今日はまずご近所のリピーターさん教室。あじさいを始めて2回目。前回と違って細かいパーツがずっと続くんで、どんな感じかな?と思いきや、特に何も変わらず最後まで乗り切っちゃったから、もう心配無さそうだし、タイルを切るって事に何も問題が無いのなら、作品のグレードも上がって行くし、
結果が良くなるから楽しく続けられそうなのね。そんな後は、夕方の中学生教室なんで、それまではデイ・サービスのフクロウの印鑑立て下地。
これが中々の手間の掛かる下地で、土台になる下地はガタガタに上下を切って穴を開けて、印鑑立ての部分の木に穴を開けてから半丸に切るのが2つ、更に目になる部分を切って・・・結局、ここまでしか終わらなかったのね。勿論、夜もやったんだけれど・・・。この後、土台の裏側を彫って、
タイルを張る木を取り付けて、更に全体のペーパー掛けと、オイル塗り、そしてフック・・・ってまだまだ工程が残っているのね。流石にこれはやり過ぎだったかな・・・と思うんだけれど、デイ・サービスはワークショップの提案の為の毎月の練習だと思っているから、何しろ体験なのね。
あぁこんな事すると、こんだけ時間が掛かるのかぁ・・・とか、これやるには、この道具があったら良いなとか、この木では無いなとか、あれこれ考えさせられたり、色んな発見があるのね。だから、ここで体験練習をさせて貰っている・・・って考え方で無いと、この値段で・・・なんて、
事だけでは考えていないのね。とは言え、流石にこれはやり過ぎなのね。この工程の多さは中々なのね。そんなこんなで中学生教室。
1cmタイルを切っているんだけれど、何しろ切るのだから勝手に細かくなってしまうのね。しかもこの切るって言葉の意味の解釈なのね。例えば、今のウチの生徒さんの作品では、杏さんのウチの犬作品。徹底的に同じパーツの繰り返しなのね。これは狙って切る最高なパーツなのね。
例えば、あれを見た時に大抵の人達は、これってこんなパーツがあるんですか?って聞くのね。これって凄く無い?だってまるで既製品として売っているの?って言っているようなもので、きちんと揃っているとでも言われているようなものなのね。この表現に値するのが狙って切る、最高だとする。
そう考えると、彼のパーツはちょっとゴツゴツした感じに見え薄いから、表現としては割ったって言う流動的なパーツであって、左側のパーツは、この形に切る・・・って狙って切っている必然的なパーツであるのね。勿論不慣れであったり、細かったり、色んな理由があるんだけれど、誰でも
平等に出来る事があるのね。それが意識なんだけれど、例えば、書道だったり、演奏だったり、料理だったり、感じが掴める話で進めると、まず嫌いな側の人だと、書けば良いんでしょとか、弾けば良いんでしょとか、作りゃ良いんでしょ・・・になるのね。勿論、アトリエにはいないけれどね。
すると結論としては、真似る意識が薄いから、大体こんな感じだろっ・・・って、ほぼサンプルとかお手本とか、レシピをザックリとしか見ないのね。では反対に意識は高く、しかも手先が器用と来ている・・・そうね、ウチの生徒さんなら棟梁って感じかな。
そうなると、意識が高いからどんな分野であっても、凄く良く見ているのね。だから始まる前にかなりシュミレーションが出来ているから、先生のこれをこうします・・・的な説明をほぼ聞かなくても出来てしまうだろうね。つまり既にサンプルを見て盗まれちゃっているのね。
それは当たり前で、サンプルと言うのは弱者救済なものなのね。つまりその会場で一番不慣れな人がいても、作れます・・・ってものであって、器用な人に合わせたものでは無いのね。つまり器用な人は時間が大きく余るのね。そこで早めに終わった順に帰れるのなら、それはそれで良いけれど、
中々手強いツワモノは、その時間にあれこれ始めるのね。まぁ結果は見なくても判るだろうけれど、サンプル超えをしちゃうのね・・・大幅に。これが両極端な例だとすると、その間になるって人が普通って人で、先生の進行通りに進んで行くのね。例え判っても、復習時間にしたりしてね。
その時に、アップアップで付いて来る人もいれば、余裕があったりする人もいて、当たり前だけれど、差は出るのね。ここなのね。この体験で辞めてしまえば、差はほとんど出なくて済むのね。でも長く続くとしたら、段々と時間が掛かる事をしようとするのね。いわゆる大作になる。
勿論、その大作って言うのは、その人その人の時間を掛けるもので、今までの最高なら、例え10時間でも大作なのね。その時に、長く続ければ、当然テクニックとかが付いて来るでしょ。それだけで上手くなると思う?違うのね、それと同時に意識が必要なのね。何をどうしたいか?ってね。
この意識って言うのが難しいのね。何故なら、意識が低くても続ければ手慣れる。手慣れれば結果も付いて来る。では上手くなった事は何?それが技術って目に見える事なのね。例えば、大根を切る。それなら俺にでも出来る。しかし、おでんとお味噌汁では切り方が違う。当たり前の話。
それが手慣れると、おでんの時はこう、お味噌汁だからこう・・・って使い分けが出来たりする。しかも皮を剥くとか、面を取るとか、下茹でとか、基本も知ったりしてね。それが時短なんて言うと、またあれこれあったりするんでしょ?これがテクニックみたいな話になるのね。
でも、俺のような駆け出しは、えっと・・・この場合は・・・って思い出さないと、久しぶりに・・・なんて事になるから、モタモタするのね。これが初心者。この中の話では意識って部分が無いが、意識って言うのは、どうして下茹でしなくちゃ行けないんだろう?とか、何でこうなんだろう?
疑問を持ったりすると、モノには必ず理由があったりするから、その理屈が判ると、これは必要だな・・・これは要らないんじゃ無いのかな?みたいに判断する能力が付くのね。判断力・・・ほらまた目に見えない力の話になった。つまり目に見える能力は判りやすい結果が出るから、是正もしやすい
けれど、目に見えない、判断力なんて言うのはどうやって身に付ける・・・って話なのね。これが身に付かないと、オリジナルを作ろうとする時に、先生次は何をすれば良いですか・・・の繰り返しになるのね。これはレシピとか、図面、楽譜が基本の伝統や格式側の生徒さんなら良いのね。
それがオリジナルは常に考えるって言う事が付きまとうのね。その時に、どちらから風が吹いている?とか、悲しげに弾いて見るとか、ウキウキする料理とか、まずタイトル的なものを決めたりして、それきっかけで展開するとか、比喩を使って、まるで何々のように・・・って擬人化して見たり、
何しろいちいちあれこれ考えるものなのね。その始まりみたいなのが、すべすべな肌とか、クルンとした髪とか、カーンとゴーンの違いとか、繊細って言うのは、こんな話になるのね。すべすべな肌に見せる切り方って?・・・明らかに角があったら駄目でしょ・・・クルンって何?
何周かな?とか、ここも角があっては行けないだろうし、カーンは洋風な感じで軽め、ゴーンはお寺みたいに、その言葉の意味を何処まで感じられるか?なのね。その意識の繊細さがあって、それを持っているテクニックなどで表現をするって事になるから、ある程度、切れるって技術が身に付いたら
、いよいよその意識が必要になるのね。それは思うように少し切れるようになったからなのね。そもそも最初に意識が高すぎると、腕が付いて行かないから、ことごとく思った通りにはならないのね。でもそこそこ切れれば、かなりの確率で成功する事になる。でも意識が低いと、色だけ真似したり
大体とか、こんなもんだろっ・・・みたいにザックリするから、そこまでの腕は必要なくなるのね。だから、ただ細かくすれば良いとか、大きいと楽とか、思い込まずに進めると、最後は良い作品が出来るものなのね。後から結果は付いて来るって言うのは、こんな意味なのね。
そんな事を踏まえて、彼は一体何処の部分の何を作っているんだろう・・・って意識をすれば、もっと良くなるはずなのね。