこそこの波長を持ったスウェル(うねり)が入り、海岸近くではきれいな巻き波を何層か形作って、ちょっとした波乗り気分になれる。この辺りでは貴重な浜だ。 

前回は、風こそ不安定だったが、少し沖のうねりはショルダー程度はあり、このエリアでは久しぶりのウェイブ・ライディング(みたいなもの)を味わった。今日はちょっと速めの順潮(風向と潮流が逆で、風上に向かって上りやすくなる)だったので、小さな波は尖り気味の潮波に変じて、あんまり面白いものではなかった。 

しかし、徐々に西に傾いて行く太陽を反射する海面で千変万化する波の様子を観察しながら滑走したり、適当な波頭を見つけてジャンプや回転を繰り返したりしながら、私はある想いに浸っていた。私の場合、しばしば起こる、ほとんど日常的な出来事である。 

「これらの風も波も空も光も、そして、こうやって、その中で動き、感じ、考えている自分という存在も、全てが確実に連続しながら繋がっている、一つの壮大で同時に繊細な世界の出来事である・・・」というようなことだ。 

まあ、当たり前といえば当たり前のことなのだが、この感覚を、人間社会の日常で味わうことはそう簡単なことではないかもしれない。


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風のとらえ方

2012-10-28 00:03:00 | 海と風

ずっとインドア志向の青年だったS君が、海の広大な優しさや、風の力用《りきゆう》に目覚めて2ヶ月が経過しようとしている。カイトの練習もすでに15回を超えて、機材の取り扱いにもだいぶ慣れてきたようだ。優しい風の晴天日には、一人でイソイソと近くの浜まで出かけるようになった。もうじき板を履いて、海上でそれなりの走りをするようになるだろう。

もちろん海の上を走るだけがカイトの世界ではない。空の世界に習って私が「グラハン」と呼ぶ地上練習は、地上や雪上で行うランド・カイトの類と考えていいだろう。これはこれで、充分に楽しく奥も深いことは、これまでの練習生や彼の様子を見ていると良く分かるし、私自身も日常的に味わっていることだ。3b8d752c.jpeg

頭上10mほどの風をとらえたカイトウィングは、上下左右、極めて広い範囲で運動しながら大小のエネルギーを様々な方向に向けて発生する。

そして、その豊かなエネルギーは、ハーネスの中心フックを通して、ほぼ人の重心にあるヘソ近辺に集まることで、ひとたび体内に取り込まれ、グラハンなら脚に伝わって、サンド・スライディングやちょとしたジャンプに姿を変える。

そのまま海に入れば、サーフィンの一類にボディー・サーフィンがあるように、ボディー・ドラッグという一つのスメ[ツや遊びになり、板(ボード)を履けば、なじみのカイトサーフィンになる・・・等ということだけのことである。

これも空気の動き、つまり風を利用するナチュラル・スメ[ツの仲間であることは間違いないが、カイトスメ[ツが他の多くの風読みスメ[ツと大きく異なるところは、とりあえず思いつくだけでも、次の三点ほどあるように思う。

・その動力源が、作用部分(身体)からはるか20mも離れたところにあり、しかも、大きく三次元空間で動き回るということ。

 ・その動き方によって多様に変化する動力の作用点が、身体の一点に集中すること。

 ・その動力が、身に付けた道具(カイトボードやスノーボードやスキーなど)に直接伝わらないということ。

これら極めて大きな自由度を含む特性が、具体的にどういう影響を人間の身体や心に与えことになるか・・・最近の私の関心は、この辺りにあって、その視程は、風の本体である空気の性質や、空気の動きを生み出す地球の動きから、それを大きく包み込む大宇宙の世界にまで及ぼうとしている。これはコトの必然の流れだと思う。

アイルランド僻地の一軒屋や小さなヨットの中で風に吹かれながら、あの大作『風の博物誌』を書いたライアル・ワトソンは、風を、その常識的定義である「空気の運動」に止まることなく、「風とは生命である」と見極めた上で、彼にとって可能な限りの、実に多岐にして広範な科学的解説を試みた。そして、それで充分だとは、もちろん思っていなかったにちがいない。変転、代謝して止まない生命活動の全体像を、合理的に分析し法則化し完全に再現することなど、到底不可能なことだからである。

しかし現実に、そこに風は存在し、その本質は生命に似て、人間の生命の内側に吹き込みながら、活力や喜びや勇気を与え続ける。やはり、私の風の世界に対するアプローチの方法は、論理と直感、形而下と形而上の領域の交わるところ辺りにあるのかもしれない。


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