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海岸通りの散歩道

2021-02-16 | 日記

一万歩歩かなくていい、一日30分、速歩と普通の速度を5分おきに交互にって、どこかで見た。

今の私に都合のいい情報。それで海岸通りを港まで行く。往復で45分くらい。ちょっとした買い物したりして、一時間弱。ちょうどいいお歩き。

都市高速と路面電車。

広島はデルタで川も多く、地下鉄は不適。のんびり電車が走ります。

一回190円、交通系の共通カード、パスピーで180円。乗り継ぎは指定の停留所利用で無料になる。市民の脚。

マンション多数。

眺望、日当たりを求めて、上へ伸びる建物。

一度マンションに住んでみたいと思いつつ、もう機会もなさそう。

呉経由で2時間半くらい。松山港は市街地から離れていて、道後温泉まではまた時間がかかる。これとは別に高速艇あり。それだと1時間くらい。

赤いバスは市内観光の乗り合いバス。

日清戦争の時、広島に大本営が移され、明治天皇も半年くらい広島城内に滞在した。

港へ天皇が来て松を植えたのかな。松はなくなって石碑だけが残る。

昭和55年頃は、まだ埋め立て地の水を抜くための水路が多く残っていて、この付近には御幸松ポンプ所というのがあった。ポンプで排水していたのでしょう。

今は暗渠かな。きれいになりましたが、昔の活気も懐かしい。

貨物船が多く寄港、荷下ろしの人手を募集する職安もあり、人が多かった。

防潮堤は普段開いていて、何かの時は閉めて高潮津波を防ぐらしい。

工具も横に置いてある。

しかし・・・・9つの行程、夜、明かりも消えて、たくさんの扉、人力で誰が閉めるのでしょう。消防署員?

潮風で少し錆びかけてもいるし。

1993年と2005年頃、二度の高潮で路面電車の線路もつかり、被害いろいろ。

津波が来ないことを祈るのみ。いざとなったらスマホと財布もって夫実家上階へ逃げる。

春もそこまで。


サウンドオブミュージックででてきた写真は、オーストリアアルプス。

ザルツブルクからハルシュタットへの道すがら。

避暑地のはずが、最近の温暖化で夏は暑いとのことでした。

チェコから国境超えてザルツブルクに近づくと、山が次々現れる。

氷河が削った山の独特な形。

そして雨はあまり降らないのかも。

日本のように豪雨が時々あると、岩山ももう少し勾配が緩くなりそうですが。

山にも顔つきがある。ヨーロッパの山見るとその感を強くする。


外出自粛、宴会自粛、旅行自粛も日常になると、毎日の暮らしの中に楽しみを見つけ、意味のあることをしたいのですが、なかなか。

人と会いたいなあと思いつつ、港の待合室に身を置いて、しばし、知らない人の姿を見ている。

昼間はあまり人もいないけれど。

みんな、どうしているのかなあ。。。

今月から、お稽古ひとつ、新たに始めることにした。きよう電話した。お世話しているのは昔子供会も一緒だった人。やさしい物言いに癒された。

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冬に眠れないのは困る・・・

2021-02-16 | 日記

宵の口、ものすごく眠くて、断続的にうたた寝、日付が変わるころに途端に元気になる私。

困ったものです。夏なら、涼しくてしたいことがはかどるけど、今は起きていても寒いだけ。暖房費がかさむだけ。

しかしまあ、昼間出かけてお金使うよりはいいかなと、起きている。

従妹との掲示板、見ているうち、懐かしい写真いろいろでてきた。

今振り返ると、孫たちは幼く、自分は少しだけ若く、姑様、実母は元気。


ああ、それは過ぎ去った宝もののような日々たち。

冬の深更、失われた日々を思ひながら私は静かに泣くであらふ。

過ぎた日々は二度と戻らぬと。何をやすやすと日々を過ごしていたのかと。

そして思ひはいつも、扉を開け、凍てついた道を立ち去るであらふと。

(立原道造風に)


四年前の2月。

姑様、母、孫。

パジャマ姿でくつろぐ孫。泊まるのではなくて、朝、着替えないまま我が家に来たらしい。

あんた、リラックスしすぎやろ。

テーブルの上にお手玉がありますが、それは母と私で作った。

順不同に。

織りの道具で遊ぶ。

数年前。山口県光市防府市にまたがる茶臼山で。

数年前、旧千代田町の雲月山うずきやまで。雨。

夫にツェルトを貸す。

2016年6月、地元オペラ劇団の公演、「サウンドオブミュージック」に出演した孫娘。左から二人目、三女ブリギッタ役。当時一年生。茶髪のカツラにメイクもばっちり。

けいこ場が学校に近く、子役募集のチラシを学校からもらってきて「オーディション受けたい」と本人が言ったとか。

運よく受かり、数か月の稽古のあと、舞台に立つ。

一族郎党で鑑賞。初めから終わりまで、涙、涙のばあちゃん=私。

特に大佐マリアの結婚式の場面で、白いドレスに頭に花飾りで参列する姿に、泣けて泣けて。

あの赤ちゃんだった子がこんなに大きくなって・・・・

最後は旅装で国境脱出の旅に出る。ケープ姿で客席の脇を通り、手を振りながら消える。

ああ、こうして書いているうちに、また涙が出てきた。

ほんとの結婚式ではどれだけ泣くことか。

結婚式、絶対出るけんねと言ってある。

いいよう~生きてたらねぇ~

ですって。

忘れてた。四歳になったばかりの弟は公演の両日出演。出演者の中では最年少。声が大きいので、こちらはスカウトされたとかでした。

二日目、二人が出る日はその弟を、地元フラメンコ劇団の人達がずっと面倒見てくれていたとか。ありがとうございます。

しかしまあ、月日の流れるのが早いこと。

年寄りの日々はつるべ落とし、一日も無駄にしてはいけないとあの貝原益軒先生も養生訓の中でおっしゃっておられます。

毎日を大切に。

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レトロな医療道具

2021-02-15 | 日記

夫が実家から持ってきました。どこにあった?

曲がっている部分は竹、あとは木でできています。

術後の腹部に、重い掛け布団が直接当たらないようにする道具だそうで。

掛け布団の下にセットするようです。

名前は何というのでしょう。

今の用途。

布団の間に空洞を作り、後ろの電熱器で温めて熟睡するために。

冷え性なおじいちゃん。

スライドするととこうなります。引っかからずにスムースに動きます。

よほど太い竹を使ったと思われます。ストッパーも竹釘。鉄の釘は全然使っていません。

今はもう作れる人はいないでしょう。昔の手技に脱帽です。

我が家では冬の就寝前に布団を電熱器で温めるのを「シャーシャーする」と言います。

電熱器は「シャーシャー」。白シャーシャーと黒シャーシャーあり。ついでにエアコンは「上シャーシャー」・・・(^^;)

 


ちょっと拝借。

こんな感じで作ったものいろいろ出してみました。

右端は友人作。裂き織り専門。端の始末が丁寧です。

うんうん、いい感じ。


もうこんな道具、あまり残っていないかも。近代医療博物館というのがあれば寄付したいものです。

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たまには柔らかもん、小紋と小花の名古屋帯

2021-02-15 | きもの

ぼかしの色合いが好きです。小紋ですが、あまり柄がないのがすっきりしていていいかなと。

一月に着る予定でしたが、ほら、例の「おじいちゃん食堂事件」であまり浮かれる気分にならず。

でも藍色の紬にも飽きて本日はこれを着てみました。

細い線は初めに糊を置いて、後で洗うのでしょうか。

染色は二色を手作業でぼかすのかも。

呉服屋で買ったのではないので詳細不明。

あん、もう、写真撮るのが邪魔くさい。

温泉足袋にビーサン。おうち着物の足元は着物の格に合ってないとどうのこうの・・・自分で突っ込んでおきます。

この姿で、午前中、先月分の経費帳仕上げる。昼は各自自由に。夫は自作のパスタ。私は昨日の残りのしっぽくうどん。はい、冬の香川の郷土料理です。

月末の例会に向けて夫はスピーカー製作に入った模様。コーナンで板をカットしてもらったとか。


午後から庭掃除。狭い庭なのですぐ終わる。ヤブカンゾウの新芽がもう出ていた。若葉の時に、食べるとおいしい。ギホウシも同じ。

夕方、夫がゴミ袋を買いに行く、あんたの洋服ダンス壊したでとのたまうので、えーーーとびっくり仰天。壊すと聞いてはいたけど、今日とは思っていなかったので。

これは2016年、絵付けの先生と古民家カフェに行き、帰ってきてら庭木が全部切られていた衝撃以来。あの時も事前に知らなかったので驚いた。

扉。アーチ形の細工あり。塗装は木目を生かして薄目。この方が傷が分かりにくい。

側面、底板など。

下の引き出しは家で使っているけれど、上のロッカー部分は大きくて、1991年に家を増改築して二階各部屋にクローゼットつけてからはずっと、夫実家、二階の風呂場に突っ込んでいた。それから30年、途中で一回くらい見たけれど、あとは放置。

もう捨てる時期ではあったのですよね。

タンスの来歴。

1973年年明け、結婚が決まり、両親と一緒に己斐駅前にあった・・・家具店(名前失念。今はもうない)で婚礼セットとして買ってもらった。夫も一緒で二人で相談して決めた。夫24歳、私も24歳。どんな顔してどんな服着ていたのだろう。すべては忘却の彼方に。

新幹線は岡山までだったかな、瀬戸大橋もまだなくて、在来線使っての四国高松からの日帰りはとてもきつかった。

父が「前、出張の帰り、糸崎行きに乗ったらそこから岡山までがまた遠うて、晩になって駅弁はないし」と広島駅で何か食べたのかな。

特急でなくて急行に乗ったのかも。特急で広島岡山が二時間、急行だと二時間半、宇野線に乗り換えて、今度は船だあ。全部で乗り換え時間含めて片道6時間くらいかかった。

母は当然和服。和服だとよそ行き感が出て、母は遅くまで着物着て出かけていた。

私が某早稲田大学受験した1967年に東京まで同行、洋服着て行くのが足元が寒いとぼやいていた。

その頃、地方から受験するのは女の子だと親も行くことがよくあった。手ごろなホテルはほとんどなく、大学近くの旅館へ。部屋は暖房なし。寒かった。

親も数少ない旅行のチャンスなので、それにかこつけて上京するのが嬉しかったのかもしれない。

母は41歳くらい?控室で男の子のお母さんと長話したそうだから、男の子も親同伴もあったようです。その子は千葉大学も受けるんやって・・・とか。遠い昔のほんの短いご縁でした。

この洋服ダンス、若い時は引っ越しが多くて5年間で5回移動。その後13年間家で使い、最近の30年間は死蔵。もう捨ててもいいかな。さよなら。ありがとう。

とは言え、引き出しはソファーの下に突っ込んで物入にしたいので持ち帰る。

桐の無垢材に桜を貼り付けている。昔の手仕事は確か。全然狂ってない。

どこの親も、娘の嫁入り支度するときは人生の一つの山場。きっとわが親も。

遠くへやりたくないと父は猛反対、母は遠くで結婚式するのは大変とまた反対。その頃は式場に美容師持ち込みもよくありました。まだ専用の式場のない時代でしょうか。

今はホテルや式場に美容室があるので、それを利用しない美容師持ち込みは稀。その場合、宿泊する部屋を借りて着付けするそうです。美容師の友達が話していました。お嬢ちゃんの式の時、自分が支度して大変だったって。

この歳になると、しみじみと親のありがたさが分かる。昔はことさらにお礼の言葉、言ったことない。親が元気なうちはそんな他人行儀な。でも言われたら嬉しかったと思う。

いつも黙ってニコニコしている父だった。怒ったところ見たことない。タンス見てそのこと思い出した。

夫は自分の親に嫁入りダンスの値段まで言ったとかで、その値段に目をむいたとか。それをまた私に話す。24歳の幼い夫ではありました。

あんたは子供かあ~。その幼さを純真さと読み替える私も幼い。

この一件、その後の結婚生活を予感させるようなエピソードです。

値段ですか?

普通ですよ。私の親が高いもの買えるわけがない。もっと高いのもあったと思う。

42歳で嫁いだ義妹は、店で一番高いセット買ったと姑様が言っていた。

ねぇそうでしょ。自分の娘になると力入りますよね。ダブルスタンダード。私は娘がいないので、娘と嫁さん比べたり、競ったりせずに心は安らか。

義妹もいろいろ苦労したけど、私と違うのは婚家の愚痴を姑様に聞いてもらっていたことかな。「あまりに私が言うのでお母さんが癌になった」(その後完治、不死身の我が姑様)とめげていたけど、そんなの理由じゃないと励ます私。聞いてやれる姑様も優しい。

私は泣き言は一切親に言わないタイプ。言っても心配かけるだけ。先回りして心配するのが親の常。

と、タンス一つから限りなくよみがえる記憶とあふれる思い。

長話、失礼しました。


汚れの目立たないスマホケースにしました。

元の絵はこちら。

ゴッホ、「夜のカフェテラス」

描いた場所が観光地になり、モニュメントも設置。

フランスのアルル。2014年3月末。

ゴッホの町、アルル - ブログ (goo.ne.jp)

日本の花火の絵を見て夜を描いてもいいとゴッホが気付いたそうで。夫が言っていました。もとS道高校美術部長。

ん、衆道?

男子校ですがその字ではありません。

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今の時代の送りかた

2021-02-14 | 随想

二軒隣の方が亡くなった。年齢は80代半ば。一緒に茶話会していたのに、ごく近所なのに全然知らなかった。

聞いたのは昨日。年末に亡くなって、年明け、茶話会お休みだったから、知らなかった。

町内会の香典持参した人によると、固辞されて、お孫さんから「しつこい、帰ってくれ」と言われたそうな。

都市部で葬式が簡略化していくとよく聞くけど、ここまで進んでいるらしい。

それでいいのかなあという気持ちも私にあるけれど、大げさにしたくない、手間をかけたくないというご遺族の考えなら仕方ないかとも思う。

昔の葬式は賑やかで、地域総出で、形式にのっとって送り出して、遺族は心の整理をする、共同体は続いていく。

人は一人では生きられず、助け合うことが大切と教えられたけど、今はお金さえ出せば隣の人にも死んだことを知らせずに済む。お金も少しで済むらしいから、楽に流れるのは仕方ないのかなと思う。

葬式に出たいのは、お見送りしたいのは、生きてる人間が心にけじめをつけたいから。そのけじめのつけ方も時代とともに変わるらしい。

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元気すぎる孫と遊ぶ

2021-02-14 | 家族

電車バスで来たそうです。

道具を持ち換える。

勺を持つ女雛。

触ってもいい。

いいよう。壊れてもいいよう。壊さなくてもいいけど。

三人官女がメイクしたあと、桜とミカンに水やりしているそうで。

水やりしないとあの人(内裏雛)に叱られる。

ご飯を運んでいるそうで。他の人形と道具類、全部捨てた。


暖かいので外へ行きます。

公園。

縄跳び置いて。

薄着で転がりまわる。春近し。

夕方、お母さんのお迎えで帰って行きました。

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着物で買い物・・・十日市紬

2021-02-14 | きもの

用事のない限り、何が何でも着物着る。着物着たら、何でもない一日も昭和のあの日にタイムスリップ、1965年頃まで、祖母も母も冬は和服だった。

旧正月のころ、何していたのかなあ・・・

藍大島、博多帯、半幅帯など出してみる。博多帯は未仕立て、結べない・・・

花柄?

結局こちらで。

何の柄?

歩いて遠くのジャスコまで。

三本の波線は広島の川の流れを現わす。

雨水。

着膨れ。

孫が来るのでお菓子など買って帰る。

来るのは二週間ぶり。歩いて帰ると、しばらくして息子と孫来訪。

 

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本日、孫と遊ぶ

2021-02-13 | 日記

昼前、息子が孫を連れてきて預かる。昼ご飯食べて、地元の公園をはしごして、歩いて港の北側の広い公園へ行き、クイズをして、また歩いて帰る。

私は十日町紬に半幅帯、絞りの羽織といういでたち。足元草履。

孫のクイズが延々と続く。

・・・という漢字は何年生で習うでしょう。

6年生。

ぶぶっー。

5年生。

ぶぶっー。

漢字一つ一つ、こんなクイズなので全然終わらない。

本人一年生。

続いて算数クイズ。

++くんはカブトムシを3匹とクワガタムシ2匹買って100円でした。**ちゃんは・・・

それでクワガタが一匹逃げて、カブトムシが一匹死にました。と茶々を入れる祖母。

というような話をしながら暖かくなった道を歩いて帰った。

午後、今度はお嫁さんが迎えに来て帰った。お姉ちゃんは用事各種で来ず。


息子曰く、来週はリモートの諮問があるとのことで、緊張していた。

学位かあ。。。。いただけることを祈る。

給料に学位手当が付くのかな。二千円くらい。お父さんの時はついてたのかな?忘れた。そのうち自営業になったから関係ないもんね。

息子は、平日は仕事。土曜日は早朝の新幹線に乗って、県外の大学で研究させてもらっていた。その苦労の詳細、私は知らないけれど、大変だったと思う。ご苦労さん。

決まったらお祝いしようと話振ると乗り気でない息子。まだその気分にならないのでしょう。

夏、Y輔が帰った来たら、私たちの金婚式はまだ早いけど一緒にしよう。

もうそんなに遅くなるならいいよ。

そうだね、金婚式のお祝いして50年待たずに別れるかもしれんしね、と話はうやむやに。いえいえ、お祝いしたから50年は持つかもしれん。

午後から来たお嫁ちゃんは夫にチョコレートとお菓子くれた。そして孫の学校のこと、ママ友のこと、いっぱい楽しい話をしてくれて、娘のいない私は久しぶりの女子トークが楽しかった。

昨日の記事にはたくさんのコメントありがとうございました。

賛同するご意見のほかに、きれいごとなら無理に書かなくてもよいというアドバイスも。

一度はアップした記事、読むうちに自分自身が落ち込んで下書きに移していたけれど、誰を責めるのでもない、正直な気持ちを書くのも大切なことと思い直して再度上げます。

リアルな知り合いでこのブログ見ている人が一人いるけど、もういいわ。そういうことでご了承くださいということです。

 

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嫌いなことより好きなことを言う

2021-02-12 | 断想

あれも嫌い、これもダメでは人に好かれませんよね。

私、いい年してその傾向があるようです。そしてそれを口に出してしまう。

例えば吠える犬とか、うちの庭に糞する猫とか、公共の場所を自分の花畑にする人とか。

それは犬、猫、花が好きな人には嫌われ、そうでない人にも近寄りたくない人と思われるんだそうです。

確かに。嫌いは嫌いで仕方ない面もあるので、それは口に出さず、強引にでもいいところを見つけて言っておくといいそうです。

これはある方のブログから教えていただきました。

好きなことを語る・・・

何でしょうか。木と山野草、古い建物、着物、本・・・最近趣味が似た方のブログに時々お邪魔して、画像見るのが楽しい。暮らし、生き方のお手本にしたい方です。そういう出会いがあるのが、嬉しいきょうこの頃。

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友達の古民家カフェに行く

2021-02-11 | お出かけ

先日、二人展に来てくれた友達の古民家カフェに行きます。

場所は向原、都市高速下り損ねて山陽道に入ってしまい、志和から地道を向原まで。

運転したことない道で、夫は喜んでいます。

約一時間で到着。

蔵の向こうがが母屋です。

私は四回目くらい、夫は初めて。毎月、11日から13日と、第2と第3の日曜日に開いています。

ランチ、カフェ、ケーキや雑貨、洋服の販売があります。

平屋の広い母屋です。

お客さんは私たちだけ。大きなテーブルでいただきます。

室内の写真、なぜか前の写真も混ざってコラージュみたいに・・・why?

で、省略。

裏へ廻るとご主人が築いたピザ窯。ピザは第2と第3の日曜日です。

納屋の天井。白川郷みたい。

帰るころ、お客さんが増えてきました。

里山。二月はもう早春、春の息吹を感じます。

本日のお買い物。お嬢ちゃんお手製のフェルトのマット、四角なマドレーヌ、パンはピザ窯でお父さんが焼くのかしら。聞き漏らした。

きょうも着物着て行った。昨日と同じで、帯は紬の椿。コートなしで寒くもなく、春はそこまで。写真撮ったけど、うまく撮れなかったので省略。


一緒に車で外出するのは、11月の広域公園以来のはず。

「私はどこも痛くないけど、同世代で、あちこち痛くて歩けないという人もいる」と話したら、夫曰く「わしは背中と腰が痛い」と言う。

そうですか、腰と背中が痛いですか。それは大変ですね、と心の中で言っておく。。。。

施設から連絡があり、姑様が歯磨きのとき、口を固く閉じるので、口を開ける道具を使っていいかと連絡があったとか。膀胱炎はかかりつけ医が往診してくださったそうです。話を後で聞くだけの嫁。

介護の方のご苦労に頭が下がります。

 

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来るものは拒まず、去る者は追わず

2021-02-10 | 断想

桜の草履、おまけに紙風船が入っていた。懐かしい。

昔富山から来た薬売りの人によく貰っていた。

夫に話振ると「そんなん来んでえ」とのこと。そりゃそうだ。納得。


三男のブログ、前の記事がごっそりなくなっているのは、たぶん見られるのが嫌だから、特に私にだと思う。

面と向かっては素知らぬふり、してもう長い。息子の暮らしが分かっていいのだけど、お嫁ちゃんの両親と息子夫婦で旅行する記事は、息子の母親としてはちょっと寂しいかな。記事はもう消してあるけど。

息子によると、お母さんは肉が全然食べられない人で、その宿を探すのに苦労するそうで。寂しがっても何かが変わるわけではないので、いい関係を築いて、可愛がってもらっているようでよかったと思うことにした。

私が声かけたら、一緒に旅行行くのだろうか。多分行ってくれると思うけど、今度、思い切って言ってみようかな・・・

長男も、結婚当初は、元旦にはあちらの一家で集まって宮島かどこかの旅館で過ごすとかで、お正月、我が家でゆっくりしたことがなかった。

昔の姑なら、お正月は夫実家で過ごすべしと姑風吹かせたかもしれないけど、私は全然そんなこと言う気もなくて、放置していた。ちょっと寂しいけど、少し手伝ってくれても私が大変なことに変わりはないので、楽だと思うことにしていた。

それにお正月の宮島なんて、いくらするんでしょう。我が家は総勢9人、3万円として27万円だあ~無理無理。

でも時は流れ日は移り、お父さんは亡くなり、お母さんは年齢的にはちょっと早いけれど、認知症の症状が出始めて一人にしておけないので今は施設に。孫たちは遊びに行く祖父母の家が我が家だけになってしまった。お嫁さんにも「いつでも来てね」と言ってある。ちょっとかわいそうだけど、正直に言うならちょっとだけ嬉しい私。

人との付き合いは、相手のあることだから、自分ではどうすることもできないことも多い。でも時間が経てば流れが変わることもある。ずっと付き合う人との間では、自分の気持ちを棚上げして潮目が変わるのを待つ。それしかないですね。


先月、銀行ロビーで染めと織りの展示会の時には、姑様の作品見ていただきたかったのでいろいろな人に案内出した。

感想はメールや電話で、または口頭で言ってもらって嬉しかった。お隣の人はわざわざ我が家にまで感想言いに来てくれて感激した。

がん闘病中の友達、昔のママ友、ワカメ友達が来てくれたのも嬉しかった。

私のこと、友達としてこれからも付き合ってくれるサイン。我が家へ来てもらって話もした。

水彩画の友達にも案内したけれど、何人かで集まり、見て帰った・・・よかったとあとで電話くれたけど、なんか釈然としなかった。我が家は近いのだから、ちょっと声かけてくれたら、出かけたのに。そして、作品について話もしたかったのに。

私、嫌われているのかなと落ち込んだ。だとしたら原因は?

考えても分からないので、もう考えないけど、こちらが友達と思っているほどにはあちらは思ってなかったということでしょう。残念ながら。

それに、誰かのいない場所で、その人のことを話すのは、自分たちの絆を確認する快感もあるのでしょう。

もう一つのグループも声かけてくれればよかったのにと残念でならない。なんでかなあと思う。そのグループの中で居心地が悪くなって、初めに私が距離取ったので、相手も気を使ったのかもしれないけど、少しの時間も会いたくなかったのかしらと激しく落ち込んだ。私がいない方が盛り上がるのかなあと。いやいや、未練がましいのは私だけで、あちらにすれば私は過去の人?

人の付き合いはいつも流動的、縁の切れた場所からは離れるのがお互いのため。楽しかったこと、世話になったあれこれは忘れないけど、くよくよしても仕方ない。新たな一歩を。

これって、恋人と別れるときにも思うことでしょう。付き合うのは双方の合意、別れるのはどちらかが離れたいとおもった時。

いつまでも古い付き合いの中にとどまってないで、次の場面に行き、新しい人と出会いなさいという流れが来たのだと思うことにした。

そしてうーーーんと時間が経ったときには、また笑って会えそうな気がする。そう、高校の50周年の同窓会のように。あの時は楽しかった。

みんなおじいちゃん、おばあちゃんになってたーーーー。

でも、うーーーんとって何年後?

この歳ではもう後がないんですけど。

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着物で散歩

2021-02-10 | きもの

着物着たい、書店も行きたい、同時にすることにしました。着物着て本屋へ。

いいお天気で暖かいので駅前のエールエールA館まで。

本日はこちら。

雪輪にツタ模様の大島、紬地の絞りの帯。

バッグは自作のこちら。工作下手で歪んでいる。。。

草履はこちら。案外、穿きやすい。

新幹線口。

広島ガーデンテラスまで歩いて行ってみる。できたころ、同業者の奥様方との食事会で和食店に行ったのは、かれこれ30年近く前。それ以来。

お弁当持ち帰り、カレー(持ち帰り?)500円などの招き看板いろいろ、新幹線口からちょっと歩くから経営的にも大変なんだろうなあと。

和室で一人で泊まって5千円代、行こうかな~と思いつつ、踏んぎれない。

近くの、知り合いの先生のクリニックは週の半分くらい休診になっていた。我が地元でも午後は休む医院もあり、これもコロナの影響でしょうか。

これはもう相当長期戦になりそうです。どうすればいいんでしょうか。


駅裏。昔は広島東練兵場。それを耕して畑にする作業中に、たくさんの動員学徒が被爆した。。。。。って見てきたように。

国鉄の土地は少しずつ民間に払い下げられて、今はマンションやホテルなども増えました。

本は結局駅ビルの中で買った。エールエール館のジュンク堂まで行かず。

ジェラート食べる気になったのは春が近いから?

ドライフラワーいろいろ。

こちらも。地下二階、エールエールA館入口右。

小さな店で時々業態が変わる。女性には入りやすい店。

毎日少しずつ春、庭のクリスマスローズのつぼみも大きくなった。そろそろ庭掃除もしないと・・・

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「しょぼい生活革命」内田樹 えらいてんちょう

2021-02-10 | 読書

面白い本でした。305ぺージあるけど、割とすんなり読めました。

えらいてんちょうはHNで、本名は矢内東紀、ネット上では有名な人のようです。全然知りませんでした。

両親は東大全共闘の生き残り、(節を曲げず社会に妥協せずに生きるという意味)沖縄で集団で農業したり、東京に戻って商売したりしながら緩やかな家族として今も集団が続いている。

小さいころは誰がお母さんか知らないと言う暮らし方をしたそうで、その話に私はとても興味を持った。

二、三年前から、いろいろ著作があったらしいのに全然知らなかった。

その人となりは詳しくはこちらへ。

起業のヒントは「寅さん」にあった えらいてんちょうさん「しょぼい起業で生きていく」|好書好日 (asahi.com)

発想がものすごく柔軟。勉強していい会社に入って勤勉に働いて・・・ということをしなくても、自分の知恵、才覚、人とのつながりで自分の好きなことをして結婚もして妻子に食べさせつつ、またまた新しいことをしていく。

ものすごくしなやかな人。

内田樹氏はこれまた既成の常識をひっくり返して、来るべきこの国と世界へ提言いろいろする人で、年は40歳も離れているけれど、お二人のユニークな考えがスパークして、私の目からは鱗落ちまくりの、凝り固まったものの見方が激しくゆすぶられて楽になるという楽しい読書体験でした。

前後の脈絡なく、印象に残ったフレーズ、いろいろ挙げてみます。

内田「日本のためになんて言っている連中は具体的には誰を支援する気もないんです。・・・彼らがナショナリストなのは、国家を忠誠の対象にしておくと、何の具体的な責務も発生しないからなんです」103P

内田 「家長が責任を果たすより、権限をふるって威圧的に臨むことを優先させると家父長制は崩壊する・・・適切な礼儀正しさが(必要)」

・・・・・

ここまで書いて来て面倒になったのであとは省略。

日本は中国に追い抜かれ、韓国ももう政治経済で日本を抜きつある。と内田氏。この本は新型コロナが流行る前、昨年一月に発刊、対談はもっと前だけど、この間の日本政府の対応を見ると、中国、韓国、国の体制は違うけど、きちんとしているのかなあと、私などは思ってしまう。

最後に日本とアジアのあるべき未来として、日本は中国、アメリカの二つの大国の間にあって、アメリカ一辺倒ではなく、他の東アジアの国々と連帯して、この地域のバランスを考えるべきとの考えに深く共感した。


東大の安田講堂が封鎖解除になったのは1969年の1月半ば、成人の日前後だったと記憶している。

あれから50年以上、久しぶりに東大全共闘と言う言葉を聞き、ギヨッとしたけれど、既成の価値を軽やかにひっくり返し乗り越えていく今の時代の1人の若者に、あの精神は受け継がれているのかなと思った次第。

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草履が届いた

2021-02-09 | きもの

普段履きの草履が届きました。

鼻緒は桜とトンボ。

ネット通販で、別々なところで買う。

トンボはキャンセルしたつもりだったけど、できてなくて届いた。

めんどくさいのでもう送り返さず、二足を場面に応じて履き分ける。

横。

裏。左は鼻緒が挿げ替えられる。右は雨に強いそうですが、鼻緒の調整はできない。

履いてみます。鼻緒の色が好きです。鼻緒が太くて履きやすい。

ちょっと固め。

今履いている普段履きはもう10年くらい前のもので、だいぶくたぶれてきたので、この二足を履きましょう。


ひな人形出したついでに、着物出してみました。

絵羽織と中振袖。

昭和の中振袖。出したのは約半世紀ぶり。柄がいかにもレトロ。

こちらも古典柄。一度も着たことなくてまだ仕付けが付いている。

もう着ることはなくて、インテリア用で終わる予感。


次に着たいのは

こんな組み合わせ。

出したままで、なかなか着られない。午前中に着ないと、午後からは、まあいいわ、明日でとなってしまう。

いつ着ようかな・・・

コメント (2)
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なぜ「活動家」と名乗るのか: 岩盤を穿つ 湯浅誠

2021-02-09 | 読書

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著者の名前を初めて知ったのは、リーマンショック後の不況で派遣切りに遭った人たちが、年末行き場をなくし、その救済策として、食料や寝る場所を提供する運動で。

確か2007年前後だったと思う。

年越し村と言う名前だったと記憶しているけれど、その運動の中心だった1人。

東大の院を中退した後は、山谷で便利屋を始めたり、貧困者の支援運動にずっとかかわってきた人。

年越し村の後、岩波新書で「半貧困」を著し、それは大佛次郎論壇賞に輝いて、その後民主党政権で内閣参与になり、政権の内側から政策に対して提言することもされていたと思う。

私はこのころ、広島であった著者の講演会に行ったことがある。大変にわかりやすく、かつ説得力のあるお話だった。

貧困と言うのなかなか目に見えてこないけれど、今日の食べ物にも困る、寝るところもない人は層として確かに存在している。自分とは関係ないと無関心、放置していれば、やがて普通の暮らしをしている人の労働力も買いたたかれ、貧困へと向かう。

人との縁が薄い人が、一度社会から滑り落ち始めると、元へ戻るのは容易ではない。それを自分の問題として、社会全体で考え、支えなければならない・・・というお話だったかと思う。

この本は当時、新聞や雑誌などに寄せた短文を集めたもので、内容的には「半貧困」と重なる部分もあるけれど、生活保護の申請の場面での自治体との攻防、行き場のない非正規労働者の困窮など、現場で支援してきた著者の話は具体的。

本当に困った人は助けを求める気力さえなくしているんだなと、思った。当時、生活保護が認められず、おにぎり食べたいと遺書残して餓死した人の話が話題になったこともある。

野宿生活者を集めてアパートに住まわせ、生活保護を申請させ、殆どを取り上げる貧困ビジネスのからくりもこの本には詳しい。

翻って10年以上経った現代の話である。貧困はなくならず、むしろ拡大しているはず。飲食業、物販、製造業の非正規労働者など、一番支援の必要な人に支援が届いていないのではないか。と思う。

オリンピックなんて本当にどうでもいい。Go Toも、私は旅行行きまくったので、えらそげに言えないけど、本当に支援の必要なのは旅行に行けない人。一番底辺にいる人になぜ支援が届かないのだろうかと思う。

誰か政治家の方、本気でやってください。

とりあえず、私はこども食堂にまた寄附したいと思っています。

 

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