世の中には結婚している人が数えきれないほどいるし、ということは同時に亡くならない限り(近所の方で、事故ではなくて同じ日に亡くなられたご夫婦がおられた。奥様の病院へ行くために玄関で靴を履いた後で急死されたとか。前世からよほどの深い縁でむすばれていたのだろう。合掌)、どちらかが残されることになる。
未亡人、未だ亡ぜざる人・・・ほかに何かいい言葉はないものだろうか。
それはさておき、未亡人はものすごく多いし、その体験もあまりに有り触れているのでわざわざ本にするほどのことではないのかもしれないが、いざその立場になると、戸惑い分からないことだらけ。それを一冊にまとめた実用書でもあり、配偶者の死後、どのように生きるべきかという指針としても読んだ。
人は必ず死ぬ。どちらかが残される。その時の諸手続き、心の持ち方、参考になった。映画関係の仕事をしていた夫との間に子供がいないので、きょうだいにも相続権がある。結果としてはすんなりといったけれど、義母の前の結婚の時に生まれた子供(夫からは兄)を探し当て、事情を話して相続放棄の手続きをしてもらう辺りはスリリング。うまくいってよかった。
死後の手続きの煩雑さに音を上げながらも、夫が生前親しくしていた人たちから励まされ、力を借りて何とかこなしていく。悲しみは癒えないけれど、誰にでもやってくる不運をどう受け止め、咀嚼し、人生に生かしていくかで、幸運のチャンスも見えてくると著者は言っている。経験した人の言葉だけに重みがある。
そして巻末では、不安も、孤独も、年を取っていくゆくということも・・・逃れられないものであるなら、それぞれのいい面を探りながら、うまく付き合っていく。と結論がある。なんか私自身が励まされた気がする。いつかこの本が必要になった時、読み返してみよう。
絲山秋子氏の公式ブログによると、近所の中学校へ読書体験について話に行かれたとか。読書とは心の筋肉をつけること。その筋力があることで、広く物事が理解できて、柔軟に対応できる・・・というようなことを話されたとか。
心の筋肉、いい言葉だと思った。人の実際の見聞も大切だけれど、読書の体験はそれをもっと大きく広げてくれると思う。
昨日、電停で電車待っていたら、全然知らないおばさんが「着物がスっとるよ」と言いながらいきなり寄ってきた。
「えっ??」と戸惑う私。どうも着物の着丈が長いと言いたいらしい。わーーーん、わざと長めに着ているのに。常々、年配女性の着物、なんであんなに短く着るのかと思う私。歩くと足袋の上の生足が3センチくらい見えてる人がいて、ぞうきん掛けしていた昔の女中(←お手伝いさんに言い換え)じゃあるまいに。そういう人はたいていものすごくパーマの当たった短い髪。
紬は普段着なので短めにというのはtheory、しかし今はどんな種類の着物でも(浴衣は除く)非日常のものと私は思う。走ってもいいくらいに短く着るのはおかしいと思う。でもそんなこと、見ず知らずの人にわざわざ言いますか。言いませんよね。
あちらさんはアドバイスのつもりかもしれないけれど、着物のことになると途端に赤の他人につい口出ししたいのはなぜだろうか。それに地面を擦るほど長くは着てないのに。
要するに私が着物着ているのが気に入らないと。気に入らないから、何かあらを探して指摘して優位に立ちたいと。そう思うことにした。そこまで言ってしまうと、自分がものすごく性格悪い女になったようで落ち込む。
着物の定義その一、それはある種の人の感情を刺激する。その感情の攻撃に耐えるのも、着物を着る上では必要な覚悟。ということかな。こうして書いて気持ちに折り合いをつけて、それも手間のうち?