旧広島地方気象台。 昭和10年代に建てられた表現派の建物。気象台らしい軽快なデザイン。レトロでモダン。市中心部に向かった窓ガラスは、原爆の爆風で破損、ガラスの破片が今も室内の壁に残っています。
昨日は織りの教室。布なんて、織物なんてわざわざこの私が織らなくても、とても安い値段で世間にはたくさんある。じゃなんで行ってるか?それは手を動かしながら口はもっと動かして、楽しいお喋りが途切れることがないから。それと、畳の部屋にゆったりと座ってお弁当食べておやつ食べて、とても寛ぐから。
でも時として、そのお喋りでストレスがたまる。それは話が政治や社会のことに及ぶとき。人の考え、立場はそれぞれ。意見を交換して共通認識を持つ場ではないので、できたらそんな話は避けてもらいたいもんだ。言いたいことがあってもよそで言ってほしい。
昨日は例の「光母子殺人事件」の犯人なんか弁護士が弁護しなくていい」という過激な意見。もちろんあの事件は悲惨で許し難いし、遺族の処罰感情もとても強かった。死刑判決が出たと思うけど、それで誰も幸せにならない救いようのない事件だった。
でも「あんな事件の弁護して」と担当の弁護士を非難するのは裁判制度の基本を理解していない、稚拙な考えだと思う。起きてしまった犯罪を法律で正しく裁くのに、被告の立場を代弁する弁護人は必要。裁判官も人間。人間は間違いを犯す。双方の意見を聞き、その間違いをなるだけ少なくし、被告の人権を守るためと私は理解している。
過去にもいろいろな悲惨な事件があった。その度にマスコミが扇情的な報道をして、世論を形成してきた。それに最近はネットでさらに過激になりやすい。
落ち着いて冷静に事件の全容を明かすため、今の裁判制度は全能ではないかもしれないが、桜吹雪のお白州の時代のような、検察と裁判が合体し、弁護人がいない時代に戻れとでも言うのだろうか。あり得ないことである。
冤罪から無罪を勝ち取った話を聞くたび、犯罪の捜査とその後の裁判は冷静にいろんな見方が必要だとつくづく思う。いつ自分がその立場になるかわからない。弁護人が要らないなんて決して言えない。
というようなことをお稽古ごとの教室で議論しますか?普通。しませんよね。それが成熟した大人というもの。
「目には目をって、ほら昔の法律、あれは正しいと思う」との意見。ゾッとした。古代の話を今に当てはめるなんて、野蛮過ぎる。
ということで、昨日はとても後味が悪かったのでした。