宇品とは広島デルタの南端、広島港に臨む一帯を指す。元は遠浅の海で明治時代に埋め立てられ、港が作られた。
日清戦争のときには、広島まで開通していた山陽本線、突貫工事で広島駅から宇品を結ぶ宇品線を利用して、宇品港から大陸へ兵士や武器、食糧などが朝鮮半島に送られた。
以後太平洋戦争が終わるまでの約50年間、宇品港は陸軍の海上輸送の港として、重要な役割を果たす。
ここに置かれたのが陸軍船舶司令部で、海外派兵の最前線でもあった。
この本は8日の日曜日に息子が「お母さんへのプレゼント」と言って持ってきて、その前のお嫁ちゃん情報で何か本をくれるらしいと聞き、「読みたくない本もらっても」と思っていたけれど、案に相違して大変面白く、360ページ余りの本を4日間で読んだ。
先の戦争に関する本は膨大な数が出ているけれど、これはロジスティクス、兵站という観点から戦争の実態を明らかにしようとする労作。
著者は広島県生まれで、2004年まで地元で新聞放送記者をしていたという。たくさんの資料を駆使して船舶司令部の誕生から消滅までを辿っている。
陸軍船舶司令部・・・この矛盾した名前。陸軍なのになんで船がいる?
とここではたと思い当たる。日本は島国なので外地で戦争する場合、何から何まで船で運ばないといけないという事情。それを考えたら、作戦を練るのは東京の参謀本部としても、実際の実務は広島の司令部ということになる。
必要とされるのは軍人精神よりも、実務能力。司令長官は船の調達、後には開発、敵地での荷揚げの計画、などたくさんの仕事がある。
司令部の発展の基礎を作ったのは二代目長官の田尻昌次、船舶の数を増やし、上陸用舟艇の改良に勤め、上海事変では前もって現地調査をして船をつける場所を決め、見事な上陸作戦で世界中を驚かしたとか。
しかし、日本に資源が乏しく、資源を輸入するにも、海外に戦線を広げるにも何よりも船がなければ話にならない。その貧弱さを一番よく知っているのが陸軍船舶司令部で、その長官でもあった。また民間の船も徴用されて国内産業にもやがて支障が出始める。
中国戦線が膠着し、それを打開するために東南アジアへ戦線を広げて資源を日本に持って来る。参謀本部の方針がその流れになりかかった1939年、田尻は南進論に反対する上申書を陸軍中枢のほか関係各省庁に送る。
そしてそれがきっかけとなって軍務を解かれる。民間で言うと解雇。直前の倉庫火災の引責辞任という形だけど、本当はこの上申書が陸軍の方針と違っていたからではと本書では示唆している。
その田尻司令官の字で書かれた石碑が近所に残っています。
長い間に傾いていますが、この公園のあった場所に司令部があったそうです。
場所は雑貨などのカクタスの北側、宇品中央公園あたりです。
同じ公園の中にこちらの石碑も。
今は人気のない公園ですが、ここが日本陸軍の兵站の中枢部。知らなかったとはいえ、いやはや我が無知を恥じるのみ。
整備されたのはこの20年くらいの間。その前は広大な空き地にススキが生え、廃車があったり、バラックの建物が少しあったり、湿地帯もあったりで近寄りたくない場所でした。
他はこちらで。
広島港の朝焼け - ブログ (goo.ne.jp)
田尻昌次長官の後に来たのが佐伯文郎。戦線は広がり船は足りず、船を作る物資もなく、その苦心ぶりは目を覆いたくなるほど。民間の小さな船を船員ごと徴用、南方に兵士、武器、食糧を送ってもあとの補給が続かない。
海軍は海戦用の船は持つが輸送船は持たない。護衛には古い遅い船しか出さない。
もうお・・・・どう考えたって戦争は無理。無理だけど、現場を知らない軍の中枢が無理な戦争をする。
佐伯は穏やかな人柄で、船員の死も軍人と同じに保障してほしいと上申したり、出征兵士をこまめに見送り激励したりしている。しかしどう考えても戦争を続けるのは無理。
やがて二人乗りの舟に自動車のエンジンを積み、敵の舟に体当たりする作戦を船舶司令部では考える。そのための10代の生徒を全国から集めて訓練する。
私は光市の1人乗りの特攻舟や海に潜って敵を一人で迎え撃つ「伏龍作戦」というのは知っていたけど、この作戦は初めて知った。
小豆島の隣の豊島、宇品港に近い島や各所で訓練していたそうな。人の命が紙クズよりも軽い時代。
そして広島は1945年の8月6日を迎える。
突然の閃光に爆風、宇品は市中心部から4キロくらい離れていて被害は軽微、佐伯司令官はまず市内に偵察を出し、尋常ならざる被害と知ると、全軍を民間人の救済に投入する。船で川をさかのぼって被災者の救出、消火活動、道路の確保、軍の食料の放出、炊き出し、などなど。
そして各部隊に筆記具を持たせ、記録を取らせる。死亡者の氏名、分からないときは特徴や遺品の保管になど。宇品ではなくて、今の市庁舎のある国泰寺まで行って外枠だけになった市庁舎に蓆をしいて寝起きして指揮を執る。
敗戦までのこの足掛け10日間の働きは、目覚ましいものがあると私も思う。
著者は佐伯文郎は関東大震災を軍人として経験し、民間の救出に当たったからではないかと類推する。
佐伯はB級戦犯として1957年まで入獄し、仮釈放の後の1958年4月13日、宇品の千暁寺で開かれた「暁部隊戦没者英霊の追悼法要」に参加し、長い弔辞を読む。そこでやっと佐伯司令官の戦争は終わる。
このお寺は宇品の埋め立てをした千田貞暁から字を取ったもので、港に近く、外地から帰った遺骨はまずここに納められたそうです。
それは知っていたけど、法要のことは知らんかった。コロナで写経休んでいたけど、今月は千暁寺の写経に行く予定です。
大変に面白く読みました。
人は生まれる場所と時代を選べない。
戦争はよくないけれど、貧しい家の優秀な子弟が軍に入り、傍系ゆえに広島へ来て実務に携わる。善意で仕事を極めてもどうしようもないこともある。その中でもよく頑張ったと思う。
特に被爆者の救援は、力を温存するためには適当にしていてもよかったのだとこの本にある。現に江田島の海軍兵学校からはただの1人も被爆者の救援に出ていないそうで、そんなことでいいんかなとばあちゃんは思いました。