明治以後のわが国による外国領土内戦争への反省に立ち、わが国が平和立国、環境保護立国を国是にして栄えていくよう願って、過去記事を建国記念日に移して掲載します。
2017.11.02.
作家・石川達三 「言論の自由」貫いた生涯 発禁になった従軍小説「生きている兵隊」、特高拷問描いた「風にそよぐ葦」
2017.10.25.
転載「改革者の顔した権力に用心」吉岡忍・日本ペンクラブ会長(毎日新聞2017.10.20.)
【中国侵略戦争(15年戦争)年譜】
1927(昭和02) 第一次中国山東省出兵 金融恐慌
1928(昭和03) 第二次山東省出兵、第三次増派出兵、日中両軍衝突
関東軍の工作 → 中国・瀋陽駅近くで張作霖・列車爆殺
1930(昭和05) 世界大恐慌(前年NY株暴落)、1932年ごろまで大不況
1931(昭和06) 関東軍の謀略(鉄道爆破)で満州事変(=戦争)始まる
1932(昭和07) 満州国建国、 第一次上海事変 ※事変=戦争
1933(昭和08) 日中両軍が山海関で衝突
国際連盟脱退
1937(昭和12) 盧溝橋事件を機に日中戦争始まる、 第二次上海事変
12月、日本軍が南京占領
1938(昭和13) 張鼓峰事件―満州ソ連国境で日ソ両軍戦闘
1939(昭和14) ノモンハン―満州ソ連国境で日ソ大規模戦闘、日本完敗
1940(昭和15) 日中戦争を因として戦争を一気に拡大 北部仏印進駐
※仏印=仏領植民地=ベトナム、カンボジア、ラオス
1941(昭和16) 日中戦争を因として戦争拡大の一途 南部仏印進駐
太平洋戦争始まる(ハワイ・真珠湾攻撃))
1942(昭和17) シンガポール占領、フィリピン・マニラ占領
ミッドウェー海戦敗北、以後戦勢悪化の一途
1943(昭和18) ガダルカナル島大敗、アッツ島全滅
1944(昭和19) サイパン島全滅、南洋島嶼戦で全滅つづく
日本本土爆撃始まる
日本軍50万を投入して中国大陸打通作戦
食料補給等不足、進軍途次で物資を徴発略奪
東南アジアでも補給途絶、徴発略奪をくり返す
1945(昭和20) 日本全国都市で敗戦まで無差別爆撃つづく、 原爆投下
沖縄戦で県民悲惨なめに遭う
中国,遼寧省の遼東半島南部にあった日本の租借地。現在の大連市一帯。日露戦争勝利の成果として、ロシアの租借権益を継承した。
◎関東軍
関東州(中国遼東半島大連市一帯の日本租借地)と満州(中国東北部)に駐留した日本陸軍。
◎満州国
日本が中国東北部を侵略して建国した占領地国家。1945年(昭和20年)8月日本敗戦で消滅。
■小説が書かれ発売禁止になった戦争続きと言論統制の時代
まず、上の中国侵略戦争(15年戦争)年譜を見てください。「生きている兵隊」という小説がどんな時代のことを書き、どんな時代に発売禁止にされたのか。あらかじめ知っておいていただきたいと思います。
1937年(昭和12年)7月7日、北京郊外盧溝橋というところで日中軍隊間で発砲事件があったのを端緒に始まった戦闘が、たちどころに日本軍の進撃で拡大します。これが中国本土内での全面戦争に広がって1945年(昭和20年)敗戦までつづきます。
東南アジアや西太平洋一帯に広がった日米戦争も、日中戦争継続のため、あるいは日中戦争の成果を獲得するため、あるいは中国支配を確立するための戦争だったと言えます。日本は日米戦争に負けたというのが敗戦解釈の一般的認識です。しかし日米戦争は日中戦争を因として派生しています。大きな戦争ですが、日米開戦経緯の観点に立てば「日中戦争から派生した戦争」です。だから昭和の敗戦は「日中戦争の敗戦」と見るのが本質です。
■小説の舞台は南京攻略戦 1937年8月~1938年1月
石川達三の「生きている兵隊」という小説の書き出し第1行は、「高島本部隊が太沽(ターター)に上陸したのは北京陥落の直後、大陸は恰度残暑の頃であった」とある。
盧溝橋発砲事件は1937年(昭和12年)7月7日で、この小説は残暑の季節から始まる。8月下旬と見てよいでしょう。小説で描かれる部隊は当時の中国首都・南京攻略に向かって進軍する。
1937年(昭和12年)12月13日、南京陥落。「生きている兵隊」は12章節。10章節の第1行に「年末が来て、正月が来た」とあり、登場人物が上海から所属部隊にもどるため、「一月十二日の早朝北停車場から貨物列車に便乗して南京に向かった」とある。
ゆえに、生きている兵隊が、小説の中で描かれているのは、1937年(昭和12年)8月下旬から1938年(昭和13年)1月末までの間です。
1章節に、「翌朝、未明に出発命令が下った。石家荘まで行軍。道は殆ど十五里もあった」とあるところから、小説の中で南京に向かって行軍が始まる地点は、中国河北省石家荘市から数十キロあたり。石家荘市域人口は現在約460万人なので、大都市である。
石家荘市郊外数十キロの場所を1937年(昭和12年)8月下旬に進発して、南京攻略戦後まだ生々しい1938年(昭和13年)1月末の南京で終わる。小説は、この行軍の間の戦闘生活というか、戦場生活の実態を描いています。
1935年(昭和10年)の芥川賞作家である石川達三は、中央公論特派員として従軍することになりました。南京到着は、1938年(昭和13年)1月5日。南京攻防戦が終わってから3週間後のことでした。
「南京市民は難民区に隔離され、町のなかにゴロゴロと死体がころがっていて、死の町という言葉がピッタリでした。はじめて目撃した戦場は、ショックでした」と、石川は述懐しています。
(注) 南京難民区(安全区)……南京の米国人学者を中心に住民保護のための南京安全区国際
石川は南京で8日間、上海で4日間、精力的に取材してすぐに帰国しました。1938年(昭和13年)2月1日から10日間、寝る時刻にも眠らず、眼の開いている時間は机に座りつづけて原稿330枚を書き上げたと言います。
書きたい。書かねばならない。伝えなければ…。いてもたってもいられない気持ちのままに。
「私としては、あるがままの戦争の姿を知らせることによって、勝利におごった銃後の人々に大きな反省を求めようとするつもりであった」と石川は言います。
■「戦場中国で戦争生活している」兵隊を描いた
実際にあった史実を歴史書で読むことに加えて、小説仕立ての物語を重ね合わせて読むことによって、史実がいきいきとして起き上がり、目に見えるように活躍するものです。
わたしは戦争を題材にした小説や体験をこれまでに数々読みました。その中に、同じ中国での日本兵の戦争の現場、その史実を詳細に書いた「天皇の軍隊」本多勝一・長沼節夫共著(朝日文庫)があります。わたしが読んだのは20年以上前のこと。1991年9月1日文庫版第1刷です。今は絶版のようですが、中古本や図書館では読むことができます。
ふつうに市井で生活しているありふれた人間が、本国の日常生活ではありえない戦争生活という特別な環境下で、「殺傷略奪」が普通のできごとになって痛みを感じない日常生活を送る。そして生きて帰国できると、戦場生活など想像もできない、ありきたりの善良な市井の生活に帰っていく。
小説『生きている兵隊』はそういう小説です。それは、「戦闘で殺されることを何回も免れて、まだ生き残っている兵隊」を描写した小説です。それは「戦場中国で戦争生活している兵隊」を描写した小説です。戦争生活の描写が事実を描写しているからこそ、発禁になりました。
わたしはまた戦場にされた中国の住民の境遇に思いがとらわれます。そしてそこから思いはまた戦争難民へ。
中国人のように斬られたり突かれたりはされなかったが、沖縄県民は米軍の集中砲火と爆撃に見舞われて同様の境遇に陥りました。無差別爆撃の的になった日本本土の国民も難民となりました。ヒロシマ、ナガサキの市民は絶滅です。海外の日本支配地に移住した日本人は敗亡流浪の民になりました。
日本軍の攻撃にさらされた中国人だけでなく、米軍の攻撃にさらされた日本人も、朝鮮戦争でもベトナム戦争でも現代の中東戦乱でも、戦場にされた場所で生活していた住民の多くは、家族親類知人友人の誰かを失い家を失い住処を追われ、手荷物だけで逃げ惑う難民にされる。難民になるのではなく、難民にされるのです。
戦争生活の赤裸々なところを描いているので、「あるがままの戦争の姿を知らせる」という石川達三の意図は、銃後であれ戦場であれ、戦争生活を知っている人がほとんどいなくなった現代においてこそ、執筆当時以上に価値が高い。
「生きている兵隊」は、店頭に並ぶ前に発売禁止になりました。当時は言論統制の厳しい時代でしたから、伏字だらけにして出版・発売しようとしたのですが、それでもやはり発売禁止処分になりました。そういうことが予測できる時代に、そういうことになりそうな小説を書いた石川達三にも、出版・発売を試みた中央公論社にも、その勇気は賞賛に値します。
わたしは、どこかの書評か広告を見て、(伏字復元版)というのに魅かれて、中公文庫2015年6月10日14刷版の「生きている兵隊(伏字復元版)」を読みました。本文には伏字であった部分に線を付して印刷されてあります。読んだのは14刷版が出てからそんなに日が過ぎていないころだったと思います。
この文庫本からいくつかの文章を次にご紹介いたします。
[生きている兵隊 89ページ]
その翌日の正午ちかくであった。
古家中隊は約五百メートルばかり前進したがそこで深い一条のクリークに直面した。石の橋がかかっていたが敵が退却と同時に破壊してあつた。平尾と近藤とは倉田少尉の命令をうけて舟を徴発に行くことになった。
クリークの土堤は水面まで四尺ほどの高さで遠くまでうねっていた。人家は五六町の下手に二つ三つかたまっている。舟はそ早まで行かなくては見つけられまいと思われた。
敵味方の機銃射撃はほとんど小止みもなく続けられ、時おり迫撃砲弾が特殊な唸りをあげて空を切っていた。二人は土手の下に沿うて水際の枯草と支那兵の死体とをまたぎながら腰をかがめて下流に走って行った。
三町ばかり走ったときに近藤が射撃の音に消されないために大きな声で後に怒鳴った。
「おい、平尾、姑娘がいるぞ、ほら、生きてるんだ!」
指したのはクリークの向う側の土手であった。そこの斜面の枯れた楊柳のかげに身をかがめて一人の女がうつ伏せになっていた。幅十メートルにすぎないクリークを越えて彼女の姿ははつきりと見た。白い顔を上げて二人の方を見ているのだ。農家の若い女房であった。
「子供を抱いとるじやねえか!」平尾は慄然として叫んだ。彼女はその胸の下に乳呑児を包むようにしてかかえていた。
二人は立ちどまる暇もなく走った。
「何だってあいつ、こんな所を、うろうろしてやがんだ」
平尾は気になるらしく息を切りながらまだそう言っていた。
人家に辿りついたがそこには舟は見えず、更に二町ばかり下手まで走って漸く彼等は舟を見つけることが出来た。
二人は桿[棹]を使って大急ぎで漕ぎのぼって来た。そしてあの百姓女が居たところまで戻って来たときに、彼等は乳呑児のはげしい泣き声を聞いた。女は水際までころがり落ち手足をのばしてあお向けに伸びていた。その彼女の胸の横でまだ這うこともできない嬰児がうつ伏せになり枯草のなかに鼻を突っこんで泣きわめいていた。女のこめかみから細い血が糸を引いてながれ耳朶に黒く溜まっていた。
平尾は艫に立ったまま桿[棹]をじっと握ってその二人を見つめていた。近藤は皮肉な笑いを洩らしながら舳でせっせと漕いでいた。
「平尾」と彼は言った。「あの児も殺してやれよ。昨日みたいにな。その方が慈悲だぜ。あのままで置けば今晩あたり生きたままで犬に食われるんだ」
[生きている兵隊 93ページ]
友軍はさらに敗残の兵を追うて常州に向い、西沢部[聯]隊は無錫にとどまって三日間の休養をとった。生き残っている兵が最も女を欲しがるのはこういう場合であった。彼等は大きな歩幅で街の中を歩きまわり、兎を追う犬のようになって女をさがし廻った。この無軌道な行為は北支の戦線にあっては厳重にとりしまられたが、ここまで来ては彼等の行動を束縛することは困難であった。
彼等は一人一人が帝王のように暴君のように誇らかな我儘な気持になっていた。そして街の中で目的を達し得ないときは遠く城外の民家までも出かけて行った。そのあたりにはまだ敗残兵がかくれていたり土民が武器を持っていたりする危険は充分にあったが、しかも兵たちは何の逡巡も躊躇も感じはしなかった。自分よりも強いものは世界中に居ないような気持であった。いうまでもなくこのような感情の上には道徳も法律も反省も人情も一切がその力を失っていた。そうして、兵は左の小指に銀の指環をはめて帰って来るのであった。
「どこから貰って来たんだい?」と戦友に訊ねられると、彼等は笑って答えるのであった。
「死んだ女房の形見だよ」
[生きている兵隊 112ページ]
兎もかくも南京だ。みなはそう思っていた。生きて入城するにしても死ぬにしても、兎も角も南京攻撃までは生きて行かなくってはならない。もしも命を全うして南京に入ることができたならば、この一ヶ月の戦塵を洗いおとしてゆったりとした休養をとることも出来るだろう。もしも首都の陥落をもって戦いが終るものならば、華々しい凱旋の日を迎えることも出来るだろう。
そういう希望と夢を抱きはじめた彼等に小さな戦慄を与える事件が起ったのは丹陽滞在の二日目、十二月四日の正午ごろであった。
第三部[大]隊の加奈目少尉が部隊の警備状態を巡視して帰る途中で殺された。
彼はある露路の曲り角で、日向にぼんやりと立っている十一二の少女の前を通りすぎた。少女は過ぎて行く少尉の顔色をじっと仰向いて見つめていたが、少尉は気にも止めないで彼女の立っている前をすれすれに通った。そして三歩とあるかない中に彼は後から拳銃の射撃をうけて鋪道の上にうつ伏せに倒れ、即死した。
少女は家の中に逃げこんだが銃声を聞いて飛び出した兵はすぐにこの家を包囲し、扉を叩きやぶった。そして唐草模様の浮き彫りをした支那風な寝台のかげに踞って顔を伏せている少女に向ってつづけざまに小銃弾をあびせ、その場に斃した。この家の中には今一人の老人がいたが彼もまた無条件で射殺されることになった。
こういう事件は占領都市にあっては屡々くりかえされることで少しも珍しくはなかったが、相手が全くの非戦闘員であり、しかも十一二才の少女であるということが事件を聞いた兵たちの感情を嚇と憤激させた。
「よし! そういう料簡ならかまう事はない、支那人という支那人はみな殺しにしてくれる。遠慮してるとこっちが馬鹿を見る。やれ!」
事実そのために幾人の支那人が極めて些細な嫌疑やはっきりしない原因で以て殺されたか分らなかった。戦闘員と非戦闘員との区別がはっきりしない事がこういう惨事を避け難いものにしたのである。この少女のような例もー二には止まらなかったが、焦立たせる原因となったものは、支那兵が追いつめられると軍服をすてて庶民の中にまぎれ込むという常套手段であった。所謂良民と称して日の丸の腕章をつけている者の中にさえも正規兵の逃亡者が入っているかも知れない。また、南京が近づくにつれて抗日思想はかなり行きわたっているものと見られ一層庶民に対する疑惑はふかめられることにもなった。
「これから以西は民間にも抗日思想が強いから、女子供にも油断してはならぬ。抵抗する者は庶民と雖も射殺して宜し」
軍の首脳部からこういう指令が伝達されたのは加奈目少尉事件の直後であった。
[生きている兵隊 114ページ]
こういう追撃戦ではどの部隊でも捕虜の始末に困るのであった。自分たちがこれから必死な戦闘にかかるというのに警備をしながら捕虜を連れて歩くわけには行かない。最も簡単に処置をつける方法は殺すことである。しかし一旦つれて来ると殺すのにも気骨が折れてならない。「捕虜は捕えたらその場で殺せ」それは特に命令というわけではなかったが、大体そういう方針が上部から示された。
笠原伍長はこういう場合にあって、やはり勇敢にそれを実行した。彼は数珠つなぎにした十三人を片ぱしから順々に斬って行った。
彼等は正規兵の服装をつけていたが跣足であった。焼米を入れた細長い袋を背負い、青い木綿で造った綿入れの長い外套を着ていた。下士官らしく服装もやや整い靴をはいたのが二人あった。
飛行場のはずれにある小川の岸にこの十三人は連れて行かれ並ばせられた。そして笠原は刃こぼれのして斬れなくなった刀を引く抜くや否や第一の男の肩先きを深く斬り下げた。するとあとの十二人は忽ち土に跪いて一斉にわめき涎を垂らして拝みはじめた。殊に下士官らしい二人が一番みじめに慄えあがっていた。しかも笠原は時間をおかずに第二第三番目の兵を斬ってすてた。
[生きている兵隊 140ページ]
十二月十三日、西沢部隊は峯つづきの天文台を通って山を下り城外を迂回して下関停車場に入り更に碼頭に出て、一ケ月あまりで再び揚子江の水を見た。
友軍の城内掃蕩はこの日もっとも凄壮であった。南京防備軍総司令[官]唐生智は昨日のうちに部下の兵をまとめてゆう江門から下関に逃れた。ゆう江門を守備していたのは広東の兵約二千名であった。彼等はこの門を守って支那軍を城外に一歩も退却させない筈であった。唐生智とその部下とはトラックに機銃をのせて、このゆう江門守備兵に猛烈な斉射をあびせながら城門を突破して下関に逃れたのであった。
ゆう江門は最後まで日本軍の攻撃をうけなかった。城内の敗残兵はなだれを打ってこの唯一の門から下関の碼頭に逃れた。前面は水だ。渡るべき船はない。陸に逃れる道はない。彼等はテーブルや丸太や板戸や、あらゆる浮物にすがって洋々たる長江の流れを横ぎり対岸浦口に渡ろうとするのであった。その人数凡そ五万、まことに江の水をまっ黒に掩うて渡って行くのであった。そして対岸について見たとき、そこには既に日本軍が先廻りして待っていた! 機銃が火蓋を切って鳴る、水面は雨に打たれたようにささくれ立ってくる。帰ろうとすれば下関碼頭ももはや日本軍の機銃陣である。――こうして浮流している敗残兵に最後のとどめを刺したものは駆逐艦の攻撃であった。
[生きている兵隊 175ページ]
前線に戻って見るとやはり血腥い話ばかりであった。
一昨日の午後城外へ野菜を購買[徴発]に行った兵が二人行方不明になった。そこで昨日は早朝から五十人の兵が手分けして彼等が行ったと思われるあたり一帯の民家を虱つぶしに探しまわった。
一軒の家でたしかに兵が持っていた記憶のあるシガレットケースを塵芥捨場から発見した。彼等は惨殺され池にでも棄てられたものであるに違いない。
兵隊はすぐにその付近の民家に居る支那人全部を引き連れて来た。そして誰がやったか白状しなければみんな殺してしまうと脅かした。犯人は五人の男たちであった。勿論彼等はその場で処刑された。
笠原はそこで処刑の有様を説明した。
「まるでお前ゴム毬に水を入れて棒で、ぶんなぐった様な工合だな。ぼこという様な手ごたえでな、血がちゅちゅちゅ! そして流れた血から湯気がもやもやあと昇ってな」
中橋通訳は昨日の午後、首巻きにするものがほしくて洋服屋の二階へ上って行った。掠奪されつくして反物などは何一つない散乱した二階の仕立台のかげに、二人の若い女が赤裸になって死んでいた。鉄の鎧戸を半ばおろしたほの暗い床の上で死体の肌の白さが浮びあがって見えた。一方の女は乳房を抉り取ったように猫に食われていた。通訳は彼女等の衣服を死体の上にかけてやった。
「あの女は子持ちなんですよ。乳臭かったから猫が食ったんだ、きっとね」
彼はそう言って床の上に唾を吐くのであった。