川本ちょっとメモ

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1967年、吉田茂氏「国葬」は佐藤栄作首相(当時)の恩返しという私情ではないのか

2022-08-01 04:58:46 | Weblog






 佐藤栄作元首相による吉田茂氏国葬決定の理由を読みたかったのですが、見つけることができなかった。その代わりに追悼の辞を読むことができました。
  



   
1967年10月31日
   
故吉田茂国葬儀における佐藤内閣総理大臣の追悼の辞
        
[出典] 佐藤内閣総理大臣演説集,159 − 162ページ


  吉田茂先生は,明治十一年自由党の領袖竹内綱氏の五男として出生、幼にし
 吉田健三氏の養子となり、同三十九年東京帝国大学を卒業、直ちに外交界に入
 り、中国や欧州等の勤務を経て、あるいは外務次官として、あるいは駐伊、駐
 英大使として活躍された後、昭和十四年退官されました。

  戦時中は権力に屈することなく、あらゆる圧迫を排し、戦争終結のため身命
 を賭して尽力されたことは周知の事実であります。

  昭和二十年終戦となるや東久邇内閣及び幣原内閣の外務大臣として困難を極
 める終戦処理業務に挺身されたのであります。昭和二十一年に第一次吉田内閣
 を組織して以来、二十九年十二月に至るまでの間、五たびにわたり総理大臣の
 重責を担われたのでありますが、この時代は、われわれ日本民族にとつてまこ
 とに忘れることのできない苦難の時代でありました。

  今日ではもはや想像だにつかない国土の疲弊、民心の混乱のなかにあつて祖
 国日本は新しい民主主義を生み出さんとする陣痛の苦しみを味わっていました。

  有史以来はじめての敗戦、占領軍の進駐というきびしい現実に国民の大半が
 民族的誇りと自信を失なわんとしたとき、先生は内閣の首班として、この事態
 を冷静に直視しつつその奮起をうながし、卓越した指導力によつて、すべてを
 国家再建の一点に結集すべく努められたのであります。

  かくて昭和二十一年には新憲法の公布をみ,祖国再建の礎石がうちたてられ
 ました。また先生は、戦後最大の課題である講和問題について、筆舌に尽しが
 たい辛苦を重ねられ、昭和二十六年サンフランシスコ対日講和会議には、自ら
 首席全権委員として出席され、対日平和条約の締結によって、国民待望の独立
 回復を実現されたのであります。

  平和条約の締結とわが国の独立回復は、民主主義国家に生れ変つた新しい日
 本の門出を意味するもので、戦後史上最大の治績であり不滅の功績であります。


  
 昭和の大戦争。大日本帝国の命令によって進軍し、大陸・半島・島嶼の大地に斃れ、西太平洋や南シナ海に沈んだ同朋将兵は150万とも言う。沖縄は本土防衛の盾として軍民ともに壊滅、原爆と空襲による本土の死者は50万とも言う。
  

 国土荒廃、人民疲弊の極みで、治安も悪かったのでしょう。この滅亡帝国日本が占領軍政によって解体され、民主主義国日本への衣替えが始まりました。


 佐藤榮作首相(国葬当時)が追悼の辞で称揚しています。
  新憲法の公布をみ,祖国再建の礎石がうちたてられました。      
 新憲法が日本国の礎石であるという称揚は、まったくその通りです。
 
 そして、「平和条約の締結とわが国の独立回復は、民主主義国家に生れ変つた新しい日本の門出を意味するもので、戦後史上最大の治績であり不滅の功績であります」とたたえている。これもまた、その通りであります。
      

 しかし日本の国葬という儀式は、天皇崩御の大喪の礼のみに限定した方がいい。
        
 皇室典範第25条に、「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」とあります。昭和天皇崩御の折に、大喪の礼が行われました。事実上の国葬です。日本の国葬はこれ一つで良いと思います。
      
 どのように優れた人であっても毀誉褒貶がつきまといます。毀誉褒貶ある誰かが、毀誉褒貶ある優れた誰かを指定して、その人を国葬という儀式によって権威づけることは好ましくないと考えます。さらに、その故人「優れた人」に国葬という儀式を与えることによって、完全であるはずのない国家そのものの権威を高めることになります。  
    

      
 【吉田茂内閣と佐藤栄作の関係を見る】
        
  第1次吉田内閣 1946(昭和21).5.22. ― 1947 (昭和22).5.24.

      第2次吉田内閣 1948(昭和23).10.15. ― 1949(昭和22).2.16.                                
             *佐藤栄作‥‥官房長官   
       
  第3次吉田内閣 1949(昭和24).2.16. ― 1952(昭和27).10.30.
              *佐藤栄作‥‥改造内閣で郵政大臣兼電気通信大臣        
             **1951(昭和26).9.8.サンフランシスコ平和条約
 

  第4次吉田内閣 19452(昭和27).10.30. ― 1953(昭和28).5.21.
              *佐藤栄作‥‥建設大臣兼国務大臣北海道開発庁長官  

 
  第5次吉田内閣 1953(昭和28).5.21. ― 1954(昭和29).12.10. 
 
              *1953(昭和28).1月 佐藤栄作氏、自由党幹事長就任         
           **1954(昭和29).4.20. 最高検察庁が造船疑獄収賄容疑で佐藤
                        榮作氏の逮捕許諾請求を決めた。
                      4.21.吉田茂総理の指示の下、犬養健法相が
                        指揮権発動をした。
                     4.22. 犬養健法相辞職。
                      12.07. 第5次吉田内閣総辞職。
 
        
 吉田茂内閣は第1次から第5次まであります。
              
 佐藤榮作氏は第2次吉田内閣で、官房長官の要職を務めました。第3次・第4次吉田内閣でも閣僚を務めました。
              
 第5次吉田内閣では内閣に入らずに、自由党幹事長の要職を務めました。自由党総裁は吉田茂氏です。
  


 造船疑獄事件を捜査中の検察庁が、佐藤栄作自由党幹事長を造船疑獄収賄容疑で逮捕するために犬養健法務大臣に逮捕許諾請求をし、犬養法相は検察庁法第14条に基づいて逮捕を阻止しました。これを法務大臣による検事総長に対する指揮権発動と言います。犬養法相は、指揮権発動を行った翌日直ちに大臣を辞職しました。
      

      
 【吉田茂氏国葬の動機は佐藤栄作氏の恩返しではないのか】
            
 1932(昭和7).5.15.三上海軍中尉ら9人が首相官邸を襲い、犬養毅首相を射殺した五・一五テロ事件がありました。この故犬養毅首相の三男が犬養健法相です。
             
 この指揮権発動は、犬養法相の政治家生命を絶ち、吉田内閣をその年1954年(昭和29年)のうちに倒しました。
            
 法務大臣による検察指揮権発動はこれまでにこれ1件だけで、法務大臣の政治家生命を絶ち、内閣の短命化を呼ぶほどに、重大なことです。
          
 犬養法相(当時)は指揮権発動を一度は断り、吉田首相は、それなら法相を更迭すると迫ったと言われています。
              
 一人の法務大臣の政治生命を奪い犠牲にし、内閣の寿命を縮めてまでして佐藤榮作の逮捕を阻止をした吉田首相(当時)。疑獄追及の手が自分に伸びてくる不安に怯えていたのかもしれません。
  


 吉田茂首相(当時)に救われた佐藤栄作自由党幹事長(当時)は、敗戦滅亡日本の再興に導いた吉田茂氏への尊敬の念と、自らの栄光ある総理大臣への道を開いてくれた感謝の気持ちから、「恩返しの国葬」を決めたものと、私は想像しています。

 サンフランシスコ平和条約を迎えるまでの困難な日本のかじ取りをした功績が吉田茂氏にあるにもかかわらず、指揮権発動という一事によって「国葬不当」と言えるでしょう。     
  

  

   
 【造船疑獄事件とは】 コトバンクから引用  
        

   政府の計画造船および造船利子補給法改正案成立をめぐる典型的な構造汚職事件。
              
 1954年(昭和29)1月表面化した。事件は、海運会社が、計画造船に融資された国家資金の一部を造船会社から得た3億円近くのリベートを裏金として浮き貸ししたことから発覚した。

   
 またそのリベートが計画造船の適格船主決定に際し、割り込みの運動資金としても利用され、当時の運輸省・開発銀行関係者へ贈賄したことも明らかになった。
 
   さらに計画造船融資の金利引下げを目的とした利権法案である造船利子補給法改正案の成立(1953年7月)のため、政・官界有力者三十数名に工作資金としてこのリベートを用いていた事実も明らかとなって、事件は第二次世界大戦後最大の疑獄へと発展した。
     
 東京地方検察庁は、1954年(昭和29)の1月以降、山下汽船会社社長横田愛三郎、運輸省官房長壺井玄剛をはじめ、有田二郎(自由党副幹事長)ほか国会議員4名を、4月には日本船主協会・日本造船工業会の幹部、自由党本部会計責任者を、と続々逮捕した。
           
 捜査は政界中枢に及び事件の核心に迫る最終段階に入った。
          
 4月20日、最高検察庁は、収賄容疑で佐藤栄作(自由党幹事長)の逮捕許諾請求を決定した。
              
 しかし、翌4月21日、犬養健(いぬかいたける)法相は検察庁法第14条によって指揮権を発動したため捜査は挫折(ざせつ)し、7月30日、検事総長は終結を宣言した。
              
 指揮権発動によって政治資金の元となる構造汚職の追及が阻止され、以降、疑獄事件摘発も困難となった。捜索を受けた造船会社は11社、海運会社は17社、逮捕者71人のうち起訴された者34人、政・官界に流れた資金は2億7000万円以上であった。
     
  検察庁法
           
   第14条 法務大臣は、第四条及び第六条に規定する検察官の事務に関し、検察官
   を一般に指揮監督することができる。但し、個々の事件の取調又は処分につい
   ては、検事総長のみを指揮することができる。

 第 4条 検察官は、刑事について公訴を行い、裁判所に法の正当な適用を請求
  し、且つ、裁判の執行を監督し、又、裁判所の権限に属するその他の事項に
  ついても職務上必要と認めるときは、裁判所に、通知を求め、又は意見を述
  べ、又、公益の代表者として他の法令がその権限に属させた事務を行う。

  第 6条 検察官は、いかなる犯罪についても捜査をすることができる。
 ② 検察官と他の法令により捜査の職権を有する者との関係は、刑事
    訴訟法の定めるところによる。
   
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