katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

くじら教室とプチっと看板と明日の準備

2025-01-07 06:49:11 | モザイクタイル教室

今日はくじら教室なんだけれど、展示販売用のグループ展に出展する作品作り。下地は作っていたが、文字は彫っただけだったんで、文字が見づらい・・

ただ色々と大人の都合があって、リスクをこれ以上負う実験じみた事は避けたい。そんな訳でオイルなら少しだけ色が変わるし、今よりも見やすくなれば、

・・・って事で、俺がそれをやっている間にぺきぺきでクラッシュ入れ。そんな中、出来ればこれも少し入れたい・・・となり、急きょ彫って・・・

そしてもう一つはそのまま・・・

流石にそこそこ良い時間となり、ラッカン部分を赤くしたいらしく、そこは自力で・・・となり終了となったのね。ただ世の中、何処を探しても俳句を

こんな形で発表している人はいないから、恐らくとても目を引くと思うのね。勿論、それは参加者や一般の人だけで無く、画廊の人もね・・・。

こう言う事が俺には大事で、例えば常識と言うのなら、俳句は色紙や短冊の紙の出展だと思うのね。それはきっと松尾芭蕉だったとしても・・・ね。

つまりこれはとても非常識で邪道なものになる。ただどうだろうか?果たしてそう言う扱いになるか?なのね。もし万が一、良いなぁ・・・とか、素敵とか、

称賛よりの声があったら・・・そしてもし売れたら・・・非常識や邪道が常識や王道へ向かって行く瞬間なのかもね。そしてこれは単なるアイデアに過ぎず

特許も無いから、もっと彫るのが上手い人にお金を積めば、もっと良いものになるだろうし、もっとくじらより有名な俳人で、もっと大きな画廊ならもっと

良く見えるだろうね。つまりもしかすると、これがそうなる足掛かりの一歩になるかも知れないのなら、提案試作作品になった・・・って事なのね。

世の中では、常にこう言った事は行われていて、俺は石ノ森章太郎さんの仮面ライダーV3で習ったのね。要するのに1号と2号の力の合体がV3って事で、この

場合は、同じライダーの血の合体だから、普通なんだけれど、怪人の方が、それまでは、蜘蛛男やカマキリ男のように、バッタのモチーフのライダーと戦う

スタイルだったが、カメとバズーカ砲を合体したカメバズーカーって怪人が出て来るのね。つまり相交えなかったものを合体させる・・・。考え方はこれ。

こんなの世の中ではいくらでもあって、クラッシックなどを音大の人達は普通に習っていて、そのまま普通なら何処かの楽団へ・・・って言うのが王道。

でもアコーディオンのCOBAさんとか、King Gnuなんて言うのは、音大出てポップスみたいな感じに、その実力を分野に取り入れる。だから新しい。

でもそれを切り開くのが難しいだけで、みんな実力者なのだから、やれる実力はあるはずだけど、プロって言うのはお金を払ってでも欲しいって言われて、

なんぼの世界。出来ても何も意味が無いのね。それが俺の比喩では、韻を踏まえて、神かゴミにしかならない世界・・・と言ってるんだけどね。

話は戻って、要するに同じ分野の考え方では、同じ事しか生まれない・・・って考え方が革新であって、王道側は、伝統、継承、格式・・・こう言ったものを

大切にし、王道に君臨する。つまり革新は何も無い輩にはやりやすいし、何代目なんて言う世襲には必要の無いもの。って図式になる。つまりくじらは、

生き方として俺と同じで革新で無ければ、生きる道は無いはずなのね。だってそもそも俳句って言うのは、年功序列のようにどんなに歳を取っても出来る。

だからくじらの年齢では落語のように、ひよっこ扱いになりやすい。しかも若手でも無い。常に言っている、小学生なら大人顔負け、高校あたりなら、若い

のに凄いとか、後は巨匠のような受賞歴を持っているとか、メディアに出ているとか・・・こうしたものを持っているかどうか?に価値観が生まれるから、

それを買うお客さんは、そう言う事も考慮に入れたりする。勿論、青田刈りのような感覚なら、若いうちに・・・ってこの子の作品を・・・なんて事もある

のね。つまりその分野の一番多い層は、人数が多い分、目立つ事が難しいのね。何も特典が無いから。単にこんな事が理由の1つになるものなのね。

だからこそ、俳句そのものはいつものように作れば良いが、いかにトリッキーでも良いから、知って貰う、見て貰う、って言う読む俳句じゃ無くて、見せる

俳句って考え方があると思うのね。これは俺のモザイクの考え方で、タイルは建築、タイルは丈夫、タイルは四角、タイルは・・・うんざりだわっ。

判った、判った、いつまでもそうやってろっ。俺は見せるタイルってそそのかして行くから。ただメーカーも考えていて、四角から異型だったり、タイルを擬木

に見せたり、ポップな印刷をしたり・・・生き残りに必死なのね。でもね、いくら異型が出来ても、プログラムして順番を変えても、簡単に真似が出来るのね。

だって並べただけだから。特許でも取れれば良いが、果たして模様なんて特許取れるのかな?って言うのと、それほどの価値が無いと、守る為にそんなにお金を

掛けられるかな?ってな話。でも制作する技術・・・つまり作業って言う誰でも出来る事では無く、誰にも出来ない事、価値観こそがオンリーワンになる。

簡単に真似されちゃうものはオンリーワンとは言わないのね。だから安く見えるのね。そう言う点では、これも見せれば出来る人はいっぱいいる。ただね、

一体いくらするんだろうか?・・・俺はくじらは生徒だし、実験作品だから破格でやったけれど・・・。まっ巨匠クラスなら、金なんかいくらでもあるかぁ。

まっ、いずれにしても、一石を投じる・・・って作品になれば、やったかいがあるって事になる。そんな後はプチッと看板。

もう何も考える事は無いから、時間が解決。作業って所に来たって感じなんで、かぐやと明日の麻布小の打ち合わせ用の資料作り。

まぁ手ぶらでも、相当練っているから大丈夫だと思うけれど、本気さ加減を見せないとならないんで・・・。ただ本気を出すって言うのは、予算を度外視して

考える事になる。ただ良いものにする為にだけ・・・しかも自分が作るのでは無く、一度も何もモザイクをやった事の無い子供達で・・・。ここが重要。

そもそもこう言う時は、悪意を持って言葉にした方が伝わりやすいのね。つまり音楽会や運動会、遠足・・・なんでも良いけれど、練習無しでいきなり本番

・・・そんな学校行事ある?って事。しかも学校に永遠に残す。本来なら、これが一番練習すべき行事なのね。そもそも学校行事は思い出ってはかなく終わる

ものなのね。例えば音楽会。練習を何時間しても失敗するかも知れない。でも録音されたとしても、それを見るのは関係者のみ。後はその日が記憶に残るだけ。

運動会も遠足もそう。これらは全て、花火大会や書道みたいに、一瞬のパフォーマンスの為に時間を費やす側なのね。所が物が残る側、つまりモザイク画。

こんな場合、自分が死んでも壊されない限り、永遠にそこに残る・・・つまりへっぽこ、失敗、駄作・・・語り継がれる恥をさらす事になる。しかも、もし

区の予算、都の予算、寄付・・・他人を巻き込んだ場合、責任の重みは大きい。何しろ世の中は、タダで見たり、聞いたり、食べたりしたとしても、

批評は厳しく、こんなの・・・って制作側を叩く事は日常である。勿論素晴らしければ、称賛があるのだが。これが神かゴミの比喩なのね。

しかも今回は子供達が・・・って優しい目って言うのもあるが、予算が少なければ、こんな予算で・・・となっても、もしそこそこな予算だったとしたら?

ここが難しいのね。塩少々とか、だんだん強くとか、曖昧な表現って言うのは、個人差があるのね。ランチが500円以内なんて言う人もいれば、2000円

なんて普通でしょ?なんて人だっている。つまり麻布の人達のそこそこな金額っていくら?って事になった時に、そんなに出してこれ・・・。では、永遠に

責任者の俺のせいになり、お手柄なら校長先生をはじめ関係者の皆さんの尽力となる。何故なら、俺の作品では無いのだから・・・あくまで監修。

執刀医では無く、ベテラン看護師の役。まぁトラベラーズナースって話かな?でもある意味、とても厳しい役回りなのね。むしろ大門未知子とか、ニノとか、

江口さんのようなスーパードクター役の方が責任を負いやすい。だって俺のせいだから・・・。ただそれも冒頭のくじらの話と一緒で、こんな企画が世の中に無ければ、先人になる。

だからやる。つまり俺の今回の役目は知恵・・・ほぼそれのみ。

 


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