やわらかに新芽青めるセーヌ河畔 2014年4月
短編集。二作までしか読めなかった。
一作目、小学生らしい子供の独白。兄は何かの病気で施設にいる。父親が夜な夜な、母親を殴る。お前のせいだと。子供はどうしようもない。そのうえ、自分も兄と同じ病気かもしれないと、誰にも言えず、症状が萌し始めたことに気が付いて怯えている。病気が何かは明かされず、短編は唐突に終わる。
これ、怖くて救いがないでしょう。
母親は暴力に反撃するでもなく耐えている。父親は病気をすべて母親のせいにして、怒りを暴力で表現する。
私なら、私なら・・・あの子は私たち二人の子供、私だけが責められるのはおかしい。責めて殴るのはおかしい。あなたも責任取って向き合ってほしい。殴るのはやめてほしい。やめないなら警察に言う。とまあ、このくらいは自分の尊厳を守るために言うつもり。言わなければならない。
本当に困ったときの人間の闇を書いたのだと思うけど、何か一つ最後に救いが欲しかった。
もう一つは中学生くらいの知的にしょうがいのある子を施設に預けに行き、そこで見聞きしたことをやはり救いのない描き方で。そうかもしれないけど、そうである意味を考えるのも人間。私がその立場になると、拒否し、混乱し、何も考えられなくなると思うけど、現実は変えられないとしたら、自分を変えるしかない、自分の考えと生き方を変えるしかないと、長い葛藤の末にその結論にたどり着くかも。
今朝の中国新聞に作家の辺見庸氏が、例の相模原事件について寄稿していた。障碍者は要らないと考えるのは犯人独自の思い込みではなく、社会の病理が犯罪の形をとって現れたのだと。
施設で働く犯人はしょうがい者の姿に衝撃を受けて、殺してもいいと思うようになったのは今の社会の考えと地続きであると。犯人に死刑を言い渡した時、国が殺してもいい人間を決めている。これもまた犯人と同じ地平にいることになる。
うまくまとめたかどうかわかりませんが、そのような内容だったと思います。
この小説は、重いしょうがいを持つ人間にどう向き合うかという深い問いかけがあり、答えは読む人にゆだねられています。
身内にそんな人間いないから他人事、と思ってはいけません。人はみな年を取る。年を取ると知的にも体力的にも衰える。それでも一つ一つの命は尊い。その前提がないと、人が大切にされる世の中は成り立ちません。
辺見氏は死刑に反対だそうです。実際、先進国で死刑が残っている数少ない国が日本。国家の名で人を殺すのなら、戦争にも歯止めがかからないと、辺見氏の立場は一貫しています。
私も、殺人犯は死刑よりは終身刑にして、自分の罪と向き合い、反省してもらう方がいいと思います。それに冤罪ということもあります。
ということを前提にして、身内が巻き込まれたら、宗旨替えするかもしれません。また既に事件の被害者遺族に、面と向かって死刑廃止とまでは言えません。
人の命の大切さを思いながら、人は何によって人なのか、ということをこの短編集は問いかけているのかもしれませんが、読み通すのはつらくて中断。
前の中上健次の小説が面白かったのですが、それは描かれる人物の魅力に負うところが大きいと思うに至った次第。