今年秋、広島県で「広島トリエンナーレ」という美術展が開かれる。
先般の「愛知トリエンナーレ」と同じ形式で、出品作家は全く同じではないのかもしれませんが、全容がまだわからない段階で、広島県内の一部の人たちが「多くの人が不愉快に思う作品は許せない」と県に抗議し、県では外部委員会を作って作品の是非を検討する方針を出しました。
私はこの委員会設置には反対です。
彼らは市民団体を標榜していますが、実態は例の教科書を作り、採択運動をするグループが中心。市民というのは便利な言葉。どんな考えの人も市民と名乗れば、それが隠れ蓑になります。彼らはプレイベントの作品が自分たちの価値観に合わないことから、反対運動をはじめたようです。
しかし、自分たちが不快に感じたということだけで、その作品を人に見せないという弾圧は行うべきではありません。彼らの言い分は「多くの人が不快に感じている」とありますが、県民全体にアンケート取ったわけでもなく(多分)、話に飛躍があって無理筋というものです。
それについては美術手帖という雑誌に寄稿があります。
https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/21442
まあこれが大多数の県民の意見ではないでしょうか。
私としては県は毅然としてほしいのですが、どうなるのでしょうか。
先般の文科省芸術選奨に、愛知トリエンナーレに文句つける人と主宰者との対話が「芸術とは何か」を考える深い内容として、賞が贈られました。なかなかいい選択だと思います。
文句つける人はほとんど信仰の領域、歴史観も全く科学的ではありません。しかし、残念ながら、人様の信仰はやめさせられないのです。不愉快だけど、早く気が付けよと私は思うばかり。
それと同時に、自分たちの信仰に合わないからと、ほかの考えの人に不寛容なのは人間として間違っていると思います。いろんな人がいて、いろんな考えがあって、自由にモノ言える、それを目指してきた、これからも目指すのが人間の知恵ではないでしょうか。
ある家系を信仰している自分たちは、そうでない人よりも偉いと錯覚していませんか。そんなことはありません。対象が生身の人間だけに、信仰されるご本人たちがそれを望んでいるとはとても思えません。敬ってるつもりで、却って迷惑かけてるかも。
生まれながらにして、人が尊いとか、卑しいとか決してあってはいけません。それが政治に利用されるとき、どんな悲惨なことが起きるか、前世紀にさんざん見たのではありませんか。
オシフェンチム(アウシュビッツ)とビルケナウの広大な収容所跡を見た私は、人を生まれで区別する人たちが身震いするほどに嫌いです。この不快感、どうしてくれるのよと「市民の会」に言いたい。
ああ、きょうもまた熱く語ってしまった。肺炎騒ぎで近くの買い物だけ、時間あるのでつい書いてしまいました。
県の事前検閲、やめてもらいたいものです。それするなら、県美展だって、審査のほかに委員会作って展示の可否決めなければ片手落ちというものです。
コメントは認証制です。あなた様の貴重なご意見も反映しないことがありますので、どうぞ同じ考えの人たちとよおーく話し合って、美術手帖に負けないくらいの理論武装されますように(無理だと思うけど)。よろしく。