元の動画は消えてるのに、称賛するエントリーは消してない。
http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-1996.html#comment
市民と言ってしまえばみんな市民。郡部に住んでない限りみんな市民。郡ってまだあったかしら。
先日、要望出した会の代表者も市民。市民って本当に都合のいい言葉だと思う。
昨日からふと考えたのですが、生身の人間を据えるのは生物学的にリスクが高すぎ。そのためにお妾制度が昔からあるのだけど、近代的一夫一婦制を取り入れた時点で、今のような先細り状態も考えられるわけで。
どうしますかねぇ。
例えば樫の大木とします。その木は立派で、大きく枝を広げ、遠くからでもよく見えて目印、木の下へ行くと涼しくて安心する。みんなが好きな木。たまに嫌いな人もいるけど咎められない。木を守るために死ねと、誰からも言われない。
木の樹齢が尽きる前に、どんぐりから育てた次の木が育っている。いよいよ枯れたときには若木がその地区の新しい目印。みんなの気分も一新する。
そう、伊勢の遷宮や、諏訪の御柱祭などのイメージ。
制度を担うのは生身の人間でなくてはいけませんか。人はみな同じように尊い。不可触の制度があることが、人を人から区別する大元になっていませんか。
何処の家に生まれるかは本人の手柄でも落ち度でもない。
一度、直筆の字が公開されたことがあります。とても癖のある字、長い間拘禁された窮屈さを感じさせる字でした。
彼の人の自我はどんなものだったのだろうと考えるのです。
何かをありがたり、それをありがたがる自分は偉くて、そんな自分が大好きな人は、生身の人間に頼るのではなく、対象は何でも、木でもいいじゃないですか。
木もこの国の制度ができたころには生えていて、ずっと代替わりした万世一系のありがたい木、それでいいじゃないですか。たとえですけど。
私は戦前を想像するのですが、窮屈だったのでは。なんでそんな窮屈な時代を称賛するかと言えば、その時代にいい思いをした一族の末裔なのでしょうか。また昔の栄華を取り戻したいのでしょうか。わかりませんけど。
とにかく昔の教育がよかったなんて言ってもらいたくない。自由にもの言えない時代に戻ってほしくない。
昔を称賛して、いつまでこんなことが続くのかと、暗澹たる思い。
私たち少数派?って、市民を称する会の代表が焦ってどうする。そんなことないと論陣張らなきゃ。誰か論破してくださいって、頼りないなあ。
最後に。
またまた記者会見しているけど、作文読むだけじゃ全然伝わらないですよね。なんで自分の言葉で話すことができないの。結局、能力って言葉なんですよね。言葉で人間はものを考えるんだから。それができないのは見ていて腹立たしいを通り越して痛々しい。
前もっておぜん立てしてもらわないと何もできないのでは、もう無理では?
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