昭和の戦争の時、開戦は重臣や軍部のリーダーシップによるもので、天皇も止めることができなくて不本意ながら受け入れた――という説が広範に信じられている。
えっ、そうなの? なんでもかんでも「天皇陛下」の名の下に行われたのでしょう? そういう時代だったのでしょう? 素朴な疑問に返ってくるのは、明治憲法は立憲主義だったから昭和天皇も自由勝手にはできない、という単純な答えだ。
しかし一方で、連合国に対して降伏受諾をしたとき、軍部の反対にもかかわらず昭和天皇の英断によって無条件降伏を受諾したとも言う。国民の苦労をおもいやって我が身のことを考えず、平和のために降伏受諾したという。
戦争を始めることは、時の内閣なり軍部なりの力で決めた。立憲主義の法治の制約があって、昭和天皇は自らの意思に反して承認せざるを得なかった。
戦争を終わるときは、天皇自身が連合国への降伏受諾を裁断した。昭和天皇は国民の苦難に思いをはせ日本の先行きを憂えて、軍部の戦争継続派を押さえた。
戦争を始めたのは内閣と軍部で、昭和天皇に開戦責任はない。
戦争を終わらせたのは昭和天皇で、戦争遂行の責任は内閣と軍部にある。
これでは理屈が通らない。
昭和天皇の政治的地位は最高位にあった。最高位にある者が、下位の者たちに責任を負わせて生き延びる形だ。
なぜ、沖縄は米軍との戦争で敗亡しなければならなかったのか?
なぜ滅ぼされなければならなかったのか?
日本本土を守るためだと言う。日本本土への上陸攻撃を遅らせるためだと言う。しかし沖縄攻撃が始まるころ既に、日本本土各地はくり返し無差別爆撃を受けていた。沖縄戦に向かった戦艦大和でさえ、沖縄のはるか手前、屋久島西方海域で撃沈された。
このように本土は既に蹂躙され、本土防衛できる見込みも立っていなかったのだから、沖縄戦が日本本土防衛のためという名目は信用できない。
本当のところは、日本降伏の条件を有利に運ぼうとするための一石であり、時間稼ぎだったのだろう。1945年6月、沖縄県滅亡。
しかも、沖縄を犠牲にしてもなお飽き足らずに、戦争指導部は、降伏の条件として国体護持(国体を守る=昭和天皇の命または地位を守る、天皇が交代しても天皇制は守る)ということに執着した。
昭和天皇を含む政軍官の戦争指導部は、国民を守るために降伏条件を模索していたのではない。
昭和天皇を含む政軍官の戦争指導部は、自分たちが連合国から戦犯として追及されることなく、そして昭和天皇と天皇制を守るための降伏条件にこだわっていた。
帝国の戦争指導部がそこにこだわってもたついている間に、ヒロシマ・ナガサキが原爆で皆殺しにされた。1945年8月、広島市・長崎市滅亡。
沖縄・広島・長崎だけではない。全国くまなくというほどに爆撃された。数え知れない家族が住まいを焼かれ失い、職を失い、死傷し、離散した。
南方戦線では何十万という将兵が遠征地に送られて命果てた。遠征地に向かう海路で、輸送船撃沈とともに丸ごと消滅した陸軍部隊がいくつもあった。
日本人だけで軍籍死者数230万人、一般人の死者数80万人という。戦場にされたアジア各地の死傷者数はもっとあるだろう。
その一方、昭和天皇を先頭に、将軍たちの大方、政治家のほとんど全部、皇国聖戦のための兵器生産でもうけた有力経済人たちは、戦後まで安全に生きながらえた。占領軍によって危害を加えられることはなかった。
それだけでなく、戦時中の日本の政経軍官の戦争指導者たちのうちの多くが、日本の新たな支配者になったマッカーサー司令部に惜しげもなく協力して、敗戦後を有利に生き抜いた。昭和天皇はその筆頭である。
冒頭写真は、昭和天皇がマッカーサーに服属し、代わりにマッカーサーが昭和天皇個人と天皇制の生存を保証するという政治的な意義を、国内外に示した記念写真である。
1945年(昭和20年)9月27日、米大使館公邸で昭和天皇・マッカーサー初会見の時に撮影。8月15日から僅か1カ月余り後のことであった。
開戦時の東条英機首相は連合国によって、戦犯処刑された。
戦争の当事者として日本で最高位の政治的地位にあり、絶対的権威を体現していた昭和天皇はどうか。
戦争についていかなる責任も負わなかった。
それどころか、日本の兵士・一般人や日本軍の戦場にされたアジア各地の人々を、戦争の犠牲者にしたことに対する罪の意識さえなかったように思われる。
昭和天皇の本当の関心事は一貫して、自身の生命の存続と天皇家の存続 (=天皇制の延命) であった。
<2017.8.14.追記> 敗戦後、昭和天皇が沖縄の米軍占領の長期化をアメリカに進言していた、という驚くべき事実も明らかになっています。
(参照クリック)<資料文書掲載> 昭和天皇1947年9月 マッカーサー元帥に提案、「沖
縄・琉球諸島」を米国の軍事占領とし 25年~50年以上の米国租借地に