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10/7 コウノトリの郷公園から城崎温泉へ

2018-10-23 | 旅行

わずか半月ほど前ですが、ずいぶん昔のような気がします。記憶は指の間から砂が落ちるように、さらさらと消えていきます。

老化とはこのことかと、愕然としますが、いえいえ行ったこと憶えているだけで、まだマシ。先日の実母、三月に姑様のお見舞いに来たこと、すっかり忘れていました。

自分の名前と娘の名前は憶えているそうですが、孫8人の名前と生まれた順になるとあやふや。でも記憶がなくなるのは一方ではいいこと。同居家族の愚痴もほとんどなくなった。一ときはとても激しく、聞かされる私は不整脈に過呼吸で具合悪くなってた。やれやれです。


豊岡市のコウノトリの郷公園。

置物みたいですが、柵の上にはアオサギにコサギ。柵の中はコウノトリ。

ありふれた鳥は中に入るのを遠慮しているのかしら。

水田の中の巣。鶴に似ていますが、鶴より首が短い。

夫、あっ、コウノトリと飛んでる鳥を指さす。

私、あれのどこがコウノトリ?ただのトンビじゃないの。

でもそのあと飛んできました。写せず残念。

コウノトリは数が少なくなったので捕獲して増やし、生育しやすい環境も整えて、40年かけて再び野生に戻したそうです。

とは言え、水田に農薬を使わず、コウノトリのえさ場を作っています。人も他の動物も近寄れないようにしています。

タカなどの猛禽類はどう防ぐのでしょうか。夕方になったので、一路城崎温泉を目指します。


細い温泉街の道路、大渋滞。何とか宿にたどり着いたあとは、何はともあれ温泉街の散策。

城崎温泉は京都発の山陰本線が日本海へ出る直前にあります。鉄道で行ける場所なので、志賀直哉も行ったのでしょう。

 

宿近くの立ち寄り温泉。宿でもらった入浴証で入れるけど、まだ早いのでパス。

お寺のようなこちらへ行きました。こちらも温泉。連休で、人がとても多かった。

ちなみに私は服にスニーカー。夫、服に下駄。

この私には、浴衣は身幅が足りず、丈が長い。下駄は転倒骨折が怖い。

色浴衣着て楽しいのは若い人だけ。年寄りはまずは安全第一。

泊ったのはこちら。

温泉情緒

柳が旅情をそそります。

土産物店、射的場など温泉らしい店がいっぱい。


わーい、わーい。食事です。部屋で食べます。

床の間全体を装飾。これなら壁のシミなども目立ちません。いいアイデア。

高価そうな置物。

古備前かも。割ったら大変。

ロビーに展示していた掛け軸。南洲とは西郷隆盛のこと。直筆らしい。

幕末、禁門の変(蛤御門の変)で焼失した範囲を報せる瓦版。

上が東のようです。賀茂川の際まで焼け、焼死者多数とのこと。

この戦いで長州藩は京都から追い落とされますが、のちに武力を蓄えて再び攻め上がります。

京都へ行き、天皇をいただいて正当性の根拠とする。京都を中心にして政治の激変の時代、明治維新まではもうすぐです。

蛤御門の変の後、桂小五郎(のちの木戸孝允)が隠れていたのが、私たちの泊まった「つたや」さん。建物は建て変わっていますが、のちに司馬遼太郎が訪れ、投宿したそうで、由緒あるお宿です。

木造三階建て。その三階まで食事が届きます。恐れ入ります。

右は木戸夫人。祇園芸者だった美女で、のちに鹿鳴館の華と呼ばれたのではなかったかしら…うろ覚え。

おとなしく隠れていたわけではなく、地元の芸者さんたちと楽しく過ごしていたそうで、木戸夫人は心配してここまで様子見に来たそうです。

松菊とは孝允の雅号らしい。宿の玄関横にあります。

維新史跡 木戸松菊公遺蹟 揮毫は松木屋…。

隣は志賀直哉の泊まった三木屋さん。いつか行くことがあれば泊まってみたいものです。

 

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祝・「重松日記」増刷

2018-10-23 | 読書

今朝の朝日新聞広島版に、絶版となっていた「重松日記」の増刷の記事があります。

「重松日記」とは、井伏鱒二の原爆小説「黒い雨」の資料となった日記。

 

https://www.amazon.co.jp/重松日記-重松-静馬/dp/4480818189

当時、宇品陸軍糧抹支廠(現在は広島市郷土資料館)に勤務していた重松静馬は、横川駅で被爆したのち、千田町の居宅から宇品の警察署、再び市内を抜けて古市まで避難します。

1945年8月6日に見た広島と、その後を記した日記を井伏に託し、それをもとに井伏は「黒い雨」を完成させます。

原爆の体験記はものすごくたくさんあると思いますが、私が読んだ中の白眉。もう一つは蜂谷道彦の「ヒロシマ日記」です。広島逓信病院院長の立場からの日記。これも被爆直後の人々の様子がよくわかりります。悲惨なだけではなく、たくましく生きる被爆者。戦争が終わった解放感などが読みどころかと思います。

話を戻して「重松日記」、冷静に書いているのがいいと思います。初版一刷では巻末避難ルートが????だったので、筑摩書房に連絡を取り、依頼された資料も地元で集め、三刷からはめでたくルートを変えていただき、その経緯については前のブログで描きました。

https://blog.goo.ne.jp/samubuto/e/b8e32698085cdb40fe3e764ec94f2112

今後、新たな資料が出てきてまた変わるかもしれませんが、たぶんそれはないはず。小説の記述とも矛盾がなく、これでいいと思います。

重松静馬≒(小説の中では閑馬重松)の家は、現在の千田小学校南端から道路にかけての部分にあった長屋の一つでした。隣は大学農園。広島文理科大学の農園です。

家から取り出した鍋を大学のプールに沈め後日取りに来るつもりでしたが、午前中に水のあったプールは午後には原爆の劫火ですっかり干上がっていたそうなので、(松重美人「なみだのファインダー」)、鍋は回収できなかったと思います。鍋は避難先ですぐ必要なので、何をおいても持ち出したと戦争体験者の実母が申しておりました。

プールは、私の高校時代の恩師の情報によると広島高等師範の学生も戦後利用していたそうで、千田小学校に移管され、15年くらい前には使われないまま残っていましたが、現在では平野町公園の南端部で更地となっています。

御幸橋西詰から角のショールーム裏手の道、広電本社裏から現在の仁保行きのバス通りを通って広島大学キャンパスの東北角へ出て、鷹野橋、あとは電車通りを北へと避難します。

おやまあ、前のブログと似た内容、興味ない方には面白くもなんともない記事でごめんなさい。

原爆のことであれ、なんであれ、事実が何よりも大切。感情的な文言は受け取る側で付け足せばいいと私は思っています。

長い年月が経ち、事実でないことが大げさに独り歩きするのは、被爆体験、戦争体験の継承にとってよくないことと思います。

アマゾンでは中古本もありますね。興味あれば読んでみてください。

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