川本ちょっとメモ

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「表現の自由」に思ったこと 「私はシャルリ」から「ヘイトスピーチ」へ

2015-01-20 17:17:59 | Weblog



 パリの日常風景の中でフランス週刊紙「シャルリー・エブド」襲撃大量殺人事件が起きた。平和な日常生活の都市で、無抵抗の人が12人も殺されれば大量殺人と言っていいでしょう。殺人犯の訓練された戦闘スタイルと携行武器の種類に驚くとともに、恐怖を覚えました。地中海を中にして、ヨーロッパとテロ震源地帯とは地理的に近い。また歴史的にも交流が長く、おたがいの思いが錯綜し、差別の構造もあるでしょう。しかし、日本だって他人事ではありません。 (※本稿アップロードから1時間余り後の午後7時NHKニュースで、イスラム国による安倍首相宛ての日本人2人殺害予告と身代金要求ニュースを知りました。安倍首相はイスラエル訪問中です。「積極的平和主義」に対する反応でしょう。)

日本人であっても不安
中東地域では、日本人の旅行者やジャーナリストなどがテロの犠牲になっています。日本人も安全ではありません。もっと衝撃的だったのは、アルジェリア・イナメナスの日揮プラント襲撃です。人質23人と武装勢力32人が死亡したとアルジェリア政府が発表しています。日揮プラントの日本人従業員17人。うち10人が殺されました。

この襲撃はテロ事件のイメージでなく、戦闘でした。1個小隊の非政府軍戦闘兵が警備兵のいるプラントを奇襲占拠し、アルジェリア政府陸軍が奪い返したという表現の方が事実に合っているでしょう。

中曽根、小泉、安倍などのようなパフォーマンス総理が出て、アメリカやヨーロッパ諸国の前で歌舞伎役者よろしく見得を切るたびに、こうした被害の危険度が1ランク上がっていくような気がします。

第一報への素直な感想
「シャルリー・エブド」襲撃第一報に接したとき、そのときの素直な反射的感想は、「またやったか、イスラムはなんであんなに人を殺すのか」でした。ヨーロッパで「言論の自由を守れ」という声が空を揺るがすほどに湧きあがり、フランスでは「私はシャルリ」デモに340万人と報道されました。「さすがヨーロッパは日本とは違うなあ」という感想が心に持ち上がりました。単純で情動的な感想に、我ながら自分の底の浅さを見る思いです。

一方で、「言論の自由を守れ」と声を張り上げれば、「預言者ムハンマドへの侮辱を許すな」というこだまが一層大きく跳ねかえるだろう。それはまたどこかで、自動小銃殺人や爆弾無差別殺人になって表れるだろう、という恐れも私の心に持ち上がりました。この場合、「言論の自由を守れ」という正義が、「預言者ムハンマドへの侮辱を許すな」という正義とぶつかり合って、○X式の正解がありません。


 ヨーロッパでの大規模な抗議デモから日を置かずに、イスラム系諸国でシャルリーエブド紙掲載風刺画に抗議するデモが続きました。ロシアのチェチェン共和国は人口130万人の大半がイスラム教徒だそうです。「イスラムは平和と善の宗教だ」などと書かれたプラカードを持つ人たち80万人が首都グロズヌイの通りを埋めつくしたと、1月20日の新聞が伝えています。

そして、このたびの襲撃殺人から、「表現の自由」のあり方についてさまざまな議論も提起されています。その中から毎日新聞「みんなの広場」への読者投稿2本(1月19日掲載)を転載します。

<みんなの広場1>
真の表現の自由とは? 冒とくや単なる悪口との線引きは?

  フランスでのテロをマスコミは「宗教」対「表現の自由」の闘いのように報道しているが、正しい認識なのだろうか? 疑問に思う。

 イスラム過激派の人々は、本当にイスラムの神様の御心(みこころ)をわかっているのだろうか。今、預言者ムハンマド(マホメット)が生きていたら、テロによる戦いを善しとしただろうか? 正々堂々、同じ土俵で、つまり、言論で戦っている可能性もあるように思う。

 そして、他人が崇拝しているものを冒とくすることが真の「表現の自由」なのだろうか? 冒とくや単なる悪口と「真の表現の自由」とは、どこかではっきりと、線引きをする必要があるのではないだろうか?

今回のテロは、イスラムの神様の御心を勘違いしている人々と、他人に対する尊敬の念と理解する心を忘れて、ただの悪口を「表現の自由」だと勘違いしている人々との戦いなのではないだろうか? お互いの認識力の限界が生んだ「神」と「隣人」への理解不足が根底にあるのではないか。

<みんなの広場2>
「表現の自由」の行き過ぎでは ヘイトスピーチも

 フランスの週刊紙襲撃事件は全世界に大きな衝撃と恐怖をもたらした。この容疑者や背後にあると思われるテロ組織の行動は当然非難されるべきであり、世界が一致団結して対処していかなくてはならない。

 しかし、その一方で週刊紙の風刺に問題はなかったのか。民主主義の中で「表現の自由」は認められているが、行き過ぎた面があったのではないか。フランスの別の週刊紙は以前、福島原発に絡めた風刺画を掲載、被災者の心を傷つけたと批判を浴びたことがある。

 相手のことを考えず、自分の考えを一方的に表現することにより傷つく人もいることを肝に銘じるべきだろう。人格を否定することや宗教をけなすことはその人の存在自体をも揺るがすことになる。このような表現の自由は許されるのであろうか。ヘイトスピーチも同じことである。相手を思いやることなく、法で認められているから権利を行使するという考えでは、全世界の調和はいつになっても図れないと考える。

学んだこと
私は上の2本のみんなの広場読者投稿を、自分自身の反省の糧として心に銘じようと思いました。

自分の意見を話すとき、ヘイトスピーチと同じ立ち位置になっていないか。心ない悪口非難の類に陥っていないか。一刀両断の語りに陥っていないか。いつも立ち止まって顧みなければいけないことを学びました。

また、「私はシャルリ」への違和感についての記事、1月20日毎日新聞「発信箱」の一文から次の引用文に同感したしだいです。


「気をつけたほうがいいのだ、何事もきっぱりと語るひとには。です、であります、なのであります。語尾ばかりをきっぱりと言い切り、本当は何も語ろうとしていない。ひとは何をきっぱりと語れるのか?」(長田博・長詩『嘘でしょう、イソップさん』から)


――小泉元首相、そうでしたね。安倍現首相、そうですよね。 橋下徹大阪市長も、小泉進次郎衆議院議員も、そうです。

 
「私はシャルリ」という言論の自由へのフランスのスローガンが、「ヘイトスピーチ」という日本の問題に併置されたとき、にわかに切実な問題として迫ってきました。上に学んだ精神を忘れずに、身を処していきたいと思います。

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<私のアピール>
 2012年末の安倍政権成立以後の短年月、武器輸出3原則を廃し、特定秘密保護法の新設、憲法9条解釈変更の7・1閣議決定(集団的自衛権ほか)と、先行き不安な政策ばかり急激に推進されています。第2次大戦後の日本において安倍政権は最も危険な政権です。安倍内閣が倒れるまで、来夏参議院選挙で自民党に“No”を。


 

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