川本ちょっとメモ

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飢饉無きにしも非ず

2010-10-22 15:46:33 | Weblog


私は林間ドライブが好きです。緑濃い川沿いの山間の道をゆったり走るのが好きです。ふと気の向いたところで車を止めて、川に下りてみたり、狭い狭い支線の路を二、三十メートル偵察に歩いてみたり。木々の香りがします。やわらかい風に微妙な気温の変化を感じます。そんなことが好きです。

でも今年は熊が人里に出ることが多く、けが人も次々に出ています。今年は林間ドライブに行っても下車は危ないな。家人とそう話しています。

気候異変のおかげで食料不足。ヒトの領域に熊が出てくるのは、私たちヒトへの警鐘でもあります。下に飢饉・餓死の記録をひろい出しました。藤木久志著「飢餓と戦争の戦国を行く」(朝日選書)の巻末「日本中世の旱魃・長雨・飢饉・疫病年表」から西暦1400年代前半だけピックアップしました。飢饉は、明治に至るまで、数年に一度は避けられないもののようでした。

日本史を見ると農作物不作の原因はおおかた、天災では、日照り、大雨、大風です。日照りのうち大敵の旱魃について、今では農業用水路が至るところにはりめぐらされています。大雨洪水についても、治水の改善は1400年代とくらべるのも愚かといえます。土木技術や農業技術の発展のおかげで、今では私たちが飢餓に直面することはありません。

でも、天候の加減で野菜の出荷減少はよくあることですし、今年は近海で取れる魚種にも変化があり、南方化しているとニュースが伝えていました。夏の高温続きでお米のできぐあいも悪いそうです。

とりあげた年表のほかのところには「皆損」とか「損亡」とか「不実」ということばが数多く出てきます。農作物がほとんど全部実らなかった、おおかた実らなかった」という意味でしょう。天候のしだいでは、飢饉の年が将来に訪れないとも限りません。

昭和20年の日本。戦争のおかげで都市部ではたいへんな食料不足でした。食べ物を手に入れるのにとれほど苦労したか、その苦労話を亡き母からよく聞きました。それは天災によるものではありませんが、「食料不足」の話題に敏感であるゆえんです。



1401年 天下大飢饉(加賀)
1402年 陸奥飢饉(陸奥)
1404年 天下飢饉(信濃)
1405年 大飢饉、餓死(越中、会津)
1406年 春飢饉(京都・諸国)、天下大飢饉(諸国)
1407年 大飢饉(諸国)
1408年 大飢饉(京都・越中)
1409年 大飢渇、人民死(越後)
1411年 春飢饉(京都)
1412年 大飢饉、日本大飢饉(会津)、飢渇(山城)
1414年 種食失、御年貢一粒もなく(丹波)
1419年 関東諸国飢饉(下野)、飢饉(関東)
1420年 人民多餓死(諸国)、天下大飢饉(京都)
1421年 大餓死(能登)、大飢饉、人民多死(京都・諸国)
1424年 飢饉、人民多死(加賀)、大飢饉、、人民多死(会津)、飢疫人多死(京都)
1427年 大飢饉、人死(陸奥)、人死(京都・陸奥・関東)
1428年 大飢饉、天下人民多死(甲斐)、飢饉餓死(京都)
1429年 天下大飢饉、人民多死(京都・諸国)
1431年 大飢渇(越後)、洛中辺土飢饉・餓死(山城)
1433年 飢饉(西国)
1434年 餓死多(京都)
1437年 大飢饉、人多死(関東)
1438年 去年霖雨、今年飢饉(京都)、諸国飢饉(諸国)
1444年 日焼損、飢渇(丹波)
1448年 飢饉(能登)、大飢饉(紀伊・京都)


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